南溟伝
茨国が誇る王城は燃え尽きた。
離宮や宝庫、書庫などは無事であったが、王室にとっては大きな痛手と言ってよい。焼け焦げた王城を見ると人々は、乱の大きさを否応なしに受け入れざるを得なかった。
とはいえ、いつまでも立ち止まってはいられない。
迅速に動いたのは敖賈であった。先の令尹として先王の喪と羋蒼旅の即位を触れて回り、茨国の貴族や庸国に対し王城再建のための出捐を求める書簡を出したのである。
ここで払った財の多寡は、その後の茨国での立場を左右する。貴族や庸国は率先して財貨を投げ、人を武郢に遣った。
しかし一方で、茨国を見限り、独立の色を見せる貴族や国もあった。
「背く者には兵を派し、これを討つべきです」
敖賈はそう進言した。その実働を担ったのは、闘氏の長たる闘羽夸である。
闘氏は茨国での復権を果たし、先に羋蒼旅が誓った通りに柱国――軍事の長として返り咲いた。
音に聞こえた闘氏の武威は凄まじく、三ヶ月も経てば、茨国の混乱はほとんど収まったといってよい。
その間、羋蒼旅は、表向きは父の喪に服しながら、鬱々とした日々を過ごしていた。
ある日、羋蒼旅は気まぐれに火難を逃れた書庫に足を向けた。そこでは敖虎が、あたりに竹簡を散乱させながら書に耽溺していた。
「何か面白いことはあるか?」
「愉快なことだらけですよ。文字に埋もれるのは私の悲願でしたからね」
敖虎の声は弾んでいる。茨国の混乱も、再建の進められている王城も、敖虎にとってはどうでもよいことであった。
かつて羋蒼旅に、末席の史官くらいには自分のことを取り立てて欲しいとねがった敖虎にとって、王室の書庫に自由に出入りできる今の立場は、羋蒼旅から与えられた至上の褒賞である。敖虎は今や寝食を書庫と共にしており、棲んでいるも同然であった。
ただし文字に埋もれる生活の裏には、行方知れずとなっている父、敖宜伯と次兄、敖克仲についての懸念があり、落ち着かぬ心を忘れたいという想いもある。
また、敖虎の長兄、敖岱伯は乱の中で死んだが、敖賈は敖虎に兄の喪に服すことを禁じた。そのことも、道理としては理解しつつも諒解しきれぬところがあった。
「ところで、我が君は服喪に多忙でございましょうが、炎淑どのと叔由どのはいかがなされておりますか?」
煩悶を紛らわせんとして、敖虎は闘氏と養氏の僚将について聞いた。乱の後、書庫に籠もっていた敖虎は二人の姿をまったく見ていなかったのである。
「炎淑は柱国どのに従って奔走し、武郢に戻ると、人夫の中に混ざって王城再建のために働いておる」
「なるほど。まあ、あの男は、絶えず体を動かしておらねば落ち着かない気性なのでしょう」
かつては山間に隠れ棲んでいたとはいえ、闘氏はれっきとした貴族である。まして闘炎淑は、今や柱国となった闘羽夸の継嗣なのだ。それが人足と共に木石を運ぶような作業に従事しているのは奇行でしかないのだが、羋蒼旅も敖虎も、その行動を闘炎淑らしいと感じていた。
それよりも、羋蒼旅が言い淀んだのは養叔由についてである。
「叔由は、兄上に矢を防がれたを不明と思ったらしく、かつての宿敵と再び相見えてくると言って出ていった」
「あの御仁ほどの射手の宿敵ですか。それは、如何なる敵であるか、好奇の虫が騒ぎますね。どのような相手であるか、我が君はお聞きでないのですか?」
「聞かぬわけがなかろう。しかし、しかし……」
羋蒼旅の言葉は、口を開くごとに精彩を欠いていく。敖虎は、
「秘してくれと頼まれたのであれば、もう聞きませんよ」
と言った。しかし羋蒼旅は、特段、口止めされているわけではないらしい。ただただ、聞かされた宿敵について呑み込めぬというだけの話のようであった。
口ごもりながら、ついに羋蒼旅は、
「叔由によると、その宿敵というのは……蜻蛉だと、そう言うのだ」
と、歯切れ悪く伝えた。
「我が君は臣のことを、他者が秘さんとすることを執拗に詮索する無粋者とお思いですか?」
敖虎は言葉に角を持たせつつ、言った。
羋蒼旅は首を横に振る。羋蒼旅はあくまで、養叔由から聞かされたことをそのまま語ったに過ぎないのだ。
積年の付き合いなので、敖虎もやがて、そこに虚言が含まれていないことを悟った。その上で、分からない。
「蜻蛉というと、あの蜻蛉ですか?」
「……まあ、秋に田畑を飛び回っておる、あの蜻蛉であると思うぞ?」
羋蒼旅も養叔由から、蜻蛉、ということの他には何も聞かされていないらしい。やがて二人は、考えることをやめた。この場でどれだけ思案しても無意味だと悟ったからである。
代わりに、羋蒼旅は異なる話題を振った。
「ところで、この書庫には、死者の意を卜う書などはあるのか?」
敖虎は言葉を詰まらせた。
その言葉だけで、羋蒼旅が誰の意中を卜い知りたいのかということが、敖虎には手に取るように判ったからである。
――蒼旅はまだ、兄の死を越えられてはいない。
羋烙漣が何故、父を殺し、羋蒼旅の命までをも狙ったのか。その訳を求めているのだと、敖虎は悟った。
それは、ともすれば知らぬほうがよいことなのではないかと敖虎は思っている。しかし同時に、この謎を詳らかにしなければ、羋蒼旅は王として先に進めぬのではないかとも感じていた。
葛藤の末、敖虎は一冊の書簡を取り出した。
その書題は、『南溟伝』と記されている。
「茨国より遥か南に下った地を南溟と呼び、そこには――死者の魂の集う地があるとのことにございます。死した烙漣さまの魂も、此の地に向かわれたのではないでしょうか?」
「南溟……死者の魂の向かう地、か…………」
羋蒼旅は戸惑いながら、渡された書簡を、震えた手で受け取った。
今回で第一章「訣別の章」は終わりです。次回より第二章「旅立ちの章」が始まります。引き続きよろしくお願いします!!
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