智勇の両輪
本当は昨日更新だったのですが完全に失念しておりました……。申し訳ありません
羋烙漣が刺客として放った側近、咸伯明とその兵を狙い、為り変わる。確かにこの策であれば、抵抗なしに武郢に入れるだろう。
「しかし、それはつまり、私を餌にして咸伯明を釣るということか?」
咸伯明も慎重になっているだろう。それ故に、少し噂を流す程度で即座に食いついてくるとは思えない。こちらも、相応に危ない橋を渡らなければならない。
「餌などと、そのような不遜なことを考えてはおりませんよ。囮にするのです」
「そうか。ならばよい」
敖虎は澄ました顔で言った。どう違うのかが分からず、養叔由は苦笑している。
ともかく、羋蒼旅に異論はないようなので、方針は定まった。とはいえ、こういう小細工を弄することに、闘炎淑は未だ不服のようである。
それでも、沈黙を貫き父に従って出陣の支度を始めたのは、父の意向を尊重しているのと、羋蒼旅に気を遣っているからだろう。
闘氏の拠点が急に騒然としはじめた。敖賈はというと、調略のために足早に武郢に立ったので、羋蒼旅と敖虎は手持無沙汰になってしまった。
もう一人、手の空いている男がいる。養叔由だ。この青年は鎧を着こんだり武器を持つ様子もなく、箙を背負った平服のままに羋蒼旅の正面に座っていた。
「叔由よ、おぬしは何もせずともよいのか?」
「私は、弓と矢があればそれでよいのです」
「ほう、それは頼もしいことだ」
「私よりも身軽なのは、敖氏でございましょう。闘氏や養氏は武を以て王に仕えましたが、才幹を以て臣たる人は、筆と舌端だけがあればそれで事足りることでしょうから」
おもしろい物の見方だと、羋蒼旅は感じた。養叔由の話し方には、策士の鋭さとも、戦士の武骨さとも異なる爽やかさがある。
「智略と武勇は車騎の両輪のようなものです。かつての茨国が乱れたのは、片輪のみが大きくなりすぎたが故でしょうな」
なるほどと、羋蒼旅は頷いた。喩え話で、敖虎と闘炎淑が不仲のままではまずいと諭しているのである。
このままではよくはない、とは分かっているのだ。しかし敖虎はどうやら、理屈なしに闘炎淑のことが気に入らないらしい。そうと分かってはいても、私情を持ち込まぬように努めた結果、かえって突き放すような冷淡なものになっているのだろう。付き合いの長い羋蒼旅にはそのことが分かっていた。
敖虎は静かに話を聞いていた。
――一応、自覚はあるらしいの。
ならば、敖虎には独力でどうにか感情を整理してもらえばよい。今は闘炎淑のほうであった。
少し考えて、羋蒼旅はあることに気づいた。そして、養叔由を傍に呼んで耳打ちしたのである。
「今のことをそのまま、私の言葉として炎淑に告げてきてくれ」
微笑し、一礼すると、養叔由は出ていった。
「……何を言ったのですか?」
ようやく敖虎が口を開いた。羋蒼旅は腕を組んで堂々と、
「咸伯明は茨国に驍名高き将である。しかし闘氏の兵であれば勝てると確信したが故に、この策を進言したのだと、それだけだ」
「都合よく解釈されていますが、他に選べる策がないというだけのことですよ」
「そうだな。しかしまあ、私が言ったような思惑があったということにしておくがよい」
一応、非を自覚している敖虎は、そう言われると何も言えなかった。年下の主君に臣同士の不和で気を揉ませてしまったことへの後ろめたさはしっかりとあるのである。
兵を出すまで、短くとも三日はかかるかと敖虎は考えていた。しかし闘氏は、翌日には出兵のために必要なすべてのことを済ませてしまったのである。この速さには、敖虎も思わず舌を巻いた。
ただし敖虎も、向後の廟算はすでに済ませてある。後は咸伯明の居所を探り、羋蒼旅を囮として誘い出すだけであった。
ただし、それが巧くいくかどうかが分からない。そもそも敖虎は、学問は好きであり、兵書も何冊となく読んだが、軍師でもなければ武人でもないのだ。いいや、自分が兵を動かし策を以て敵に挑むような日が来るなどと、想像だにしていなかったのである。
しかしそれはそれとして、動かねばならない。
敖虎は近くの村に行くと、いかにも、何か事情を抱えた貴人が逃げ延びてきたという風を装って入り込んだ。羋蒼旅の他に、随伴は養叔由だけである。
村の者たちは、一応、受け入れてはくれたが怪訝そうな顔をした。
仮初の寝床として与えられたのは、村はずれの厩舎であった。ただしこれは、羋蒼旅がそれでいいと言ったためである。下手に建物の中に一室を与えられては、囲まれた時に退路がない。咸伯明としても、まさか王子が粗末な馬屋で寝ているとは考えないだろうと思ってのことである。
それと、養叔由は乗馬が出来ると言ったので、逃げる時に馬が近いと便利だというのもあった。
「しかし、叔由は何故に馬術などが出来るのだ? 馬に跨るなど、北地の者しかせぬと聞いているが?」
厩舎の茅に寝転がりながら、羋蒼旅が訊いた。王子という貴位でありながら、こういったところで寝食を行うことを厭わぬのが羋蒼旅という少年である。
「山道や荒れ地を行くには、馬のほうが都合がよいのです。それに闘氏には、車馬を揃えるゆとりも、車を造るゆとりもありませんでしたからね」
なるほどと、羋蒼旅は頷く。そして、荒れ道でも走り抜けられると聞くと、馬術というものに興味が湧いてきた。
虞領――王畿の人々は馬に跨るという行為を粗野であると嫌うのだが、元より彼らから南蛮と蔑視されている茨国の人々には、あまり乗馬に対する忌避というものがなかった。ただ、江が多いので、どちらかと言えば水運のほうが発達したのと、そもそも馬があまり多くないというのが、北地ほどに乗馬が広まっていない理由である。
羋蒼旅が関心を持つと養叔由は、
「いずれ落ち着きますれば、私が手ほどきいたしましょう」
と、微笑と共に言った。
二日ほど、二人はその村でのんびりと過ごした。しかし夜には、騒然とした軍装の音が聞こえてきたのである。
いよいよ、咸伯明が、この村に貴人が潜んでいるらしいとの風説を聞きつけて迫ってきたのだ。
「羋蒼旅さまはおられますか!! 烙漣さまがお探しにございます!! 我ら、主命を帯びて王都より参りました!! 武郢まで護衛いたしまする!!」
雷鳴のような大音声が、夜の村に響き渡った。咸伯明の声である。
咸伯明は、あくまでも、混乱の最中に連れ出された羋蒼旅を庇護するべく参じたという姿勢を取るらしい。羋蒼旅が咸伯明と羋烙漣の殺意を知ったのは偶然のことなのだから、当然のことではあった。
咸伯明は五十ほどの兵を率いている。いずれも戦車に乗り、炬火を耿々と照らして昼間のように明るかった。
そこへ、馬蹄の音が近づいてきた。
栗毛色の馬に、養叔由が羋蒼旅を同乗させてやってきたのである。
「王子――」
咸伯明は、感嘆の声を口にした。しかし、その身は車上に置いたままである。
「伯明よ、そなたは臣の身であろう。私を迎えるというのであれば、まずは地に膝をつけて首を垂れるが道理ではないのか!?」
「そのお言葉はもっともなれど、ここは未だ危うくございます。下車の礼を欠くことを、どうかご寛恕いただきたい」
厳然と、咸伯明は告げる。羋蒼旅の一喝など、雛鳥のさえずり程度にしか思っていないようであった。
「なるほど、傲岸不遜な物言いであるな。慇懃な言葉を並べ立てつつ、瞳の奥に剣気を宿し我が首を狙う男ほどのことはある!!」
高らかに叫ぶと同時、二人を乗せる馬が駆け出した。嘶きとともに跳躍する栗毛の馬は、咸伯明の頭上を越えていくと、背後の戦車の上に着地し、御者を踏み殺したのである。そのまま車上でもう一度跳ねると、瞬く間に戦車の壁を越えてしまった。
「今宵の私には、王子の騎手という大任がある。養氏に伝わる絶弓の妙、披瀝するは次の機会に」
去り際に、養叔由はそう言い捨てた。そして、馬を駆り走り去る。
咸伯明は、すぐさま兵に転進を命じ、後を追った。
夜半に、二十乗ほどの戦車を以て一騎に迫る追走劇が始まったのである。中でも、咸伯明の乗る戦車は馬が他の戦車のそれよりも良い。たちまちに、兵を抜かし、突出してきたのである。
それでも良いと、咸伯明は考えていた。相手は所詮、単騎に過ぎぬと見くびっていたのである。それが仇となった。味方を振り切ってしまった時、背後から叫喚の声が聞こえてきたのである。
――伏兵? まさか!?
そう思った時である。頭上から、何かが飛来するような音が聞こえてきた。
咸伯明は咄嗟に戦車から飛び降りる。直後、そこには、重さ五石(九十七キロ)もあろうかという、柄に紐をつけた鉄槌が降り注ぎ、戦車も、そこに乗る兵たちも、諸共に粉砕してしまったのである。
「貴様が咸伯明か!!」
荒々しい声が夜空を裂いた。声の方から、長柄の大斧を手にした巨躯の青年が飛びだしてきたのである。
「闘氏が長、羽夸が長子、炎淑だ。手合わせ願おう!!」




