緋色の呪詛
やがて後方から、足音と共に兵が近づいてきた。闘氏の者たちが咸伯明の兵たちを打ち倒し、勝報を知らせにきたのである。
その叫びに我に返った闘炎淑は、その場で羋蒼旅に拝跪した。
「……申し訳ございません、王子。あの男は何か、王子がお望みのことを知っているようでした。生け捕りに出来なかったのは、私の未熟でございます」
巨躯を曲げてそう詫びたが、羋蒼旅はまだ、血の池に沈み、呆然と膝立ちになったまま咸伯明の襟を掴んでいた。段々と熱を失いつつある骸のまま、しかし咸伯明は鋭く羋蒼旅を睨みつけている。その視線に呪われたかのように、羋蒼旅は固まっていた。
「王子、闘氏の言に何か言葉を返してください」
養叔由が羋蒼旅の肩を軽く叩く。常であれば主君の身に許しなく触れるのは不敬であるが、この場においてそれを咎める者は無かった。
養叔由に促されて羋蒼旅はようやく意識を取り戻したが、
「ん、ああ。なんであったかの?」
と、虚ろな声を響かせた。どうやら先ほどの言葉は聞こえていなかったらしい。
「炎淑どのは、咸伯明を生け捕りに出来なかった非を詫びておられたのです」
「なんだ、そのようなことか」
わずかに闘炎淑の眉宇が寄った。
「その豪勇をはじめて見て、これは天下に並ぶ者はあるまいと思ったよ。おぬしの武を以てして捕えられなかったのであれば、それは咸伯明の気骨を称賛する他あるまい」
「ですが王子はその男に、何かを問いただしたかったのではないのですか?」
「それこそ、詮なきことである。死を前にしても何も話さず、兄に忠節を立てて逝った男が、私のために口を開いてくれるとは思えぬな」
力ない声が夜闇に落ち、咸伯明の血へ溶けていく。
闘氏は勝ったというのに、その主君たる羋蒼旅の周りだけは葬儀のような沈鬱さがあった。するとやがて、耐えかねた闘炎淑が羋蒼旅の体を持ち上げ、強引に咸伯明の骸から引き離したのである。
「王子、私は今まで人に仕えたことなどなく、君臣とはどういうものかはわかりません!!」
「……お、おう?」
羋蒼旅を持ち上げたまま、闘炎淑はそんなことを言った。
「それに私は、闘氏の過去の栄華も知らず、また、王子に恩もございません。私が王子の臣でいるのは、あくまで父の命ゆえにございます」
「まあ、そうであったの」
「しかし、一族には主家があり、子には親がいるものなれば、その下にいる者には主君を選ぶことなど出来ぬのです。ですが――どうせならば私は、快闊で覇気のある人にお仕えしたい!!」
あまりにも含みがなく、遠慮もない言葉である。近くで聞いていた養叔由は笑っていたが、その声は闘炎淑の大声のまえでは小鳥のさえずりのようなものである。
「故に王子には我が主君として、そのように情けない顔をしないでいただきたい!!」
「……随分と、好き勝手なことを言うの」
「ええ、言わせていただきましょう。私は未だ、米一粒ほどの君恩も受けてはおりませんからな!!」
闘羽夸が聞いたら胆を冷やすだろう。敖賈であれば、やはり養叔由のように笑うだろうか。愚直にも本心を腹蔵なくさらけ出し、一切の遠慮なく叫ぶ闘炎淑は、確かに主従というものを知らないらしい。
「王子がその何かを知りたいのであれば、私が羋烙漣を捕えてみせましょう。その時に存分に問いただせばよろしいではありませんか!!」
「しかし兄は、咸伯明と同じくらいに強いぞ」
「初めから生け捕るつもりで挑めば、取るに足りません!!」
闘炎淑は堂々と言い切った。
――思った以上に剛直のようだ。
少なくとも羋蒼旅から見て、その父たる闘羽夸とは似ても似つかない。どういう養育をしたのだろうかと、ふと考えてしまった。武術以外のことを教えていないのではないかと思いたくなるほどである。
しかし羋蒼旅は、闘炎淑のそんな気質が気に入った。
ただし、笑って流すことは出来なかった。
「うむ、わかった。その気概は認めるからおろせ。この近さでおぬしの声を聞かされては、兄上に答えを聞く前に私の耳が潰れてしまいそうだ」
そういうと闘炎淑は、慌てて羋蒼旅を降ろす。こういうところは素直な男であった。
しかし羋蒼旅としても、これくらいの叱咤くらいはしてやらないと気が収まらなかったのである。
やがてやってきた敖虎は、血まみれの羋蒼旅を見て顔を白くさせた。その中に羋蒼旅の血は一滴も含まれていないと言ってもまだ狼狽している。向後の話をする前に、羋蒼旅は水浴びと着替えを余儀なくされた。
やがて召し物を変えた羋蒼旅は、敖虎たちの前に現れた。
血は完全に落ちておらず、匂いも消えていない。
『茨国のために、お前は殺さなければならぬ』
咸伯明の言葉が未だに耳朶に残っている。見下ろせば両手にうっすら残る緋色の紋様と鉄の錆びたような匂いは、咸伯明にかけられた呪詛のように思えた。
しかし、いつまでもそのようなことを考えてもいられない。
――弱気を見せれば、また炎淑に無遠慮に怒鳴られてしまいそうだ。
顔を上げると、そこには闘氏の兵たちがいる。いずれも、咸伯明の兵が身に着けていた甲鎧を纏っていた。
これよりこの百名で王都、武郢に攻め寄せ、羋烙漣と相対しなければならない。止まることなど、もう出来ないのである。
「私はこれより王都に向かい、父を殺した僭王を斃す!!」
羋蒼旅は高らかに叫び、闘氏の兵たちは応じて鬨の声を挙げた。
茨国の後嗣のこじれから生じた混乱――後に「羋烙漣の乱」と呼ばれる騒動が、始まろうとしていた。




