敖虎と闘炎淑
地を焦がすような夏の暑さは過ぎ去り、吹き抜ける風は冬の寒さを運ぶのに備えるように少しずつ冷ややかさを増していた。
ちょうど心地よい季秋(九月)の風を受けながら、羋蒼旅は敖虎と闘炎淑を従えて武郢から東へと車を走らせている。
茨国より遥か南にあるという死の国について知るという“錬華の賢者”なる者を訪ねるためであった。
その者の棲むという玄月山は武郢から三日ほどの距離である。短い旅路ではあるが、王都を離れて広土の風を受けるのは、羋蒼旅と敖虎には心地よかった。未だ乱の傷跡が深く残る武郢にいると、否応なしに乱で失った親族のことを思い出してしまうからだ。
「しかし、死の国に“錬華の賢者”ですか。なんとも胡乱な話ですな」
闘炎淑が怪訝を発した。無論、羋蒼旅とてそれらを完全に信じているわけではない。しかし、そういったものにでも縋りたくなるほどに、羋烙漣の遺した傷は深いのである。
「そういうことを言うのであれば、貴方は南の果ての地を見てそこに死の国がないことを確かめたことがあるのですか?」
敖虎が舌鋒鋭く闘炎淑に言う。闘炎淑は慍として口を歪めた。
「見たことはないが、魂は死せば江を渡り空へ昇るものだ。南の果てへ向かうなどという話は聞いたことがない」
「貴方の知見が世のすべてではありますまい」
「そういうことを言うのであれば、お前は死の国を見たことがあるのだろうな?」
「ありませんが、その真偽を確かめるために玄月山に向かっているのではありませんか。戦いで敵の機先を挫くのはよいですが、新たな展望を見出さんとしておられる我が君の出鼻を挫くのはやめていただきたい」
「あるかどうかも分からぬものに心を砕くは愚であろう」
二人は終始、このような調子である。はじめのうちこそ微笑ましく聞いていた羋蒼旅も、次第にうんざりとしてきた。
――しかしまあ、とりあえず岱伯のことは忘れておるようだ。
そこだけは安堵した。闘炎淑が、刺客となって羋蒼旅を襲った敖虎の兄、敖岱伯を殺したこともあり、乱終結の後、二人はどこか互いを避けていた。
しかし今は出会った時のように悪態をつきあっている。
完全に忘れ去ったということはないのだろう。敖虎も闘炎淑も、それが臣として正しい行いであったことは認めている。その上で、なお割り切れぬ想いがあり、それは一朝にて氷解するようなものではなかった。
それでも、ひとまずはこれでよい。
かつて養叔由は敖氏と闘氏を車騎の両輪と評した。羋蒼旅という新王を乗せた車はまだ走り出したばかりであり、融和を時に任せることも必要なのである。
その後も二人の喧々諤々の舌戦は、飽きることなく繰り広げられた。
ここまでくると、二人とも楽しんでいるのではないかという気さえしてくる。羋蒼旅はいらぬ容喙を避けつつ、ぼんやりと車に揺られながら時が経つのを待った。
そうして三日目に、ついに玄月山に着いた。
隠棲の賢者が棲むというには、ありふれた山である。敖虎はこの山のことを知ってはいたが、賢者がいるなどという話は聞いたことがなかった。
山道は険しく、車では進めそうにない。幸いにして半日もあれば登れそうな山なので、麓に車を繋ぎ徒歩で進むことにした。
闘炎淑は先陣として、手にした長戈を構えつつ進んでいく。その後を羋蒼旅と敖虎が続いた。
「しかし王は健脚であらせられますな」
それなりに険しい山道を一刻(二時間)ほど歩いている。羋蒼旅は息を切らしつつも、足を止めようとはしなかった。そんな君主を見て、闘炎淑は感心したように言った。
「まぁ、幼き頃より山野を駆け回っておったからの。しかし……流石に少し休むとするか。このままでは敖虎が倒れてしまうやもしれんからの」
「お気遣いは、無用にございます……」
敖虎も、それなりに疲労している。しかし実際は、羋蒼旅が休むための口実にしたいのだろうというのは明らかであり、遠慮するようなことを言った。
だが、敖虎が疲れていることに違いはない。闘炎淑はここぞとばかりに得意気な顔をして、
「よろしければ背負って差し上げようか、先輩どの」
と言ったが、敖虎はかえって意地を張り、荒い息のままに歩き続けたのである。
しかし、考えなしに意地で歩いてしまったため、やがて体が追いつかなくなってしまったのである。見かねた闘炎淑は敖虎の許しを得ずにその体を担いで歩き始めた。
敖虎は苦言を呈したが、
「このままでは日が暮れてしまうのでな」
と言ってそのまま歩き続けたのである。
――しまったな。私も、担いでもらえばよかった。
羋蒼旅はそう考えたが、もう遅い。休息も取れず、羋蒼旅たちはさらに半刻(一時間)ほど歩き続けた。
ところが不意に、闘炎淑が足を止めた。そして敖虎を静かに下ろすと、手で羋蒼旅を制しつつ長戈を構えたのである。
「どうした、炎淑よ?」
「――何者かに狙われております」
そう言われても羋蒼旅は何も思わなかった。しかし闘炎淑の機敏な感性は敵意を感じたらしい。
直後、獣の駆けるような音がしたかと思うと、側方から黒い影が飛び出した。その手には長物が握られており、白く輝く穂先は羋蒼旅に向けられている。
闘炎淑は長戈を振るった。二つの鉄が衝突する鈍い音が響く。そこから、打ち合いとなった。
襲撃者は黒い外套を身に纏っており、口元を布で隠していて正体が判然としない。一つだけ言えるのは、その手に持った矛の突きは鋭く、尋常ならざる武者であるということだけだった。
闘炎淑の手にしている長戈は敵を払い、掛けることには長けているが、打ち合いとなると不利である。闘炎淑は長戈を捨て、腰の剣を抜き放って応戦した。
長柄の利は失われたが、剣を手にしてからのほうが戦いになっている。
襲撃者の矛が流麗な水であれば、闘炎淑の剣は苛烈な炎である。互いに圧し切れぬが、退けも取らぬ拮抗した状態となった。
しかしやがて、襲撃者は急に矛を引き、動きを止めた。
闘炎淑は警戒しつつ、襲撃者を睨みつけている。
「なるほど。それなりの技倆はあるらしいな」
玲瓏な女の声である。
「いいだろう。この“錬華の賢者”――莫耶の領に立ち入ることを許してやる」
それはとても美しく、傲岸な笑声であった。




