第二十二話 イタ視ワ気
俺は二匹のムマがティシアに向かって、獰猛な牙を剝き出しにして突っ込んでいくのを確認する。
その好機を逃すべきではないと、俺は心中で少し懐かしさのある魔法を唱えた。
遅くなれ、と。
確か――今は自分以外にも効果があると言っていたはず。
白黒の世界は長くても五秒しかない。そのため、急いで子どもたちの元に向かい二人の手を掴む。
手を掴むと同時に、白黒だった二人の姿に色が戻り、動きも普通の速度に変わる。
子どもたちは何が起こっているのか分からない様子で、俺のことを不安そうに見つめていた。
「どうなって?」
「二人とも、大丈夫だから。少しだけ、走れる?」
「うん、大丈夫」
「私も、大丈夫」
動揺、不安、恐怖。二人とも良くない感情に包まれ続けてはいるが、少なくとも俺のことは信用してくれているらしい。
俺は一安心と息を漏らし、子どもたちを安心させるように優しく笑顔を浮かべる。
「よし、なら安全な場所まで一緒に――」
突如、白黒の世界が――消えた。
今までのように割れるではなく、文字通り消えた。
それは、何かに強制的に能力を切られたかのような感覚に等しく――。
「ハルキさん! 急いでそこから離れて!」
震えた声で吼えるティシアの方へ咄嗟に振り返る。
しかし、彼女の姿は視えなかった。
ダイヤモンドすらも砕かんとする牙を剥き出しにした一匹のムマが、俺の方に向かって走ってきていたせいで。
その眼は――更に紅くなっており、罠が上手くいったことを喜んでいるかのようだった。
急いで子どもたちを連れてムマを回避しようと試みたが――時すでに遅し。
背中に圧し掛かった重みに耐えられず、俺はうつ伏せの状態で地面に叩きつけられた。
「カハッ!」
叩きつけられた衝撃で全身に激痛が走るが、その激痛は蚊に刺された程度でしかなかった。
次の瞬間――凶暴で、鋭利で、獰猛な牙で左足を喰われる。
人生で味わったことがない程の激痛が左足に走る。
「っ!! ぁあああ!!」
「お兄さん!!」
痛い、痛い、痛い――ただ、痛い。
近くで叫んでいる子どもたち声が、小さく聴こえる。
ムマが足を噛み砕こうとするたび――激痛が走る、鮮血が迸る、肉塊が飛び散る。
いつの間にか、顔の方にまで自分の小さな肉片とともに血液が流れてきており、それをみた途端、表情が歪み、吐き気が襲いかかってきた。
――痛い。
思考が完全に閉ざされる。
骨が砕け始める音がする。
ムマを確認すると、ムマの視線は俺の方ではなく、二人の子どもに向いていた。
次はお前らだ、と言いたげに――。
「君たちだけ……でも」
まだ、大丈夫だと――俺は子どもたちの背中を押す。
痛い痛い。
子ども達は俺の言うことを素直に従い、逃げようとした。
しかし、ティシアの近くにいたもう一匹のムマが、森中の土を吹き飛ばす咆哮をあげたせいで、それに委縮してしまいその場にしゃがみ込んでしまう。
――無理もない。
「な……なん、で――」
遠くから、ティシアのムマに向けた疑心の声が耳に届いてきた。
◇◆◇
―― Titia side ――
何かが――おかしい。
何故、ムマがハルキさんを襲っている?
何故、ムマが「ヒト」を襲っている?
ありえない――目の前で完全に否定されているにもかかわらず、そんな言葉が頭を埋め尽くす。
ティシアはぐちゃぐちゃの思考を半ば強制的に抑え込み、思考回路に僅かな隙間を作り出した。
ムマが途中で攻撃対象を切り替えたのはただの偶然か――。
違う。ムマは理解していたのだ。
ムマは神しか襲わない――そう、「神」達が認識していると。
――だから、それを利用した。ティシアを襲うと見せかけて、二人の子どもを襲おうとした。
しかし、目の前にはハルキがいたから、代わりに彼を襲った。
そこには誤算があったとはいえ、ムマは確かに「ヒト」を襲い、喰らおうとしていた。
意思がある、智慧がある、思惑がある。
――単なる偶然と言い切ることがティシアにはできなかった。
一匹のムマがティシアを威嚇し、もう一匹のムマがハルキの左足を引き千切ろうとしている。
ハルキは地面から剥き出しになった木の根を左手で掴み、引っ張られないように必死に抗っていた。
ムマが口に力を入れるたび、ハルキの左足のふくらはぎから、絵の具のようにドロッとした液体が宙に舞い、噛み切れた皮膚と肉塊が、真っ赤に染まった地面を飾り付けようとばらばらに落ちていく。
地面に落ちそびれた血肉と血潮が己の身体にこびりつき、それによってムマは興奮を覚えるのか――更に眼を紅く輝かせる。
子ども達は足が竦んで動けなくなっている。
彼等に安全という単語は存在しなかった。
激痛が走っていることだろう、全身が焼け焦げそうな程熱いことだろう。
なのに、彼は何処からか力を振り絞ってティシアに対して吼えた。
「俺の足がどうなっても構わない! だから、ムマを殺れ!!」
「そんなのできるわけ――!!」
「子どもの生命と足の一本! どっちが大事かなんてわかるだろ!! それに、どうせこのままじゃ足は持っていかれる!!」
時間の問題だというのは分かっている。
それに、今ここで行動をとらなければ、威嚇しているムマが子どもを襲う可能性があることも。
しかし、現在のティシアにとって最重要のなのは、彼の安全を守って普遍的な時間を終わらせないようにすることだった。
既に後がない状況だとしても――いや、後に引けない状況になってしまっているからこそ躊躇が生まれる。
過去の私ならどうしていた?
現在の私ならどうしていた?
未来の私ならどうする!?
全ての時間が閉ざされつつある中での自問自答。
ティシアが持つ能力によって培われた無数にある過去の記憶の中から、最適解を探し出そうと――彼女は何回、何百回、何万回と頭を回転させる。
しかし、何も思いつかない。
分かってる――足さえ原形を留めていれば、神の持つ能力でどうにでもなると。
それでも、その瞬間は痛みと苦しみがハルキの元に流れ込む。
もしかしたら、回復が間に合わなければ死んでしまうことだってあり得る。
なのに――ハルキの言ったことが最善策なのだと、頭で何回もベルを鳴らす。
五月蠅くて、煩わしい。
「はやく!!」
「……ごめんなさい」
ティシアはハルキの案を認め、ゆっくりと右手を体の前にもっていき、二匹のムマに向ける。
一匹は彼女を威嚇してはいるものの、注意はハルキの方にいっていた。
今なら二匹同時に――かつ、ハルキを傷つけずに攻撃を与えられるはず。
ティシアは――唱える。
「――切り裂け!」
彼女の周囲に、曲線描く白き刃が八本出現。それらは光の如く高速に、雷の如く強力に――ムマに向かって斬りかかる。
二匹のムマはそのまま息絶える。
――なんてことはなかった。
威嚇していたムマが、獰猛な牙を収めた口を開き嘲笑する。
そして――。
「――――――――!!」
音という音を捨てた――無音ともとれる奇声で吼えた後――。
そのムマを覆うようにして、透明度の高い真っ赤な何かが現れる。
その何かはドーム状に広がっていき、そこに直撃した全ての刃を一瞬で虚無に返し――更には近くにあった二本の木を薙ぎ倒した。
一本の木がティシアの目の前に崩れ落ち、爆発音に近い音を立てて土煙を上げさせる。
土煙が消えたと同時に、ムマは見せつけるかのように――防御壁とも攻撃壁ともいえる真っ赤な壁を爆散させた。
ティシアの表情は慄然としたものに変わり、爆風を防ごうともせずに呆然とその場に佇み続ける。
爆風に薄紅色の長い髪がなすがままにされ、砂塵が目に入って涙が零れ落ちていることすら――彼女にとってはどうでもいいことになっていた。
「そんなこと、できるわけ――」
何故なら、神が使える能力の中でも強力と言われている能力が弾かれたから。
――しかも、いとも容易く。
ありえない――その言葉が、ただ目の前の現実を受け入れられないだけの、ちっぽけで陳腐な言い訳にしか聞こえなくなる。
しかし、何度も連発はできないはずと、ティシアはもう一度同じ力を使おうと右腕を持ち上げた。
その瞬間。
何かが砕ける音が周囲に鳴り響く。
赤い液体が舞い散る景色とともに。
「あああああああぁぁぁぁ!!!!」
「ハ……ハルキさん!」
皮膚が繊維のように千切れ、砕けた骨の一部が血で赤く、光で紅く染まりながら、森の中に飛び散っていく。
左足の断面は見ることを拒みたくなる程、気持ちが悪い。
力任せに引き千切られたせいで、尖った骨が切断部から軽く見えてしまっており、止まることを忘れた血液が、押し出されては地面に落ちて、ただでさえ赤くなっていた土の地面を更に赤く染めていく。
元の色は完全に失われていた。
そんな光景を横目に、ムマはハルキの左足を咀嚼することなく、ただ取り込むことを目的とするように丸呑みする。
地面を伝う土混じりの赤い液体が、十メートル以上は離れている筈の目の前にあった木に大量に付着し始めた。
加えて、木と地面の隙間をくぐり、少しずつティシアの方に流れ始め、彼女の靴の爪先部分を赤色に変えていく。
足を持ち上げれば、ベチャッという残酷で凄惨な音が鳴り響き、呼吸をすれば、鉄臭い非情で無情な匂いが鼻を通り抜ける。
吐き気を催す程の無惨さと、むせ返ってしまいそうな程の悪臭がティシアの表情を歪ませた。
ハルキの身体は痙攣を繰り返し絶え間なく動き続けるが、彼の目は閉じたままピクリとも動かない。
子ども達はムマを見ないように、そして、身を隠すように――全く効果はないだろうが、頭を抱えた状態で蹲った。
どうして、こうなった?
どうして、契約なんて行った?
本来、契約なんて行う必要なかった。
ハルキを元の世界に帰して、また普遍で不変な人生を歩ませれば良かった。
確かに、元の世界で死んでいたかもしれない。整合性が取れない可能性だってある。
しかし、できないわけじゃない。
それを契約内容として、アルカナが定めたのだから。
どうして――契約なんて行ってしまったのだろう。
どれだけ願ったとて、どれだけ望んだとて、どれだけ祈ったとて――もう、過去に戻ることはできない。
――しかし、彼の未来はまだ作る事が出来る。
「ハルキさんのことは必ず守るって――ずっと誓ってるんですよ!! ……だから――」
やることはもう決まった。
ティシアは神しか持たない能力を使い、デザイン性の欠片もない短剣を虚無から出現させ、その剣を右手で掴み取る。
そして、何の躊躇もなしに左腕に突き刺した。
人工的につくられたかのように鮮やかな血の大半が重力に逆らわずに落ちていき、逆らった鮮血はティシアの顔に付着し赤く染める。
全身に痛みと熱さが走り抜け、彼女の右足が僅かに後ろに下がる。
「……さいごに謝れないのは心残りですが」
途中まで従順だった紅血は重力を裏切り、ティシアの周囲に泡のように浮かんでいた。
最大限の魔力を解き放ち――ハルキのすべてを終わらせて、全てを始める。
そのために、ティシアは宙に舞っている紅血を一か所に集めていく。
『何をしようとしているのかしら?』
その時――突如として、脳内に語り掛ける存在が一人。
その正体はティシアとは違う別の神であり、彼女と同じく記憶を司る女神である。
「……イリエラ。どうして?」
『通常あり得ない量の魔力を検知したから、とだけ言っておくわ。……それより、もう一度聞くけれど、一体何をしようとしているのかしら?』
「彼を元の世界に――帰すんです。全部なかったことにして、全部夢だったことにして! 本来そうあるべきだったんです! ……最初から、そうするべきだった!」
『それはアルカナ様の意思に反することになるわ――』
「彼女がなんだっていうんですか!? 今までこんなことなかった! だから、従っていた。――でも! ――この状況でアルカナ様の指示に従えっていうんですか!?」
ハルキがこの世界に来た時にはムマなんて存在しなかった。
――存在していたとしても、彼や「ヒト」に対しては一切の危害を加える存在ではなかった。
しかし、既にその前提条件は破綻した。
たった今――目の前で。
『……そうよ。その場所で彼が死ぬことはない。ただの痛み、ただの苦しみ。……味わうのはそれだけ』
「ムマがそんな陳腐な常識を守っているとは思えない。死ぬことだって十分あり得る! ……――こんな状況でも彼女の意思を守ろうとするなんて……理解できない」
『それは、あなたが「ヒト」と「神」のキメラだから』
「……本当、イリエラは私のことが嫌いだね」
『嫌いなわけないわ、大好きよ。だって――。とにかく、元の世界に帰すのは絶対にダメよ。もう後はないの――他に手段はあるはずだわ』
「……確かに、それだと子ども達を助けることはできませんものね。……分かりました。だったら、あの能力を――」
『馬鹿! そんなの使ったらあなたの精神が持つか分からないわよ! ……あなたは自分が「何モノ」か理解しているのかしら!?』
「…………分かんないですよ。――もうとっくの昔から」
正しくは――「何モノ」か理解してしまったせいで「何モノ」か分からなくなった。
「何モノ」か分からなくなり、自分を見失い――精神が保たれているのかさえ怪しい状態。
現在のティシアにとって、精神が蝕まれることなど些細な問題――いや、ないに等しい問題だった。
イリエラの心配はごもっともだが、その心配はティシアに対しては意味がないものでしかなかった。
それにもし――仮に彼女の言うとおりになったとしても、手段を選んでなんていられない。
「強制終了します」
『あ、ちょっ――!!』
ティシアはイリエラの会話を無理矢理切断する。
彼女の慌てた声が途中で無慈悲に掻き消えた。
神々の精神が壊れる条件とは何だろうか。
色々言われているが、よく言われるのは――。
「ヒト」との何かが失われること。そして、「ヒト」を殺すこと。
神には「ヒト」の安寧を保ち、普遍的な人生を辿らせる義務がある。
決して、「ヒト」に自分が神であるとバレてはいけないが、世界に降りて「ヒト」と普通の生活を送ることだってある。
神にとって最も重要な存在である「ヒト」。
彼等との記憶を失い、彼等を殺すことは――「死」を求めたくなる程罪深く、「死」を求めたくなる程耐え難いもの。
ティシアが今から使おうとしている能力は、前者を脅かすものだった。
大丈夫――少しだけ、大事な記憶が失われるだけ。
ティシアの目の前に浮遊していた血でできた球体は、再度泡のように分散し、二匹のムマの周囲でドームを形成し包み込んでいく。
子どもを襲おうとしていたムマが事態に気が付き、その場から離れようと走りだすが――彼女の鮮血に当たった瞬間弾かれた。
ティシアの周囲は赤と黒と白のオーラで眩く輝いており、彼女の服と薄紅色の髪は大きく靡いていた。
そして何より――。
彼女の両眼は、ムマよりも眩く、ムマよりも明るく――真っ赤に輝いていた。
「ガアアアアアァァァァァァ!!」
危険を感じたのか――ティシアを威嚇していたムマが音と認識できる声で吼えた。
それは天を劈かんとする程の大きさ。
萎縮してもおかしくない咆哮を受けても尚、ティシアは微動だにせず――ただ、唱えた。
「スベテオワレ!!」
声がそこにあったのか。
少なくともそれは――歌というには近すぎるが、音というには遠すぎた。
そんな、誰にも理解できない詠唱が森に響き渡った瞬間。
血が爆ぜた。
景色を全て消し去るほど真っ赤な閃光。
鼓膜が破れてもおかしくない爆発音が世界を震わせ、歌のような何かが不協和音を奏でる。
時間の感覚すら失われた空間で暫くの時間が経過し、光が収束した頃には――ムマの姿は無くなっていた。
突然、静謐な空間に包まれたことで森は困惑するように草木を揺らす。
ティシアの血はどこにも無くて、ハルキの血だけが地面に流れ続けている。
血の海の上には、ムマが喰らったハルキの左足が、引き千切られた時と全く同じ状態で浮かんでいた。
ティシアは朦朧とした意識の中で、倒れた木を跨ぎ、ハルキの足を両手で拾う。
そして、千鳥足になりながらも、彼の元へと歩いていき左側に正座した。
子ども達はムマがいなくなったことに気が付いていないらしい。
必死に蹲っている二人を安心させてあげたかったが、ハルキの回復が優先。
千切れた足を彼の傷口に綺麗にくっつけ、ティシアは体内に僅かに残っている魔力を全て使い、神の能力でハルキを治癒していく。
二分程でその能力は止まる。
ハルキの足には僅かな傷が残っていたものの、殆ど完全と言っていい形で治癒されていた。
「大丈夫……です、カ?」
ハルキの意識はなかった。ただ、息はしている。
死んではいなかったことにティシアは安堵の域を漏らす。
「とにかく……早ク、ここから」
ティシアは子ども達の肩を叩いた後、ハルキの肩に手を回そうとした。
しかし、それは叶わなかった。
突然、落ち着きを取り戻し始めていた森の木々たちが、再度ざわつき始めたせいで。
ティシアは慌てて顔を上げて辺りを見渡すと――周囲には先ほどまで対峙していた奴と同じ個体のムマがいた。
しかも、五匹。
取り囲むようにして佇むムマ達は、紅い眼でティシア達を睥睨している。
復讐ともとれる表情を浮かべているムマ達を見て、ティシアは最早笑うしかできなかった。
「あはは……囲まれた。――本当、サイアクですね」
体力も魔力も全部底をついており、どうすることもできない。
身体に力が入らず、意識も朦朧とする。
ティシアは意識が途切れていくのを感じながら、ハルキを覆うようにしてうつ伏せに倒れた。
何もかもが終わりだった。
ハルキと子ども達だけが死んで自分のみが生き残る。
そんな最悪の結末。
――もしかしたら、このムマなら自分も殺せるのではないだろうか。
だとしたら、一思いに殺してほしいとさえ思う。
受け入れる力も何もないまま、目を閉じる。
世界の音が遠のいていく。
――だから、近くで轟く破裂音に気付くのが遅れた。
森の中の音にしては明らかに異質で――明らかに人工的。
ティシアはさいごの力を振り絞って、片目を開ける。
「あなたは……一体?」
目の前に誰かいた。
視界が歪んでいて、それが「救済」なのか、それとも「絶望」なのか。
彼女には分からない。
ただ、今は――「救済」と信じるしかなかった。
◇◇◇
ティシアは重過ぎる瞼を無理矢理持ち上げて、身体を起き上がらせる。
視界ははっきりとしていて、周囲の色を確認するのも容易だった。
今、ティシアがいるのは青いビニールでできた巨大なテントの中。
彼女が眠っていた真っ白なベッドの右に簡易的な入口があった。
ベッドと形式的に置かれた椅子以外は特に何もなく、五人は余裕で入れそうに思える。
ここは何処だろうとか、ベッドから起きていいものなのかとか――そんなことで困惑していると、誰かがテントの中に入ってくる。
「目が覚めましたか?」
その人物はティシアを心配してくれているらしい。
男なのか女なのか――中世的な声すぎて性別がまるで分らない。
真っ白な髪が肩にかかるくらいまで伸びており、身長も百五十五センチメートル程度と小さめ。
そう考えると女性かと思うが、肩幅は広めで――胸も全くない。
顔を確認したくても、錆びた鉄で作られた歪なマスクで口を覆っているため、輪郭が分からない。
「…………あなたは?」
「ああすいません、申し遅れました。私の名前は――クレン、ということになっています。本名は実は覚えていないんです」
女性の名前の最後はア段の何れかであると決まっている。
それを踏まえると男性なのか、とも思ってしまうが、結局はっきりとしたことは分からなかった。
「昨晩は子ども達二人を助けていただきありがとうございます」
「こちらこそ……私を助けてくれたんですよね。ありがとうございます」
昨日の夜助けてくれたのは、おそらくこの人なのだろう。感謝とともに、子ども達が無事でよかったと、ティシアは安堵の域を漏らす。
しかし、今の発言ではハルキの安否が確認できないままだった。
「ハルキさんは? ……えっと、近くにいた男の子なんですが。――それに森に迷い込んだ仲間を探さないと」
「ルイさんとユリアさんですよね。二人なら、昨晩、あなた様方よりも先にこの場所で保護していました。それにハルキさんも無事です」
「それならよかったです」
今度こそ、本当の意味で安堵の域を漏らすティシアを見て、クレンは優しく微笑みかける。
「もう暫くゆっくりしておいてください。まだ、身体が重たいでしょうから」
「……ありがとうございます」
クレンは入口の前で一礼して、テントを後にした。
クレンが完全に去ったのを確認した後、ティシアはベッドに背中をくっつけて、両目を右腕で覆った。
「……普遍的な人生なんて――もう、誰のところにもないのかも……ですね」
昨日の夜に起こった出来事を思い返しそんなことを考える。
神の普通の能力では太刀打ちできない、強力で凶悪なムマ。
あんな存在が跋扈し始めたら――「ヒト」なんて容易く滅んでしまうだろう。
――それでも、神である以上、人々の人生を普遍で不変なものにする義務がある。
彼女だって普遍な人生を送るべきだった。
――そう思った時、ティシアは不自然な記憶の欠如を発見する。
「ユリアさんのお母様の名前……なんでしたっけ? それにお父様の名前も」
きっと大事な記憶だったのだろう。だって、あのタイミングで失われたのだから。
誰にもバレぬように虚ろを誤魔化して――また、彼女の心と精神は壊れ、蝕まれていく。
「こんな生命、さっさと――」
誰かに聞かれては困るようなことをぽつりと口ずさみ、彼女はまた眠りにつこうとする。
頬を伝って零れゆく涙が誰かに見られることはなかった。
◇◆◇
―― Luis side ――
森の中にある小さな村。
木々があるのは村の周囲のみであって、村の中は開放的で空が綺麗に見える。
「ティシアが目を覚ましたって!」
地面に座って空を眺めていると、ユリアのそんな声が耳に入ってくる。
遠くから聞こえてきたにも関わらず、声の方へ振り返ると、既に目と鼻の先にまでユリアはやってきていた。
ルイは徐に立ち上がり、ズボンについた土をパタパタとはたいて落とす。
「一緒に行く?」
「えっと……先にハルキが起きてるかどうか確認しておいてくれる?」
「え? なんで?」
「ええっと……もし起きた時、ハルキだったら寂しがるかもしれないし」
「……ルイとハルキってそんな詳しい間柄だっけ? でも、確かにそんな気がする」
ユリアは何度か頷いて、自分を納得させた後、ルイの指示に従ってハルキのいる別にテントに歩いていった。
普通に建物はあるのだが、ティシアとハルキ――そしてルイ達のために突貫工事のテントを建ててくれている。
クレンには感謝しかない。
ルイは感謝の気持ちを覚えたままティシアの元へと向かう。
「失礼します」
テントの中に入ると、ティシアは体を持ち上げた状態でぼーっとしていた。
しかし、すぐにルイの存在に気がつき楚々として笑った。
「おはようございます」
「うん、おはよう。――それと今は、はじめまして……でしょ?」
「あはは、ご明察です」
彼女の苦笑する姿に、ルイは靉靆とした表情を見せる。
「また――無茶をしたんだね」
「申し訳ないです」
「ううん、怒ってはないよ」
ルイは穏やかな笑みを溢してティシアの寝ていたベッドの横に置いてある椅子に腰掛ける。
そして――今までと同じように、封じ込められた記憶を解き放っていく。
出逢いを語ることで。
出来事を伝えることで。
ゆっくりと彼女の中につくられた絡まった糸の塊を解かていった。
「どう? 思い出せた?」
「はい、ありがとうございます。……迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
「良いよ気にしないで。……これが今の僕にとって、生きる意味――ううん、役目みたいなものになってるから」
流石に生きる意味が重すぎると思い、咄嗟に言い換えるが、残念ながらティシアには聞こえていたらしい。
辛そうな表情を浮かべる彼女に、ルイは無理矢理笑顔をつくるほか無かった。
「それで、何かまだ思い出せない事とかある?」
「それが……」
ティシアはユリアの母の記憶が消えたことを伝える。
「それってどんな感じ? のこってる感覚はあるの?」
ルイの質問にティシアはゆっくりと首を左右に振った。
それは、記憶が封じられたのではなく、完全に失われたことを意味していた。
――きっと、名前だけでなく、想い出もすべて消え失せているだろう。
「ごめん。僕にも名前は分からないよ」
「…………そうですか」
一切の面識がないルイにはそうティシアに伝えるしかなかった。
彼女の翳った表情を見るのが辛い。心臓が締め付けられるように痛い。
しかし、自分が彼女の心配の根にはなりたくないと、痛い心を無視して作り笑いを浮かべる。
「ユリアも呼んでくるね」
そう言って、ルイは半ば逃げるようにテントを後にした。
外に出た時、彼は叫びたくなる感情を抑えるのに躍起になる羽目になった。
もし、僕の記憶が完全に失われたとしたら、どこまで耐えられるのだろうか。
いや、耐えられないから、彼女にとって大事な「何モノ」かになることを僕は――。
――拒み続けているんだ。
文字数を十三万文字(一巻の平均文字数)に合わせたくて、ずっと書くタイミング考えていたのですが、漸く書く事が出来てほっとしています。
一段階目は終わった。リアとニアの話に戻りながら、次の段階に進んでいく。




