天地の意
蔿峨は、刺客の危機を悟って思わず手繰り寄せた少年王子の小さな体から漏れた弱音を、確かに聞いた。
自分は死ぬべき者なのか。
父を弑した兄から命を狙われ、宰相家の長子がなりふり構わず懐に匕首を隠して刺客となった。それらを――少なくとも、たった今、眼前で果てた敖岱伯を羋蒼旅は、ただ権勢や欲望に魅入られた愚者とは思えなかったに違いない。
蔿峨も同じ想いであった。敖岱伯の行動は真に迫るものがあり、何かに殉じる決意を持った人の眼をしていた。
養叔由は異なる忠義を尽くしたと評したが、その言葉がしっくりとくる。
――なんとお答えしたものか。
蔿峨は羋蒼旅の問いかけに、即座に言葉を返せなかった。
そのようなことはない、貴方は生きるべきだと、そう口にすることは容易い。しかしそれはとても軽薄で、蔿峨としても心が籠もっていないと感じるのである。
蔿峨は遠慮しながら羋蒼旅の面貌を覗き込んだ。
昏く澱んだ双眸の奥に、猛禽のような鋭さがある。己を見失いながらも、心の奥に怜悧の冷ややかさを残していた。
阿媚や欺瞞は見透かされるだろう。
――その上で、私に訊ねられたのだろうか?
これが敖虎や闘炎淑、養叔由らであれば迷わずに、生きるべきだと答えるだろう。蔿峨は彼らの素性は知らないが、王子の直臣であろうことは推測がつく。直臣であれば、本心でそう答えるに違いない。
一方、羋蒼旅と蔿峨は主従ではなく、縁もない。
蔿峨の父が羋烙漣の弑逆を認めず、反旗の筆頭に立った羋蒼旅に与した。だから、子として父の与した王子の助勢をしている。それだけのことであった。
それだけに、どう答えるべきかと蔿峨は逡巡した。生きていて、これほど難しい問いを投げられたのは初めてである。
考えあぐねて、一つ、胸から湧いた言葉があった。
蔿峨は勢いに身を委ね、口を開いた。
「私には分かりかねます。その問いには、天地が答えてくださるでしょう」
「……天地が?」
虚ろな声を返した羋蒼旅に、蔿峨は力強く頷いた。
「天地は生きるべき者を生かし、そうでない者を殺すものです。王子はこのまま進まれなさいませ。王子の生に意義あらば天地が王子を護り、死ぬのが世のためと思われれば、たとえ百万の兵を擁しておられようともその命を奪われることでしょう」
「そのようなものであろうか? 私は、不遜な物言いになるのかもしれんが、天地に意があることをどこか信じられないでいるのだ」
より正確にいうのであれば、羋蒼旅は、人の生死がすべて天地の意のままであると思うのが恐ろしかった。その思想を認めてしまえば、父もまた死ぬべきだと茨国の天地に睨まれたということになる。
「天地には意志がございます!!」
蔿峨はそう断言した。迷いのない声だった。
「王畿に棲む者は我らを茨蛮の国と蔑み、徳は武威に勝ると豪語していたと聞きます。しかし徳を頼みとする虞は今や零落し、我が茨国は四方千里の広大な地を有しています。これを天地の嘉賞と呼ばずしてなんと呼びましょう?」
「それは、そうかもしれないが……」
「茨国の天地は茨の王室を嘉しておられます。王子は迷わず、この乱の渦中を進まれなさいませ。正邪は人の知るところではございません」
蔿峨は熱弁を振るった。白熱しすぎて、語り終えた後、ふと我に返ると、急に己の不遜を自覚して思わず地に膝をついたのである。
羋蒼旅は俯く蔿峨を暫くの間、見下ろしていたが、やがて哄笑しだした。
「いや、気にするな蔿峨よ。そなたの言、実に痛快であったぞ。先ほどまで患っていた気弱の病が癒えた」
「それは……。いえ、畏れ多いことを申しました」
「そう気にするな。私も一つ、思い出したことがある。“人を恐れずとも、天を畏れ、地を懼れよ”――私の従者が、祖父から教わったという箴言だ」
羋蒼旅は敖虎のほうを見ながら笑語した。その言葉はかつて敖虎から聞かされたものである。
「蔿峨よ、そなたの言う通りだ。未だ迷いはあるが、私はただ天地だけを畏れるように努めよう」
「……王子の迷いを少しでも晴らすことが出来たのであれば、幸甚でございます」
蔿峨は畏まりながら言った。
羋蒼旅は気安く笑いながら蔿峨の肩を叩いた。
養叔由はその光景を眺めながら、隣に立つ闘炎淑に、
「炎淑どのは天地というものを畏れますか?」
と、小声で聞いた。闘炎淑はかぶりを振りつつ、
「我らにとって天地とは、捻じ伏せるものだ」
と返した。
そのやり取りは羋蒼旅と蔿峨には聞こえていないが、敖虎の耳には届いていた。
――なるほど。我ら敖氏と闘氏は反目し合ったわけだ。
敖虎は嫌な悟了を得てしまった。
敖氏は天地の意を是認するが、闘氏は天地を屈服させるを善しとするらしい。両氏の対立の根幹にあるものはこの思想だったのだと気付いたのだ。
この二つの思想は決して交わらぬものである。
しかし一方で敖虎は、天地の意を剛力によって曲げるという思想に惹かれる心もあった。何故、そのような感情が湧いてきたのかは分からなかったのだが。
ともかく、場は収まりかけた。
その時である。
羋蒼旅らは、夜とは思えぬ熱を感じた。見ると、王城に火の手が回っていたのである。




