弦と息の地
南溟に旅立つと決めた羋蒼旅は今、敖虎、蔿峨と共に、武郢の南にある弦という地を訪れていた。
ここはかつて、養氏の食邑であった地である。そして今、羋蒼旅の臣の一人たる養叔由が修練を行っている地でもあった。
弦弓息矢と言い、茨国において弓といえば弦の地、矢は息という地の物が最も良いと言われているのだ。ちなみに弦のすぐ東に息の地がある。息の地も、かつては養氏の食邑であった。
「叔由どのはおそらく、弦の地を踏んだことはないはずです。それでもやはり、養氏の人にとって弦の地は特別なのでしょうね」
蔿峨はしみじみと言った。
衛尉、蔿鈎の息女にして剣と矛とを操る武人でもある彼女は、今は不在の闘炎淑に代わって羋蒼旅の護衛として同行しているのだ。
ちなみに蔿峨が、養叔由は弦の地を踏んだことがないはずだと言ったのにはわけがある。
養氏はかつて、茨国で王室と闘氏の対立が起きた時に、闘氏の与党と見なされて族滅の憂き目を受けた。当然、弦と息の地は王室に接収されている。それは養叔由の生まれる前のことであり、その地にいた養氏は逃散したに違いないと考えたのだ。
しかし、そうではないのである。敖虎が口を挟んだ。
「叔由どのの母は、密かに弦の地の山中に棲み、叔由どのを育てられたとのことにございます」
「ほう。よく、そのような危険を冒したものだな」
羋蒼旅が怪訝の声を出した。
「どうしてそのようなことになったのかまでは、教えてもらえませんでした。しかし十の齢までを弦の山野で暮らし、その後、祖父の伝手で闘氏を頼ったと聞いております」
「それは、敖賈が知らぬふりをしておったのではないか?」
「そうかもしれませんね」
三人はさらに車を進め、ようやく弦の地についた。
弦、息は養氏の食邑であると書いたが、今は王室の領となっている。しかし、羋蒼旅が服喪を終えて聴政を行うようになれば、養叔由に与えて養氏を再興させるつもりであった。これは敖賈の進言であるが、羋蒼旅としても異論はない。
そもそも養氏は、茨国における旧家の一つである。名家である闘氏と敖氏は、元を正せば茨王室から分かれて起きた家であるが、養氏は弦、息の地を居とする土豪であり、始めは茨の付庸国だったのだが、武王の代になって茨王室に臣従するようになった。
茨国には、臣に与えた土地は二代で没収するという法がある。しかし養氏の弦、息の地に関してはその法の限りに非ずと武王は布告を出していた。養氏がこの地に固執したのか、武王が養氏に配慮したのかは定かではないが、養氏にとってこの二つの地が特別であることだけは確かである。
弦の地に荊山という地がある。養叔由はその山に籠って修行をしていると羋蒼旅は聞いていた。
「荊という字は茨に通じます。茨国にとって何か特別な山なのでしょうか?」
険しく、道ならぬ切り立った岩場を進みながら、敖虎がそのようなことを言った。
「かつてこの地には夸父という者がおり、弓を取って並ぶ者はなかったそうにございます。その弟子のうち一人は北に赴き、天日を落としたのだとか」
「それは、雷衝動を得たという北方の勇士ですか? 射日の伝承は知っていますが、それを為した者の名は初めて聞きました」
「ほう、敖虎の知らぬことを知っておるとは、蔿峨は博識だな」
軽敏な動きで二人を先導する蔿峨に、二人は感心していた。
「私の知識は、すべて母から教えられたものです。ですが、それが正しいかどうかはわかりません」
「土着の伝承や神話というのは、そういうものでしょう」
蔿峨は謙遜したように言うが、敖虎はいっそう感心していた。敖虎は書簡に記された知識には通暁しているが、その地に根付いた神話などには疎かった。
「敖虎はそういうのが好きだな」
「ええ。この広い茨国各地の神話などを纏めた書というものがあればよいのに、と常々思っております」
「ならばおぬしが作ればよいではないか」
「いずれそのうちに、ですね。我が君が楽隠居を許していただけるのであればその時にでも考えると致しましょう」
無垢に、そして他人事のような口ぶりの羋蒼旅を見て、敖虎は苦笑を浮かべた。各地を逍遥し、その土地ごとの伝承を調べ上げて纏める。そういう、きままな処士のような日々への憧れはあるが、しかし今の敖虎はまだとても、この弟のような主君から離れることは出来そうになかった。
荊山を登ってゆくと、断崖が見えた。
そこに養叔由の姿がある。左手に弓を持ち、右手は箙の矢に添えたまま直立していた。
その立ち姿というのが、とても厳粛なものであり、三人は声を掛けられずにいた。養叔由は微動だにせず、ただ虚空を見つめているように、羋蒼旅と敖虎には思えた。
一人、蔿峨だけは、
「視線の先に蜻蛉がいますね」
と言った。
しかし二人にはそのようなものは見えない。よくよく凝視すると、確かに断崖の先に何かが飛んでいるようには思えるのだが、それが蜻蛉かまではわからない。
暫く眺めていると、不意に養叔由が矢を放った。
かと思うと、即座にまた箙に手を伸ばしたところで、その動きが硬直した。
その手には銀目の蜻蛉が止まっていた。




