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春秋異聞南溟伝 -兄の真意を求め、若き王は死の国へ向かう-  作者: ペンギンの下僕
訣別の章

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残酷な真実

 天の咆哮か、大地の唸りか――。

 闘炎淑とうえんしゅくの轟声を聞いた咸伯明(かんはくめい)は、そう思わずにはいられなかった。

 長柄の大斧を手にし、突如として現れた男は、明らかに自分よりも年若い。しかしその全身には、未だかつて見たことがないほどに、溢れんばかりの闘気を宿していたのである。

 咸伯明は()を手にしていた。車上戦において敵を薙ぎ払い、引き摺り落とすための武器である。この得物を以て、咸伯明は数多の敵を斃してきた。しかし、それが今は、とても心もとなく感じられたのである。

 何よりも、ともに地に足をつけている現状では、よい得物とは言えない。戈には刃がなく、長斧と打ち合うには不利であるからだ。


「地の底から湧いてきたか、闘氏の亡霊め――!!」


 叫びつつ、咸伯明は戈を勢いよく投げつけた。はやぶさのくちばしの如く鋭い一撃である。

 闘炎淑はさっと跳びすさって躱した。その時には、咸伯明は腰の剣を抜き放って迫っていたのである。夜闇に白刃が閃いた。闘炎叔も、長斧を振り下ろす。

 闘炎淑の斧と咸伯明の音が、静寂の闇の中に戞撃の音を響かせる。闘炎淑にとって意外だったのは、はじめの一撃で咸伯明の剣が折れなかったことである。いいや、何度打ち合っても、激しく火花が散ることはあれど、その剣は刃こぼれ一つしない。膂力に自負があり、また、互いの武器の重さのことを思えばとても耐えられるとは思っていなかったのだ。


 ――ふん、流石は太子の近侍というわけか。業物わざものを持っている。


 そう思うと同時、咸伯明の技量にも感心していた。長柄の武器と剣で打ち合い、互角である。武器の長短はそのまま戦いの趨勢に関わってくるのだが、闘炎淑は咸伯明を未だ圧し切れずにいた。

 一方、咸伯明もまた、闘炎淑という男のことを驚愕を以て迎えていた。まだ若く、その戦い方は歴戦の咸伯明から見れば未熟である。しかし、溢れんばかりの闘気と並外れた膂力を以てしてその不足を補っているのだ。


 ――これが、闘氏の長の子か。


 闘氏の驍名は茨国に轟いているが、咸伯明にとっては昔日の伝承のようなものである。なにせ咸伯明が羋烙漣びらくれんに仕えた時には、もう闘氏は茨国の朝廷から排斥されていたからだ。闘氏と戦うということは咸伯明にとって、寝物語の勇士、あるいは怪物と剣を交えるに等しい。

 伝承の中だからこそ、その存在は逸話を盛りこまれ、強さを誇張される。“闘氏は一人にて(はく)に値す”というのも、物の喩えだと思っていた。しかし今の咸伯明にとって、闘炎淑一人を相手取るくらいであれば、百人の兵を相手取るほうがまだ気楽であると感じていたのである。

 実際に、闘炎淑の武は常人から隔絶したものであった。

 むしろ、それでもなお打ち合いを続け、退くこともなければ、手傷の一つも追っていない咸伯明もまた、余人から見れば尋常ならざる武人といえる。




 羋蒼旅(びそうりょ)養叔由(ようしゅくゆう)は二人の激戦を遠望しながら、近寄りがたいものを感じていた。


「ううむ、炎淑はさすが、闘氏の戦士というだけのことはあるが、咸伯明も流石に強いの」

「闘氏を称賛するか、咸氏を称賛するか、というのは悩ましいところですね。しかし私としては驚いていますよ。所詮、大きな戦いも知らぬ武郢(ぶえい)の戦士など、いかに驍名が轟いていたとしても大したことはないと侮っておりました」


 悩ましいと言いながら、養叔由の称賛は咸伯明に向けられていた。少し強い、程度の武者であれば、闘炎淑は一撃にてその脳天を割り、地に伏せさせてしまうだろうと思っていたからである。


「のう、叔由よ。おぬしの弓で助勢は出来ぬのか?」


 羋蒼旅がそう言ったのは、二人の戦いに危殆を感じたからであろう。このままでは、闘炎淑が負けることもあるやもしれないと思ったのだ。

 実際に、今の二人の戦いの行方は分からない。互いに相手のことを軽んじておらず、それだけに決死である。間違いなく、戦いの果てにどちらかは死んでいるだろう。それが闘炎淑でないという保証はどこにもないのだ。


「出来ますが、したくありません。これは闘氏の矜持にも関わることですので今のうちに申し上げておきますが、王子がこの先、炎淑どのを臣として用いられるのであれば、決して、勝てるか、という問いを投げてはなりません」

「ならば、どうしろと言うのだ?」

「ただ一言――勝て、とお命じになられませ」


 闘氏を信じ、その武を用いるとはそういうことだと養叔由は告げた。


「それに私は――炎淑どのに殺されたくはありませんから」

「何故、そのような話になるのだ?」

「なりますとも。炎淑どのはそういう人です、無論、私にそれを命じた王子にも、忠心を傾けることは二度となさらぬでしょう」


 それは養叔由から、羋蒼旅へ向けた助言であった。

 闘炎淑という無双の豪傑を用いるのであれば、その武を全面的に信じ、いらぬ策を用いてはならないと警告したのである。

 その上で養叔由は、


「その上で、王子が勝てと命じられれば、必ずその敵を屠って復命するのが闘炎淑という武人にございます」


 と、安堵させるように、微笑を浮かべながら言った。




 刃音と火花とが、交互に生まれては、夜の闇の中に融けていった。

 二人の戦士はなおも熾烈な打ち合いを続けている。

 傍目には、どちらか優勢であるのかが分からない。あるいは、当人たちにも分かっていないのかもしれない。少なくとも、闘炎淑も咸伯明も決死の形相を浮かべている。

 ただひとつ言えることは、この戦いの果てに、少なくともどちらか一人は命を落とすということだけであった。

 闘炎淑の長斧が鋭さを増す。鈍重なままに颶風の鋭利さを宿す、命を狩る刃が咸伯明の体のあちこちを切り裂いていた。しかしいずれも、死に至らしめるほどの(きず)ではない。

 そして咸伯明は、創などものともせず踏み込んでくるのである。得物の重さもあり、(はや)さでは咸伯明のほうが勝っていた。しかもその一撃は鋒矢のように鋭く、的確に急所を狙ってくるのである。熊をも無手で倒す豪勇の闘炎淑であるが、自身より体格が劣っていようとも、技量が確かで怯懦(きょうだ)を知らぬ敵のほうが難敵であった。

 永劫に続くかと思われる激闘である。しかし決着は、思わぬ形で訪れた。

 不意に咸伯明の剣が折れたのである。

 むしろここまで、長斧の重さと闘炎淑の剛力に耐えていたことのほうが異常だったのだ。咸伯明はそれでも、折れた剣を構えて吶喊(とっかん)していく。しかし、闘炎淑の振り下ろしのほうが速かった。

 血飛沫があがる。咸伯明は肩から胸にかけて、斜めに深く斬り裂かれたのだ。

 もはや絶命は免れない。それでも咸伯明は、折れた剣を支えとし、口から血を吐きつつも、体を地に投げ出すことはしなかった。

 そこへ、養叔由と羋蒼旅が馬を寄せてくる。近づくと、羋蒼旅は飛び降りた。


「伯明よ、いかなる故あって私の命を狙った?」

「……そのことを知っているとは、思わなかった。敖氏の孺子(こぞう)に知られていたのか?」


 咸伯明が赤く毒づく。地に、朱色の染みが一つ増えた。


「いいや、逃げている山中でたまたま、おぬしらが私を殺そうと命じているところを聞いたまでだ。私にとっては僥倖であり、おぬしにとっては不運であったの」

「……そうか。ならば、天は茨国を、この大陸を…………。ああ、なんとも嘆かわしいことだ。いいや、それもまた天数というものか……?」


 咸伯明の言葉の意図は羋蒼旅には分からない。羋蒼旅はさらに近づくと、服が血で汚れるのも厭わず、その襟を掴んだ。


「迂遠な物言いをするな、答えろ!! 私を殺そうとしたのは何故だ!? そしてそれはお前の叛心ゆえか、それとも本当に――兄上の命なのか!?」


 それこそが最も知りたいことである。

 この期に及んで羋蒼旅は、心のどこかで、咸伯明の独断であることを望んでいた。


「愚問だ。我が心は常に、太子の……烙漣さまの意と共にある…………」


 しかし現実はどこまでも、十三の少年王子に対して酷薄であった。

 その時、羋蒼旅は己の心が罅割れる音を聞いたような気がした。その痛みを堪えつつ、なおも叫ぶ。


「ならば兄上は、何故私を殺そうとする!?」

「知りたくば、烙漣さまに聞くがいい!! ただし私は、主命ではあるが、茨国のためにお前は殺さねばならぬと、そう思ったこともまた本心だ!!」


 咸伯明は最期にそう叫ぶと、口から勢いよく血を吐いた。そしてそれきり、息絶えてしまったのである。

 全身に地を浴びながら、羋蒼旅はそのようなことなど意にも介さず、ただ茫然としていた。

 暫くの間、闘炎淑も養叔由も、羋蒼旅に声を掛けることが出来なかった。

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