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春秋異聞南溟伝 -兄の真意を求め、若き王は死の国へ向かう-  作者: ペンギンの下僕
訣別の章

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大義と小義

 茨国の王城。三階からなるの荘厳なる建造物の最上にあって一際目立つ、放つ赤漆で彩られた玉座。

 そこに一人の男が座っている。

 羋烙漣(びらくれん)。父をしいし、兵戈と流血とによってその座を手に入れた若者であった。

 その眼下にいる男、敖宜伯(ごうぎはく)は、若き新王に傅いている。いいや、厳密には羋烙漣はまだ即位の儀を行ってはおらず、正式に王となったわけではないのだが。


伯明はくめいはまだ復命していないのか?」


 冷厳な声が響く。まだですと、敖宜伯は短く頷いた。


「しかし咸将軍であれば、万に一つの疎漏もありますまい。ただし、強さに疑いの余地はなくとも、荒野に落ちた玉一粒を探すのには難儀されておられるのではないかと」

「それだけならばよいのだがな」


 羋烙漣は眉間に険しい皺を作った。


「そう憂慮なさいますな。大義は我らにあります。なればこそ王は今こうして玉座にあられるのでしょう」


 羋烙漣の心の鬱屈を見て取った敖宜伯は、その暗雲を晴らそうと力強く言った。といって、決しておもねりを口にしたわけではない。


「ふん、大義か。父を弑し、弟に兵を向ける者がそう呼ばれるとは、義という言葉は随分と軽いものらしい」

「それは、小義というものでございましょう」


 自虐めいて笑う羋烙漣に、敖宜伯は反言した。


「少なくとも我ら敖氏は、王の正義を信じたが故に王に与しているのです。王がご自身の行いをどう思われようと自由ではございますが、それを臣下に見せてはなりません」

「……そうか。いいや、そうだな。すまない、宜伯」


 臣でありながら、同時に岳父でもある男に叱られて、羋烙漣は両手で顔を覆った。そしてその手が再び顔から離れた時には、そこには鬼の如く鋭く、恵恤のかけらもない貌が張り付いていたのである。


「私は父を殺した。もう、振り返ることも躊躇うこともない。茨国の王として弟を、蒼旅そうりょを殺す――。それこそが、我が大義である!!」


 羋烙漣はそう断言した。それを敖宜伯は、安堵しながら頷き受け入れた。此度のことについて、羋烙漣の胸中をすべて知るのは、敖宜伯と咸伯明の二人だけであり、その上で彼らは羋烙漣に従っているのだ。


「しかし――これは、惰弱や逡巡でなく言っておく。蒼旅を、まだ年端もいかぬ孺子と侮るな。私は伯明を信じている。その上でお前は、伯明が仕損じた時のことを想定して動け」

「それは、王子の中にある魔性を恐れるが故のお言葉でございますか?」

「それもある。しかしそんなものがなくとも、あいつを侮ってはいけない。それはこの私が――兄として、誰よりも知っている」


 羋烙漣は重苦しい口調でそう言った。


「なあ、宜伯。もしお前なら、たとえば六博(りくはく)を打っていて、どう足掻いても勝ちがなくなったとなればどうする?」

「それは……潔く投了するかと」


 唐突な、そして要領を得ない問いに、敖宜伯は困惑しつつそう答えた。無難な返しであり、大半のものはそう答えるであろうという言葉である。


「昔、蒼旅と六博を打っていて、そうなったことがある。どう転んでも私の勝ちは揺るがぬ状況だった。その時、蒼旅は――盤面をひっくり返した」

「それは……いかにも、稚気の強い王子のなさりそうなことですな」


 敖宜伯は呆れていた。往生際が悪く、見苦しい振る舞いだとしか思えなかった。


「だが、蒼旅はそれを躊躇いなくやったのだ。そういう奇想のある者には、何をしてくるか分からぬという恐ろしさがある」


 想像の出来ぬこと。あるいは、思いついても実行に移すのを躊躇うようなこと。そういうことを躊躇わず敢行できる胆力のある者というのは恐ろしい。そういう感覚が羋烙漣にはあった。


「お前も、敖賈ごうかという父の背を見て育ったのなら、分かるのではないか?」

「父は、そういう人ではありません」


 敖宜伯は主君の言葉を静かに否定した。

 その時である。敖宜伯の家臣の一人が、形相を変えて駆け込んできた。




 強行軍の末、武郢にたどり着いた時、その巨大なる鉄扉の門は明け放たれていた。

 羋蒼旅らが武郢の門を見たのは夜半であり、常ならば門は閉ざされている刻限である。にも関わらず、堂々と開かれた門があり、羋蒼旅と闘氏の兵が近づくと、誘うように松明が大きく弧を描きながら振られていた。


「敖賈どのの手の者でしょうか?」


 闘炎淑が眼を細めて訝しんだ。しかし、すぐに飛び込むことはしない。これが罠で、城門をくぐったところを伏兵によって挟撃される危殆もあるからだ。

 しかし養叔由ようしゅくゆうは、


「そのようですね」


 と、断言した。養叔由は視力が高く、夜目も利く。松明を振っている男が、先に敖賈と共に武郢に向かった闘氏の者たちであることが分かったのだ。


「ならば、ここからは迅速に参りましょう。我らは寡兵なれば、日が昇り、時が経つほどに不利になります。拙速せっそくのままに王宮に乗り込み、首謀の二人を抑えるほかに活路はありません」


 敖虎ごうこの進言に、羋蒼旅は頷いた。


「うむ、参ろう。いざ、進め――」


 羋蒼旅は声を震わせて叫んだ。今は戦車の上にあり、松明を手にして大きく前に振りかざす。赤々とした灯の導きに従い、闘氏の兵たちは鬨の声を挙げて武郢へとなだれ込んでいった。

 その先陣を走る羋蒼旅の戦車は、敖虎を御者に、車右しゃゆうを闘炎淑、車左しゃさを養叔由で固めている。四頭立ての戦車は、瞬く間に武郢の城門へたどり着いた。

 敖賈の下知で城門を開けた闘氏の者たちは、羋蒼旅の戦車が来ると道を開けた。門を越えて城市に入ると、そこには数十の戦車と数百の歩兵とが整列していたのである。


「我らはこれより王宮に攻め入る。今は一刻を惜しむ故に、駆けながらの命となるが許せ。そして――私についてこい!! 私のために尽力するのであれば、今宵のことはすべて罪に問わぬことを、茨国の王子として誓おう!!」


 疾駆する車上から、羋蒼旅は叫んだ。兵たちは呼応し、羋蒼旅と闘氏の兵が駆け抜けると、その後に従ったのである。

 暫くの間、戦車は無人の野を進むが如く、一切の障害なくひた走った。武郢の門、羋蒼旅らが越えた正門から王城までは一直線の大路が整備されている。利便性は高いが、攻められることを想定していない造りであった。


「今のところは順調であるな」

「ええ。王城まで、あと二里(一キロ)というところでしょうか」


 羋烙漣らはまだ対応できていないようである。それをさせぬための急襲であり、このまま、会敵せずに王宮の門まで迫れればそれが最善であった。

 しかし、そう巧くはいかない。

 やがて羋蒼旅らの眼前に、立ち並ぶ兵が見えた。敵は大路のあちこちに押し車を並べ、木罌ぼくおうが転がしてあった。木罌とは木をくりぬいたたるのことであり、これが散乱しているとなると、そのまま戦車を進めれば脱輪の恐れがある。


「なるほど、即席の逆茂木というわけですか。よく考えたものですね」


 養叔由が関心したように呟く。実際にその防備は、手軽でかつ有効なものであった。車騎の勢いを削ぎ、木罌と押し車を除くために歩兵を先行させたところに矢の雨を浴びせる算段であろう。敵兵は弓に矢を番え、羋蒼旅らの到来を待ち構えていた。


「どうする、敖虎よ。迂回するか――?」


 もう間もなく、戦車が敵の弓の射程の内に入る。猶予がほとんどない中、主君の問いかけに対し、敖虎は沈思していた。

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