乱の終結
かつて欧冶という伝説の鍛冶師が鍛え上げたとされる、茨王室の宝剣――泰阿剣。敖虎が羋蒼旅に投げ渡したのはそれであった。
伝承によればこの剣を持って武王は窮地を切り抜けたとされている。その剣が羋蒼旅の手に渡ったことで、羋烙漣は身構えた。
「我が君、剣を!!」
「ああ、分かっておる――」
羋蒼旅は泰阿剣の柄に手をかけ、衆人に隠されたその白刃を抜き放とうとした。しかし、巨岩に掛けた綱を引くような重さを感じたのである。
「……ぬ、抜けん。なんだこの剣は、錆びついておるのか?」
羋蒼旅は何度も、細腕に渾身の力を込めて柄と鞘とを引っ張った。しかし泰阿剣は、そんな羋蒼旅を嘲笑するかのように、微動だにせず鞘の中に納まり続けたのである。
「そうか。やはりお前は――」
羋烙漣は、一瞬だけ目を伏せて呟いた。その声は羋蒼旅には届かなかったが、対峙していた闘炎淑の耳にだけは届いていた。
「貴殿は……」
思わず、闘炎淑の口から言葉が漏れた。だがその続きは、闘炎淑にすら、どう紡いでよいのか分からなかった。
「どうした、闘氏の勇者よ。貴殿の主君は泰阿剣に選ばれなかったのだ。ならばこの戦いの趨勢は、我らの剣にて決するより他になかろう!!」
羋烙漣は叫びながら、闘炎淑に斬りかかった。闘炎淑も剣を振るって応戦する。 その間にも、王城を巡る炎はいっそう盛んになってきた。
「敖氏よ、このままでは、あの二人の決着を見るより先に我らが炎の蛇に呑まれてしまうのでは?」
蔿峨はそう言った。敖虎も同じ想いである。
羋烙漣の胸中は分からぬが、羋蒼旅を殺すことが一つの目的としてあるということは察していた。このままでは、たとえ闘炎淑が勝ったとしても、羋蒼旅は炎兵の刃から逃れ得ぬだろう。その前に、せめて羋蒼旅だけでも退かせるべきだとは敖虎も考えていたところである。
だが、そんな臣たちの思惑に反して羋蒼旅は、泰阿剣を手に羋烙漣に向かっていった。抜き放てないので、鞘ごと剣を振るっている。
羋烙漣は思わず飛び退った。後方にある炎がその衣服を焦がす。
「どうした兄上、鞘に納まったままであろうと、泰阿剣は恐ろしいか?」
羋蒼旅は不敵に言い放つ。しかし嗤っているのは声だけで、その顔は不格好に歪んでいて虚勢が透けて見えていた。
「畏むことはあれど、懼れなどするものか。疾くその剣を手放すといい。重みに耐えかえているのだろう?」
その指摘に羋蒼旅は一瞬、息が止まったような心地がした。羋烙漣の言う通り、泰阿剣を手にしてからどうにも調子が悪い。まだ少年の羋蒼旅には重いというのもあるが、かつて高熱を発した時のような倦怠感が纏わりついて離れないのだ。
――泰阿剣は王の佩剣であるが故に、まだ王ではない私には抜けぬということか。
体を襲う気怠さはそれだけだはないような気がするが、羋烙漣の言う通り、今の羋蒼旅には手に余る剣であることは自覚した。
羋蒼旅はならばと、闘炎淑を見る。
「のう、炎淑よ。おぬしは、私からまだ米一粒の君恩も受けていないと申したな?」
「申しましたが、それがどうされました?」
「どうせこれは闘氏にくれてやることになっておる。先払いだ、受け取れ!!」
羋蒼旅はそう言って泰阿剣を闘炎淑に渡した。不意に宝剣を授けられた闘炎淑よりも、羋烙漣のほうが驚愕と赫怒で目を見開いていた。
「何を考えている!? それは茨国伝来の剣だぞ。それを臣下に下げ渡すつもりか!!」
「それが闘氏との約定ですので」
羋蒼旅には微塵の後ろ暗さもない。元より泰阿剣への固執などないからである。
思わぬ下賜を受けた闘炎淑は、手を震わせながらも泰阿剣の柄に手を掛けた。しかし、やはり剣は鞘から離れようとしない。
「その剣は王にしか抜けぬ!! 臣下ふぜいが気安く触るな!!」
羋烙漣は目を血走らせていた。
羋蒼旅もまた、闘炎淑であれば抜き放てると思ったわけではない。だが羋烙漣は泰阿剣を見て動揺した。ならば鞘から抜けずとも、自分が持っているよりは有用だろうと考えたまでである。
だが闘炎淑は主君のそのような想いなど知らず、柄を砕き鞘を割る勢いで双腕に力を込めていた。羋蒼旅はやがて戸惑いの色を浮かべた。
「の、のう炎淑……。私は、力づくで抜かせんとして渡したわけではないぞ?」
「賜った剣なれば、どう扱うも自由でしょう。我ら闘氏にとって天地は捻じ伏せるものなれば、宝剣の神威も力によって凌駕して見せまする!!」
闘炎淑はいっそう腕に力を込めた。するとやがて、鈍い音がして、宝剣の刃がその姿を見せ始めたのである。
號という雄叫びが響いた。刃が鞘をなぞる快音が鳴り渡り、ついに泰阿剣はその全身を衆目に晒したのである。
抜き放たれた泰阿剣は瑕一つなく、赫灼の光を跳ね除けて白光を煌めかせている。誰が見ても疑いようがない、神器と呼ぶに相応しい剣であった。
「さあ行くぞ、僭王!!」
「ほざくな、下郎!!」
闘炎淑と羋烙漣は、剣を手に吶喊して行った。だが近づいた時、羋烙漣の動きが唐突に止まったのである。それは蛇に睨まれた蛙が身を竦ませるのに似ていた。
闘炎淑が泰阿剣を振り下ろす。生け捕ることが主意であるので加減はしたが、それでも、動きを封じるべく、肩から胸に掛けて斬りつけた。
鮮血の赤が炎と混ざる。羋烙漣は地に膝をつき、斬られたところを左手で抑えながら、しかしまだ右手の剣は手放していない。
だが、もはや戦える体でないこともまた瞭然であった。まして相手は闘氏の誇る豪傑、炎淑なのである。
それでも――羋烙漣は立ち上がった。
「私は……まだ、死ぬわけにはいかない!!」
闘炎淑であれば、千鳥足で立つ羋烙漣に駆け寄って組み伏せることなど容易い。それでも、鬼気迫る威勢に、僅かに怯んでしまった。
その隙を見逃さず、羋烙漣は炎の中に飛び込んでいった。先にあるのは玉座である。闘炎淑は慌てて追おうとしたが、やがて荒れ狂う炎が障壁となって立ち塞がり、行く手を阻んだのである。
「蒼旅、炎淑!! もはやこれまでです、退きましょう!!」
敖虎が叫んだ。だが羋蒼旅は諦めきれず、羋烙漣を追って炎の中に向かっていこうとした。
その体を、闘炎淑が持ち上げて肩に担ぐ。
「我が君、ここは敖氏の言うとおりに致しましょう。叱責は後でいくらでもお受けいたします」
なおも喚く羋蒼旅の言葉には耳を貸さず、闘炎淑は主君を担いだまま走り出した。蔿峨の案内の下、羋蒼旅の一行は燃え落ちる王城から脱出したのである。
後に焼け跡から羋烙漣の捜索が行われたが、亡骸はおろか遺品さえ見つからなかった。しかしあの火中に身を投じたとあれば生きてはいないだろうと誰もが思い、羋烙漣は死んだものとして扱われた。
こうして、太子が父を殺して王位を奪いその弟によって討たれたという茨国の骨肉の争い――「羋烙漣の乱」は、王城の炎上によって終焉を迎えたのである。
ただしそれは史書の上だけの話である。
渦中にいた羋蒼旅にとっては、これで終わったなどとは、とても思えなかった。




