終則有始、天行也
“遥か南、九万里の果てに南溟あり。
寂莫として、しかし騒然たる天地開闢の溟なり。
十六の石兵、九の鴉、千の兵戈を越えた後にある死者の国なり。
その魄朽ちるとも黄泉に赴けぬ魂の集う地である”
かつて大陸に焱という王朝があった。しかし焱では暴虐の王が現れ、やがて虞という国が焱を破って新たな王朝を樹立した。虞に与した者たちは大陸各地に封建され、臣として、また藩屏として虞に従った。
しかし大陸の南方では茨という国が興隆し、やがて大陸の南方に、四方千里ともいわれる広大な国を築きあげた。今日、茨国は形式上は虞に参朝し爵位を授かっているが、自国では、虞の他には許されていない王号を堂々と自称しているのである。
そして三か月前、後世に「羋烙漣の乱」と呼ばれる変事が起きた。
茨の穆王の長子、羋烙漣が父を殺し、さらに弟たる羋蒼旅までをも亡き者にしようとしたのである。
羋蒼旅は兵を挙げて都、武郢を攻め、羋烙漣を破って即位した。
だが羋蒼旅はまだ十三の少年である。国政については、かつて令尹(宰相)を務めた敖賈という老人の手を借りねば行えなかった。
そして何よりも羋蒼旅の心に残っている疵は、
――兄上は、何を思っていたのか。
ということである。その真意を問いただす前に羋烙漣は、燃え盛る王城の中に消えていった。骸こそ見つからなかったが、羋烙漣は死んだと誰もが思っている。
そんな折、苦悩の主君を見かねた従者、敖虎は一冊の書簡を差し出した。『南溟伝』という名のその書には、茨国のさらに南方に死者の魂が集う地があるのだという。
「のう、敖虎よ。この南溟とやらは本当にあるのだろうか?」
「さて、どうでしょうか? その書は、冒頭こそ茨国の文字で記されていますが、後はすべて見たこともない古字で書かれていて、何も読めません」
博識な従者にそう言われてしまっては、羋蒼旅としても眉をしかめるしかない。試みに羋蒼旅は『南溟伝』を開いてみたが、そこには、獣の足跡のような線の多い文字が並んでいて、何も分からなかった。
知識のない二人が書簡の前で呻っていても進展はなく、より該博な者を頼るしかない。二人が向かったのは、今は執政の地位にあり、敖虎の祖父でもある敖賈のところであった。
羋蒼旅から『南溟伝』を見せられた敖賈は、
「それを、見つけられたのですか」
と、わずかに目を伏せた。言外に、知らないでほしかったという含みがあった。
だが羋蒼旅はそのような胸情など知らず、知っているならば教えてくれと熱烈な双眸を向けて頼みこんだ。まだ若くとも、羋蒼旅は敖賈の君主である。それに、羋蒼旅が何故に死者の国について知りたがっているのかも、敖賈には察しがついていた。
――それを知るは、吉か凶か。
往年の敖賈であれば、涼しい顔をして知らぬと嘘を吐いていただろう。一国の執政として、また王家の重責を担う老臣として、今の羋蒼旅にとって羋烙漣の真意などは知らずともよいことだと考えている。
だがそれは、情の介在しない怜悧な結論である。
若くして王として即位し、しかもその過程で父と兄が死んでいるのである。しかも、王の継嗣としての立場は安定していたにも関わらず、このような凶行に及んだのだ。兄の胸中を求める心情は理解できるし、何よりも、その想いに応えたいと思うのだ。
――私も齢をとったものだ。
敖賈はかつて、二十に届かぬ若さで令尹となった人である。その時の茨国は内乱の直後であり、誰もなりたがらないが故に執政の地位を押し付け合うほどに人心が定まっていなかった。そのような情勢下で令尹となった敖賈だから、自らと一族を守るために手段を選ぶことなど出来なかった。
四方どこを見回しても敵ばかりの政界を奔走しているうちに、やがて敖賈は、虚実というものを覚えた。正しさがすべてではなく、偽りも大勢に支持されれば反転し、そうなった時に真実というものは何の意味ももたぬのだという達観した視点を得た。そう俯瞰してことに挑まなければ生きていけなかったほうが正しいというべきだろう。
だから此度の乱も、それでよいと思っていた。
羋烙漣は野心によって父を弑逆し、正義を掲げた羋蒼旅が闘氏、敖氏とともに兵を挙げてその仇を討った。そして即位し、父の喪を発する。
それによって綻びかけた茨国は一つに纏まるだろう。
そしてそこに、羋烙漣の真意などは要らぬのである。むしろ、父王弑逆と羋蒼旅の暗殺未遂に欲望以外の事情があったと知られれば、その事情によっては羋蒼旅の統治に翳りが生じ、新たな乱の火種となりかねない。
先王の嫡出は羋蒼旅と羋烙漣だけだが、叔父たちはいる。羋蒼旅即位の正統性に疑念があれば、それらの者たちが王座を狙って蠢動するかもしれない。
だからこそ敖賈は、『南溟伝』について知っていることはあれど、知らぬふりをすべきだと思った。
一刻も早く羋烙漣への情などを忘れさせ、王として国事に邁進させるべきだと。
しかし、胸に出した答えを即座に言葉にすることが出来なかった。
羋蒼旅は敖賈の逡巡を見て取り、何かを知っていると感じ、目を見開いて敖賈に詰め寄った。
「知っていることがあるなら教えよ、敖賈。もし死の国というものが本当にあるのならば、私はそこへ向かい、兄上に問わねばならん!!」
炎のような赤い双眸が敖賈を見据える。何を言われても消えそうにない決意が宿っていた。
敖賈の心は、その熱意に曲げられた。
「私も仔細は知りません。なれど、通暁しているであろう者であれば心当たりがあります」
「そうか。ならばその者を今すぐ呼んでくれ」
「それは出来ません。その者というのは山野の隠者であり、不羈を何よりも好みます。話をしたくば、王が自ら赴かれるしかありません」
今や一国の王となった羋蒼旅に、敖賈は隠者を訪ねて足を運べと言った。しかし羋蒼旅はその不敬をすぐに受け入れたのである。
「どこにいる、なんという者なのだ?」
「……武郢より東、玄月山に棲んでおり、知る者は敬意と畏怖とを込めて“錬華の賢者”と呼んでおります――」
空が、まだ日は高いのに、燃えるような深紅の雲を伴っている。
凶兆のような空を見上げながら、嗤う者がいた。
「父祖の蟲を負う者来る、か。さてさて、何が起きるやら。まさに、“終あれば始あり、天の行わるるなり”だ――」




