敗兵と勝兵
王宮へ進軍する最中、羋蒼旅は不意にあることが気になった。
「そういえば、敖賈はどうした?」
ここまで武郢で暗躍していたはずの敖賈の姿が見えない。同行していた闘氏の者たちも知らぬらしく、羋蒼旅は不安に感じた。
「祖父上であれば、また何か企謀されているのではないでしょうか?」
敖虎はまるで案じる様子がない。しかしそれは薄情なのではなく、祖父への信頼が故であった。
敖賈はかつて、敖氏と闘氏の争いの混乱の後、十代の若さで令尹の地位に就きながら、失政もなく身を全うして政界から退いた人である。渾沌の朝廷を生き抜いた人を出し抜いて殺せる者が今の茨国にいるとは、敖虎には思えなかった。
「また策か。しかし今の我らにそのようなものが要るか?」
再び戦車に乗りこんだ闘炎淑は、策と聞くと露骨に嫌そうな顔をした。本人の気性もあるだろうが、武威を示して功を挙げなければ闘氏の立場がない、と危惧する想いもあった。
「備えはどれだけあっても困りはしませんよ。敗れればすべてが終わるというのに、無謀なままに戦いに身を投じる者を敗兵といいます。貴方はまさにそれですね」
「なんだ、ならばお前は勝兵だとでも言いたいのか? お前に、戦う前に勝てるほどの旗鼓の妙才があるようには思えないがな」
闘炎淑は敗兵と言われたことに、兵書の知識を使って皮肉を返した。敖虎はその指摘が正鵠を射ているというのもそうだが、
「……貴方、兵書など読むんですか?」
ということのほうが意外であった。
ちなみにここで二人が引いた兵書の文言とは、“勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む”というものである。戦に勝つ者は勝利の展望を見据えてから戦い、敗れる者は無策のまま戦いを始めるという教えだ。
闘炎淑の受け答えは、その教えを知っている者のそれであった。闘炎淑は兵書など――いいや、兵書に限らず書物などとは無縁だろうと思っていただけに、面貌には驚愕が浮き出ていたのである。
しかも、同じような顔をしていたのは敖虎だけではなかった。羋蒼旅と養叔由もまた、闘炎淑に兵書の知識があると知って驚いていたのである。養叔由は闘氏の下で世話になっていたにも関わらず知らなかったらしい。
「昔、父に読めと言われたので、その時に少し学びました」
「そもそも字が読めたことが驚きですよ」
敖虎はなおも辛辣な言葉を投げる。過去には柱国や令尹という軍政の長を務めた貴家の者に向けるにはあまりに無礼な言葉だが、敖虎は挑発ではなく素で驚いていた。
闘炎淑は、戦陣の最中であるにも関わらず激怒した。それを養叔由がどうにか宥める。暴れることはなかったが、代わりに闘炎淑は憮然とした顔つきになってしまった。
「ならば該博な王子の御者どのの策に従って王宮の門を開けていただくとしようか。剛腕に任せて槌を振るう者よりも、才幹を働かせて帥と手綱を握る者のほうが、この戦車の上では偉いのだからな」
「敖虎よ。おぬしのせいで炎淑が拗ねてしまったではないか」
羋蒼旅は苦言を呈したが、敖虎も意地になっている。羋蒼旅はため息をつくと、車上に腰を下ろし、頬杖をついて俯いた。
「なあ叔由よ。何故、この二人はこうなのであろうな?」
当人たちを前にして、もう一人の臣に堂々と諮問した。
「まあ、炎淑どのと虎どのはこれでよいのではないかと存じます。見ていて愉快ですからね。王子におかれましても、それくらいの寛恕を以て二人を用いられるがよろしいかと」
「闘犬でも眺めているような口ぶりだの……」
養叔由は聞き分けこそいいが、その性格には敖虎と闘炎淑に負けず劣らず癖が強い。しかしこの言葉は養叔由としては真剣に羋蒼旅の問いに答えたつもりなのである。
「それよりも、そろそろ王宮の門が見えて参りましたよ」
養叔由はそう言ったが、見えているのは養叔由ただ一人である。他の三人の視力では、まだ朧気に門の輪郭らしきものが見えるだけだった。
「ところで、確かに敖氏は何やら暗躍されておられたのやもしれませんね。門が半分開いていて、争いが起きているようです」
養叔由はこともなげに、ただ見えた光景を三人に伝えた。




