陥穽
蔿峨という新たな味方を得た羋蒼旅らは王城の中をひた走っていた。目指すは玉座にいる羋烙漣である。
王城の中には衛兵はほとんどいない。多くを門の護りに注ぎ込んでいたようである。
そのうちに、少しずつではあるが闘氏の兵も合流してきた。
「このまま巧く事が運べばよいがの」
「案じられることはありません。王子には我ら臣と闘氏の強兵が側にあります」
養叔由はそう言って主君を激励した。気休めでなく、養叔由は本心でそう思っている。既に勝敗は決し、後は羋烙漣を捕らえるだけであると。
もし羋烙漣を逃がすことがあろうとも、父王殺しの汚名を背負い、しかも敖氏という後ろ盾のない羋烙漣に再起の道はないと見ていた。
その楽観に水を差す者がいた。敖虎である。
「陥穽は常に、詰みに手が掛からんとするところにあるものです」
王城に入ってから、羋烙漣陣営からの反撃がまるでない。それが敖虎にはかえって不気味であった。羋蒼旅陣営の威勢に恐れをなしたのだと思おうとしても、穴倉に隠れた蛇が獲物を睨んでいるような空恐ろしさを拭えずにはいられなかったのである。
その時である。足音が迫ってきた。しかし、一つである。やがてその姿が見えた。羋蒼旅と敖虎は近づいてきたその男のことを知っていたのである。
「兄上……?」
「……虎か。息災のようだな」
それは敖虎の兄であり敖宜伯の嫡子、敖岱伯だった。しかしその顔と衣服とは埃と土とで汚れていて、とても貴族とは思えぬ有様である。
「そのお姿は、何があったのですか?」
「……王を弑したことについて父と太子をお諌めしたのだが、それが不興を買い、牢に囚われていたのだ。しかしこの混乱で警備が緩み、その隙に逃げ出してきた」
「それで、克仲兄上が兵を指揮していたのですか」
敖虎は頷きながら、しかしその胸中は複雑であった。
父は兄の諫言を聞かなかったのかと思うと悲しみがこみ上げてくる。しかし一方で、兄が自らと同じく父の行いを非としてくれたと思うと、安堵する心があるのもまた事実だった。
「王子におかれましては、我が父の愚行のせいで多大なる苦労をおかけし、申し訳無く思っております」
敖岱伯は膝をつき、頭を垂れて謝罪した。羋蒼旅はそんな敖岱伯を力づけようとして近寄っていった。
その時である。羋蒼旅は急に、襟を掴まれて大きく後ろへ引き戻された。そうしたのは蔿峨である。
更に次の瞬間、敖岱伯の胸から鮮血が噴き出し、首筋には矢が突き立てられていた。
何が起きたか、羋蒼旅も敖虎も、すぐには分からなかった。
しかしやがて、敖岱伯の右手に匕首が握られているのを確かめて、ようやく察したのである。ここまで敖岱伯が並べ立てた言葉はすべてが偽りであり、敖岱伯もまた父と想いを共にし、羋蒼旅を害さんと思っていたのだと。
その企みを察した蔿峨は羋蒼旅を護り、闘炎淑と養叔由が戈と弓矢とで敖岱伯を討ったのだと。
「兄、上……?」
敖虎は声を掠れさせながら、虚空に向けて呟いた。しかし既に敖岱伯は事切れており、その声に言葉が返されることはなかった。
羋蒼旅も、茫然として立ち通していた。たった今、兄を失った長年の従者に言葉を掛けることさえ出来なかったのである。
王子と、その第一の侍臣たる敖虎が放心したことで、この一団の動きは止まった。
もう一人、心を乱している者がいる。闘炎淑であった。その視線は暫し敖岱伯に向けられ、やがて、ゆっくりと敖虎のほうへ首を傾けたのであった。
「その、敖虎どの……」
闘炎淑は初めて、敖虎に敬称を添えて呼びかけた。
これまで敖虎のことを鼻持ちならない相手と思っていた闘炎淑をして気遣わせるほどに、今の敖虎は木石のようにただそこにあった。
主君を守るという臣下の責務として、闘炎淑と養叔由の行動には何ら瑕疵はない。二人の動きがもう少し遅ければ、敖岱伯の凶刃は羋蒼旅の命に届いていたやもしれないのだ。
それでも、同輩の兄を殺したことは闘炎淑の胸に重く伸し掛かっていた。
――どうにか、殺さずに防ぐことは出来なかっただろうか。
という悔悟がいつまでも拭えないでいる。
それに比べれば、養叔由はどこまでも泰然としていた。
「敖虎どの。ご令兄は貴方と異なる忠義を尽くされたのでしょう。貴方は弟としてご令兄を称道され、そして王子の臣として、ご主君の無事をお喜びください」
涼し気な、迷い一つない顔である。養叔由は心底から、それが今の敖虎に向けるべき言葉だと信じていた。
鈍い音がした。
闘炎淑が養叔由の頬を殴りつけたのである。何故そんなことをしたのか、闘炎淑にも判然としないままに、気がつくと手が出ていた。
「炎淑どの、痛いです」
「だろうな」
養叔由はわざとらしく頬に手を当てたが、少し苦言を呈すると、もう何も言わなかった。
三人の臣下がそのようなやりとりをしているのを、羋蒼旅はやはり茫然と眺めていた。そしてようやく、少し落ち着きを取り戻すと、後ろにいる蔿峨のほうを振り返った。
「のう、蔿峨よ」
「……何でしょうか?」
いきなり貴人に話しかけられて、蔿峨は驚いた。しかもその声は風前の灯のように弱々しい。
「私は……死ぬべき者なのだろうか?」




