シツオクの残滓―一 「愛する家族のために」
「ねえ、ママ?」
「……なあに?」
十二歳前後の少女の呼び声に、一人の女性は編み物をする手を止めて、優しく声をかける。
二人は家族の間柄――娘と母。
家のリビングはシンプルではあったが、生活感が漂い家族の愛をひしひしと感じることができる。
一つのことを除けば平和な時間で、一つのことを除けば仲の良い家族の関係。
しかし、娘が口にしたのは、その平和な時間を壊してしまうような内容であった。
「もし、私がお金になったら、パパって救える?」
母は意味をすぐに理解する事が出来なかった。
何故、そんなことを言い始めたのか。何故、そんな考えにたどり着いたのか。何故、自分の身を犠牲にしようとしているのか。
何も分からなかったが、娘に対して、一つだけ言わなければならないことがあるのだけは分かった。
「あなたはまだ子どもなんだから、そんなこと言っちゃダメよ!」
少しだけ怒りの籠った声に娘は委縮するも、彼女はすぐに真剣な表情をして、母に何かを告げようとする。
「だって――」
「……ごめんね。でも、お願い。これからは絶対にそんな事言わないで。……だって、ユリアは私達の大切な娘なんですから」
編み物を床に落として、ユリアを抱きしめながら、母はなんども彼女の背中を優しく叩き続けた。
なんども。
なんども。
なんども。
優しく、愛をこめて、叩き続けた。
ユリアが眠った後、母は父親の眠っている部屋に向かい、そして、父の眠っているベッドの横においてある小さな椅子に腰かけた。
蝋燭一本と月明りのみが部屋を照らしており、中は薄暗い。
母は父の左手を両手で握り、今日のユリアの話を彼にしていく。
「ねえ、あなた。……今日ね、ユリアがおかしなことを言ったの。自分がお金になったらあなたを救えるのかって」
母は乾いた笑みを零しつつも、今もなお眠り続けている父に向って話を続けた。
「あなたのことを大事に思ってるからこそなんだって分かってる。……でも、私はユリアにそんなことを言わしてしまった。母親……失格ね」
父は眠り続けている。三年前からずっと――。
父親がおかされた病気は、不治の病と言われていたものだったが、半年程前に、その病を治すといわれる薬が開発された。
しかし、その薬はあまりに高価で、貴族や高尚な身分でなければ買うことは困難であった。
――ただ、その薬を購入するための金銭を、一気に稼ぐ方法がないわけではなかった。
それがユリアが提案した自ら――子供に限る――を金に換えてしまうというもの――つまり、奴隷契約である。
勿論、娘にそんなことをさせるつもりは彼女にない。
「まだ、あなたを助けるだけのお金は用意できていないけれど、でも、すぐにきっと――」
もっと働いて、もっとお金を稼いで、そして、父を救う。
ユリアが絶対にあんな事ももう一度言い出さないように。
そしてまた、家族の幸せな時間がこの家に戻ってくるように。
しかし、彼女は気付いていなかった。その光景を見ていた一人の少女の姿に。
◇◇◇
真夜中の空間に、一人の男性と一人の少女の姿があった。
雲一つない夜空から、星々の楽し気な輝きが世界を灯す。
「ねえ、本当に私がお金になったら、パパは助かるの?」
「そうだ……君のおかげでお金が手に入って、君のパパを救うことが出来る」
男自身嘘は決してついていない。それによって、お金が入るのは事実だった。
――ただし、お金の量の話は、一切していなかったが。
しかし、子供を騙す分には、そんな内容なくてもかまわない。
男は不敵な笑みをユリアに見せながら、彼女に話を促す。
「もう一度言うよ。君のおかげでパパを救うことができる。君の勇気ある行動のおかげで。どうだい? この部分に名前を書くだけだから」
「…………みせて?」
きっと他人から言わせてしまえば――ユリアは大馬鹿野郎、なのだろう。
しかしユリアは、その大馬鹿とも呼べる選択をした。
つまり、この後に残ったのは――ユリアがその承諾を自らの手で飲んだという事実だけだった。
◇◇◇
「なんで!?」
「なんでとはなんでかな?」
「なんでユリアを奴隷にしたのよ!?」
ユリアの母は頽れた状態で、嗚咽混じりで男に向かって吼える。
しかし、男は彼女の死にそうな顔を見ても尚、表情を変化させずに、しらばっくれていた。
「何を言っている? これはユリアちゃん自身が選択したことではないか」
「そんな嘘をよくもお前!!」
口調が乱暴になり、ユリアに見せる穏やかさは一切ない。
あの時のユリアの言葉から、嘘ではないことを彼女は理解していた。だがしかし、彼女は目の前にいる男が、何らかの手段を用いてユリアを誘導したことを薄々勘づいていたのだ。
彼女は、目の前で悠々と突っ立ている、太った男に対して、敵愾心や苛立ちをむき出しにしたまま、定まらない言葉で相手を責め立て続ける。
「何故! なんで!! 貴方が!! ――そんなこと……するのよ……ロダン」
「…………まあ、もう良いか。いいか、よく聞け。俺は元々最初から、こうするつもりだったさ。病気は僥倖だっただけ。彼女は可愛らしい。そして迦陵頻伽の声を持ち、何より、本当の愛を知っている。これほど素晴らしい奴隷対象はいなかったさ」
彼女は目を見開いて糾弾しようとするが、ついさっきまで責め立てていたたことによる疲労、精神面の疲弊から、口を開いても声が外に出ていかなかった。
漸く、喉を通り外に出た言葉は、すぐさま空気に飲み込まれそうなものだった。
「こんなお金はいらないわ。だから今すぐ――」
「君は夫を見捨てるのかな? 大事な娘の優しさも覚悟も愛情も、すべて無視して」
それを聞いて、彼女は口を噤む。
夫を助けるのか、娘を助けるのか、娘の覚悟を無下にするのか。
全てが噛み合わない歯車のように、脳内で行って戻ってを繰り返す。
噛み合う歯車のみを進んで辿り着いた先にあった言葉を、彼女は抵抗せずに声に出した。
「どれだけのお金があれば、ユリアを……返してくれるの?」
「そうだな……そのお金の二倍……いや、三倍だ」
「そんなの……」
「――感謝するんだな。彼女のおかげで愛する夫を助けられる可能性が増したのだから」
「殺しはしないさ」と取ってつけたように、ロダンはさいごの言葉を口にした後、愛の消え去った家を後にする。
彼女に彼を止めるだけの気力は既になく、靉靆の表情を浮かべて、家中に負の空気を充満させていった。
「……私は、今――どうしたらいいの? ……あなた」
子どもの実行力は、時に大人の予想をはるかに超える。
ユリアは父を助けるために、自らの自由と命をなげうってまで、
このお金は誰のために使うべきなのだろう。
ユリアを取り返すため? 父を助けるため?
どっちを選択するにせよ、お金が足りない事実はある。
「……もっと、働かなきゃ」
今のお金では、誰かを雇ってユリアを救い出すことさえできなかった。
「……もし、今あの子がいてくれたら――」
叶わぬ願いを持ちながら、彼女は自分の身をすり減らしながら、仕事に明け暮れた。
そして、一か月が経過したある日。
「あなた? ……ねえ、あなた?」
彼女はなんども父親の体を揺さぶる。
心臓も、脈拍も、呼吸も――何もかもが動いていない父の体を。
「どうして? ……お願い。今あなたが居なくなったら――」
ユリアは何のために――。
結局、父はあっけなく命を落とした。そもそも、三年間も生き続けたことが奇跡に近かったのだ。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
父が死に、娘がいなくなる――そんな現実を突きつけられたことに比べれば。
生きる意味も全て見失って、自らの手で自らの生命を捨てる事も考える。
しかし、そんなことをしてしまっては、ユリアに一生憎まれるだろうし――自分でも自分を永遠に呪うだろう。
彼女はすぐ近くに置かれていた、ロダンが置いていったお金と継続契約なるものから発生する――ユリアが一か月の間、奴隷を継続したことによるお金に目を通す。
もし、ユリアを助ける事が出来たのならば。
「二人だけの幸せの形も……ある、のよね?」
そこに父がいなくとも、幸せがあるのなら――今は生きて、ユリアを助けたい。
「倍以上働いても、健康に支障はきたさないわ」
しかし、彼女の精神は徐々にすり減っていくだけだった。
そして、ユリアがいなくなって半年が経過した頃、身体の崩壊と精神の崩壊が襲い掛かり、負の連鎖が彼女を蝕んでいく。
理想はなくなって、そこにあるのは現実のみ。
いつしか、最悪の連鎖によって、彼女は負の感情に包まれるようになっていた。
そして今も、父親の半年前まで眠っていたベッドに両腕を置いて、床に座り込みながら、彼女は負の感情に流されていた。
夫を返して。
ユリアを返して。
幸せを返して。
愛情を返して。
幸福を、家族を、未来を、時間を、日々を、夫を娘を幸を愛を時を光を希を夢を喜を好を慈を昔を――返して。
――全部全部全部……返して。
何もかもが奪われて、何もかもが戻ってくることもない。
それが現実で――たとえ、不条理だと思ったとしても抗うことはできない。
彼女の心も体も完全に壊れかけていた時、家の外から大きな異音が、家すらも震わせるように鳴り響く。
「…………何?」
彼女は怯えながら、よろよろの足を動かして、玄関に向かおうとする。
そして玄関に向かう途中で――家の中にも爆発音が響き渡った。
◇◆◇
「おい! どういうことだよ!?」
「どういうもこういうも……今言ったとおりだよ。ジョセフ、お前の奥さんと子どもさんは――」
ジョセフの家族は良くも悪くも一般的な家庭であった。
――ただし、昨日までは。
彼の家族に襲い掛かったのは、三年前、この都市で急激に広がり、多くの人々の命を落とさせた病であった。
しかし、運命か、あるいは奇跡か――ジョセフの家族は何故か病にかかることはなかった。
周囲から訝しい目を向けられながらも、彼らは幸せな時間を過ごしていた。
だが、そのすべては既に崩れ去った。
三年間の幸せな時間を破壊するように、三年間の対価を払えというように――病気が家族の幸せを侵食していった。
「くっ、なんで……! 今まで三人とも!」
「それは俺にもわからない。ただ、ここにはもう――かかったという事実しかない」
白衣を着た男が椅子に腰かけながら、ジョセフに対して、表情を崩さないように平然を装ってただ告げた。
実際のところ、この病を治す薬は存在している。
二か月ほど前に、別の都市から病を治す薬が運ばれてきたのである。
そこの都市は、六年程前にこの病気が流行り、三年程前に薬が開発されたようだ。
何故この都市で流行したときに即座に薬を運んでくれなかったのかと憤りを覚えた時期もあった。
しかし、都市間の情報共有が発展していなかったせいで、この都市に薬を届けるのが遅くなったとされており、どうしようもない事情だったといえる。
とにもかくにも薬はある。
だが、それは非常に高価で、今のままでは全員分の薬を買うことはできないというのが現状であった。
「その薬……もう少し安くならないのか?」
「…………すまない。これ以上は値段を落とせない。遠くの都市の薬なんだ。運ぶだけでも相当な金がかかってる」
「っ」
ジョセフは机を思いきり右手で殴りつける。痛みが体を伝搬するが気にしない。
自分の無力さを知った彼が、自らの過去を悔いようとしていた時、目の前に座っていた茶髪の医者が、突拍子もない質問をジョセフに投げかけてた。
「…………なあ、お前は救いたい奴のためなら、罪に手を染められるか?」
「……当たり前だ」
「――そうか。だったらこれを」
「これは?」
医者に手渡されたのは、報酬金の出る仕事の概要が手書きで書かれた一枚の紙きれだった。
「近々その都市で、大きな奴隷売買が行われるそうだ。その時の護衛任務ってところだろうな。これの依頼主は、一度お前に助けられて、その能力を買っているらしい。……俺のところにこれが届いたとき、お前には絶対黙っていようって思っていたんだがな。――その報酬さえあれば、全員分の薬を購入して、投与することが可能になる」
ジョセフはその紙切れを見つめながら長い沈黙を貫いていると、医者は「ごめん」というように一度頭を下げた。
「…………いや、すまない。お前がそんなこと――」
「やるよ」
「は?」
「だから、やるつってんだよ」
ジョセフの言葉に、医者は本気で驚いていたようだった。目を見開き、右手に持っていた鉛筆を机の上に落とす。
「おい、お前まじかよ。俺が提案しておいてなんだが、まじめなお前が道を踏み外そうとするなんて」
「俺はまじめじゃない。――ただ、家族のために頑張ってきただけだ」
家族がいないのであれば、まじめである必要はない。
家族を助けるためならば、道を踏み外そうとも構わない。
ジョセフは医者に一礼した後、都市の小さな診療所から外に出ようと入口にまで足を進める。
「――……死ぬなよ」
「……分かってるさ」
例え、悪の道に染まろうとも。例え、周囲の人間から蛇蝎の如く嫌われたとしても。
――例え、この先に待つ未来が死であったとしても。
彼は決して止まることはなく、ただまっすぐと真っ暗な未来に向かって進んでいく。
――愛する家族のために。




