武郢での謀略戦
潘戢の助力を得た敖賈は、その日の夕刻、闘氏の二人を供として、武郢にある敖氏の邸宅へと向かった。
出迎えた若い男は、隠居したはずの敖賈が前触れなく現れたことに大いに驚いた。
「急に済まないな、鍾亮」
この鍾亮という男は、敖賈の長子にして今の敖氏の長、敖宜伯の家宰である。まだ三十過ぎだが、諸事に卒のない人であった。それ故に、表立っては、急な来訪に驚いている素振りをしている。
しかし敖賈には、その本心が見えていた。
――なるほど、後ろめたさはしっかりとあるようだ。
敖宜伯は羋烙漣に手を貸し、王の弑逆に加担した。その計画に家宰である鍾亮が関わっていないはずがない。そのことをこの段階で敖賈に知られたくないと焦っている。その懸念が、敖賈は手に取るように分かった。
「これは、事前にお知らせくだされば歓待のために手を尽くしておきましたのに」
「いやいや、今やしがない隠遁の老人だ。そう気を揉まずともよい。此度も、たまたま武郢の近くによる用があったからついでに寄ったにすぎん」
そう微笑を浮かべつつ、
「ところで、宜伯のやつはどうした?」
と、聞いた。
「主人さまはまだお帰りになりません。実は数日前、王が薨じられまして」
「なんと――」
敖賈は驚愕の声を挙げ、膝をつき、顔を裾でおおって啼哭した。
「ああ、私が今日、武郢へ寄ったは先王のお導きか。あるいは、私の徳が足りぬが故に、王を見舞うことも出来なかったのだろうか。かつては令尹を務めた身でありながら、私は王が病牀に臥せっておられたなどとは少しも知らなかった」
その叫びには鬼気迫るものがある。鍾亮は思わず近寄り、その手を取って支えようとした。
その時である。敖賈の手が懐に伸びたかと思うと、鈍く肉を裂く音がして、血飛沫が床を汚した。敖賈が鍾亮の太腿を短剣で突き刺したのである。鍾亮は何が起きたか分からぬうちに倒れ、刺されたところを抑えながら悲鳴を挙げた。
「ご、敖賈さま、何を……?」
「王が病牀に臥せっているという話など、私の耳に届くはずがなかろう。何せ王は先日まではご壮健だったところを、太子と我が愚息によって弑されたのだからな」
短剣についた血を袖で拭いつつ、敖賈が叫ぶ。そして外に向かって、
「さあ、参られよ!!」
と呼びかけたかと思うと、たちまちに門を破って兵が敖氏の邸宅に殺到した。これは周囲に伏せていた潘戢の私兵である。
敖宜伯は不在で、その私兵も今は王宮に詰めている。こうして敖賈は、かつては自分の物であった邸宅を瞬く間に制圧したのである。
しかも敖賈の次の一手は、さらに大胆極まるものであった。
敖賈は敖氏邸を制圧すると同時に、自らの名を以て書簡を武郢にいる有力な貴族たちの下へ送っていたのである。
その内容とは、
『此度、王都で起こりし騒擾の是非について語りたい。敖氏の与党たらん者は直ちに我が邸へ参られよ』
というものである。送ったのは、敖氏にまだ与していない者、あるいは、羋烙漣や敖宜伯と交誼のなかった貴族たちである。
この書簡を読んだ者たちは、此度の弑逆は敖賈も容認していることであると考えた。令尹を退いた身といえど茨国において敖賈の輿望は絶大であり、この書簡を受け取った貴族たちは我先にと競うようにして敖氏の邸宅に駆け付けたのである。
こうして、日が沈む頃には敖氏の邸宅の前は貴族たちの馬車でひしめき合い、主人に付き従ってきた従者たちは車の向きを変えることはおろか、降りることさえままならないほどであった。
敖賈は集まった貴族たちを広間に集めた。そこには二十余人ほどの貴族たちがいる。老若はあるが、いずれも茨国において私兵を有し各地に領邑を持つ者たちだ。
――まあ、こんなところであろうか。
ほどよく集まったと見た敖賈は、彼らの前に立つと、さっと右手を挙げた。すると周囲から無数の跫音が鳴り、鎧の揺れる音が響いた。貴族たちは、敖賈が伏せていた兵たちによってたちまちのうちに取り囲まれてしまったのである。
「此度のことは我が意にあらず。敖宜伯は王室に剣を向けし不忠者である。故に私は、先王の遺児、蒼旅さまと共に逆賊、羋烙漣と敖宜伯を討つことを決めた。諸兄らはどうなさる?
正道を歩み悪逆を払うか、それとも、悖逆の君臣を抱いて父祖の名を辱め、武郢の城外に骸を晒すのか――」
敖賈の名と、言葉の気魄。そして何より――王の弑逆から数日たっても方針を定めることが出来ず、敖賈からの書簡に涎を垂らして無警戒に飛び込んできた彼らに、眼前に迫る死を払いのけて否を唱える胆力ある者などいなかった。
こうして敖賈は、ただ弁舌と才知のみを以て、武郢の城内に羋蒼旅に与する貴族と兵とを生み出してしまったのであった。




