南溟の伝説
かつて、まだ焱が天下を統治するより前のことである。
大陸は四つの海と九つの州に別たれていて、地上に人はいなかった。
しかしある時、天変地異が起き、大陸は蹂躙されて天地は乱れ、荒廃してしまったという。
当時、大陸を支配していたのは五体の龍と呼ばれる生き物だった。蛇のような長駆と巨大な体を持ち、空を自在に泳ぐ天霊の化身である。
荒廃した大地を見て困窮した龍たちは、臣に命じて復興の担い手たる下僕を造らせた。こうして生まれたのが人である。
しかしやがてその臣は、下僕として生み出したはずの人を慈しむようになった。そこでついに、人を率いて龍に反攻したのである。
戦いは熾烈を極め、やがて龍も人も、その臣も悉くが斃れた。そこでかつて龍の臣であった者の子たちは再び人を造り、大陸を再興した。
しかし龍たちは完全には滅んでおらず、地の底に潜んでいずれ雪辱を晴らさんとしている。そのために、北地の死者の魂は龍の下僕の虎と鬼とが狩り取り、南地の死者の魂は龍の咆哮によって南溟の地に流されるのだ。
これが、莫耶が羋蒼旅らに語った死の国についての話である。聞き終えた三人はどう言葉を返してよいか分からなかった。
「ええと、莫耶どの……?」
「なんだ、敖の孫?」
遠慮がちな声が漏れる。三人の中で話の咀嚼が早かったのは敖虎であった。
「つまり、その龍なる怪物の統治する死の国が今も南の果てにあるということですか?」
「ああ、そうだ。といっても、どれだけ神話を語ったところで実在を示すことにはならないがな。つまるところ、信じて赴くかどうかはお前たちの胸三寸ということになる」
莫耶の言うことは正しい。そもそも莫耶としては、羋蒼旅らが死の国のことを信じようが信じまいが、どちらでもよいのである。
判じかねて敖虎が横を見ると、羋蒼旅は腕組みをしており、闘炎淑は目を細めて莫耶を睨んでいる。闘炎淑は妄言と切り捨てているらしいが、羋蒼旅は信じてよいか悩んでいた。
「のう敖虎よ。どう思う?」
「なかなか、答えにくい諮詢でございますな」
「そうであろうの。しかし私としても、これを一人でどう受け止めてよいか分からぬのだ。そも、私に『南溟伝』を読ませたのはおぬしであろう」
そう言われてしまうと弱い。敖虎としても、まさかこのようなことになるとは思っていなかったのだ。いいや、『南溟伝』を見せた時には後のことなど何も考えておらず、ただ少しでも傷心の主君を励ますことが出来ればとしか思っていなかったのだ。
「どうした、孺子。先ほどの啖呵は虚勢か? お前たちの見識からすれば信じられぬというのも分かるが、そのような惰弱では、武王を凌ぐことなど出来ないぞ」
「……そうじゃの。うむ、決めた。私は南溟の地へ赴く。おぬしらは供をせよ、虎に炎淑よ。これは王命であり、背くことは許さぬぞ!!」
羋蒼旅は言い放った。
闘炎淑は怪訝な顔をしていて、何か言いたそうであったが、敖虎は諭すように、
「こうと言い出せば、我が君はもう聞いてはくださいませんよ」
と言った。
「諫めずともよいのか?」
「時と労力の無駄です」
「しかし、南溟への旅路とやらがどれほどのものかは分からぬが、即位したばかりの王が長きに渡って国を空けるというのはよくないのではないのか?」
「そのあたりは、柱国どのと祖父に任せるより他にありますまい。元より、王は三年の喪に服されることになっております。姿が見えずとも、廷臣たちが不審がることはないでしょう」
それでもなお、羋蒼旅が国を不在にすることへの危殆は敖虎にもある。それでも、羋蒼旅を説き伏せて南溟行きを諦めさせようという気にはならなかった。
それよりも敖虎が意外であったのは、
「貴方は旅路の苦難よりも、留守中の武郢のことを憂うのですね」
ということであった。氏族としても人としても、心の秤が政治より武に傾いているこの男らしくない懸念だと感じたのである。
そう言われた闘炎淑は、横目で敖虎を睨んだ。
「私が供をするのだから、その旅路に危険などあるはずがないだろう」
「頼もしい言葉ですね。その自負が傲りでないことを願いますよ」
軽口ではあるが、本心でもあった。南溟への旅を止めることは出来ずとも、その旅が死地へ足を向ける行為であることに違いはないのだ。
そして、臣たちのそのような憂慮など意に介さず、羋蒼旅は二人を見た。
「そうとなればさっそく武郢に戻るぞ。旅の支度を整えねばならぬからの」
羋蒼旅は莫耶に謝辞を述べると、風のような速さで飛び出して行った。敖虎と闘炎淑もその後を追う。急いで下山した三人は、一路、武郢へと帰った。
そして、ひとまず敖賈を訪ねることとした。南溟への旅立ちを決めたことを告げ、留守の間の国事を託すためである。
莫耶のことを教えてくれたのだから、反対はされないだろうと羋蒼旅は思っていた。だが敖氏の邸宅の前に着くと、そこには一人の女性が立っていたのである。
「おう、遅かったじゃないか――」
「……莫耶、どの?」
そこにいたのは“錬華の賢者”、莫耶であった。
「おぬし、何故ここにおる?」
「それに、玄月山から武郢までは車を使っても三日はかかるはずですが?」
羋蒼旅と敖虎は驚の声を挙げたが、莫耶は、そんな二人を眺めて哂笑した。
「それはもちろん、お前たちの南溟行に同行してやるために決まっているだろう。後は――くたばる前に、敖孺子の顔を見てやろうと思ってな」




