錬華の賢者
山棲の賢者というからには、羋蒼旅たちは長髭を生やした老人のような者を想像していた。しかし三人の前に顕れた“錬華の賢者”は若い女の姿をしていたのである。
口元を隠していた布を取り、外套を取り払った彼女は、まるで神話から抜け出してきたかのような妖艶さを持つ美女だったのである。
その華麗さたるや、何に喩えてよいか分からず、ただ美しいとしか言えぬものであり、三人は暫し茫然としていた。
やがて、いち早く理性を取り戻した敖虎が、
「莫耶と名乗られましたが、貴女はもしやかの刀匠莫耶の裔孫であられますか?」
「さて、どの莫耶のことかな?」
「錬鉄の大家、郭冶干の師と伝わるあの莫耶です」
茨国には郭冶干と呼ばれる錬鉄の祖といえる存在がいる。“鉄を打ち刃を研ぐこと郭冶干に如しくは無し”と評された人であり、その子孫は今日、郭門と呼ばれ、鍛える鉄器はいずも高値で扱われていた。
その郭冶干には莫耶という師がおり、山中にて師事すること十年にして製鉄の妙を授かったという伝承があった。実在の定かではない人であるが、その伝承は真実であり、眼前にいる“錬華の賢者”はその末裔ではないかと敖虎は思ったのである。
「ああ、郭の若造か。嘴の青い雛と思っていたが、今や大陸にその名声を轟かせているらしいな。まったく、世の中というのは分からぬものだ」
“錬華の賢者”――莫耶は哄笑した。敖虎は思わす眉宇を狭める。
「なんですか、その口ぶりだとまるで貴女が――」
「ん? ああ、そうだとも。私がその莫耶さ」
「狂言も大概にしていただきたい!!」
敖虎は堪らず叫んだ。
郭冶干は今より百年は昔の人物である。となると当然、その師たる莫耶が生きているとは思えず、かりに生きていたとしてもこのような若さであるはずがない。三人の前にいる莫耶は、どう見ても三十路にすら届かぬくらいの容姿なのだ。
故実に通暁していない羋蒼旅と闘炎淑も、莫耶と名乗る女の奇異は悟った。しかし当の莫耶はそのようなことなど意に介さず、何かに気付いたように敖虎に顔を近づけた。
「ところでお前、昔の知己に似ているな。もしやお前の父か叔父に、敖賈という奴はいないか?」
「敖賈は私の祖父ですが……」
聞くと、莫耶は噴き出した。
「そうか、あの孺子が知らぬうちに爺さまか!! まったく、巷間の時とは私の知らぬところで流れているものだな!!」
腹を抑え、痛快さを隠そうともせず笑う莫耶を見て、羋蒼旅ら三人は困惑を隠せなかった。
莫耶から離れ、肩を寄せ合って密談を始めたのである。
「のう、虎に炎淑よ。あの女をどう見る?」
「さて、どう見たものでしょうか……?」
「恐れながら、王におかれましては、死の国のことなど失念され、父王の喪に服されるがよろしいのではないでしょうか?」
敖虎も闘炎淑も、莫耶に対して怪訝しか向けていない。南方にある死の国のことを尋ねるためにここまで足を運んだのだが、徒労であったと諦めたほうがよいのではないかという気さえしてきている。
「王もこれで夢想が醒めたのではありますまいか? ここにおるは、己を神話の人物と混同させた狂人でございましょう」
闘炎淑はいつになく辛辣であった。しかし莫耶という女を見ればその言も真っ当なものに聞こえてくる。
このまま引き返そうかと考えていると、ようやく笑いの引いた莫耶が近づいてきた。
「ところでお前、賈の孺子の孫ならば、私について何か聞いてきたんじゃないのか?」
「ええ、まあ……南の果てにある死の国について知る隠棲の賢者である、とだけは」
「なんだ、それだけか。あいつめ、知らぬうちに随分と性根が捻じくれたらしいな」
大仰に憤慨しつつ、莫耶は三人を手招いた。ついて来いと誘っているらしい。
羋蒼旅らは恐る恐る、その後に続いた。
それから四半刻(三十分)ほど歩くと、やがて開けた所に出た。小さな庵があり、しかし他には何もない殺風景なところである。
庵の中に入ると、そこには炉があり金床があり、壁には所狭しと武具が並んでいる異様な鍛冶場があった。
どうしていいか分からず、敖虎は戸惑いつつも、敖賈から託された書簡を手渡した。莫耶は一瞥して、ふん、と鼻を鳴らした。
「あいつめ、大過なく令尹をやり終えたか。まあ、よくやったと称めてやるべきなのだろうな」
書簡を投げ出し、槐の椅子に腰掛けて足を組んだ莫耶は、呆れたような声を出した。
ちなみに羋蒼旅たちは敷くものもない土間に着座している。
莫耶の話を信じるのであれば、この女は少なくとも百年を越える時を生きているということとなる。未だ半信半疑ではあるが、確かに、滲み出る所作や言動はどこか年寄りくさかった。
「それで、お前らは南溟を求めているらしいな?」
「うむ。しかし、そのようなものはあるのか?」
羋蒼旅の問いに、莫耶は気怠げに頷いた。
「あるさ。『南溟伝』は妄言を連ねた戯書じゃない。かつてある阿呆が実際にその地を歩いて連ねた紀行だ。だがその道を踏破するは途方もない艱難だぞ。お前たちは、それを踏まえた上でなお南溟を求めるというのか?」
値踏みするような睥睨である。その凄みを目の当たりにした羋蒼旅は、なるほどこの女は死の国について知っているのではないかと思わざるを得なかった。
そして、
――覚悟を試されている。
とも感じたのである。
南方九万里の死の国へ、ただ兄の謀反の真意を知るためだけに赴く決意があるのかと問いかけられていた。
その試すような視線を悟った上で、羋蒼旅は言い放った。
「私は、それでも南溟へ行く。私は先に臣たちに、武王を凌ぐ王になると誓った。であれば、どうして未開の地への旅路を畏れようか!!」
「ほう、武王を凌ぐとは。いい啖呵だ、気に入った」
莫耶は闊達な笑みを浮かべた。虚飾のない、心からの笑貌である。
「ならば教えてやろうじゃないか。お前たちの望む南溟――死の国について」




