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血の味がすると思ったら、どうやら歯がぶつかった際に切れてしまっていたようだ。
シュリーたちはまだ談話室にいるのか、部屋にはまだ誰もいない。
私は、部屋の鏡台に映った自分をふと見つめる。
そこには、腰までの黒髪をポニーテールにした女が、泣いたと丸わかりの顔をして立っていた。釣り上がった目元は赤く染まり、切れた唇が赤く染まっている。
こんな顔で泣きながらブラントに迫ったのかと、今更ながら自分に赤面する。
とうとう言ってしまった...。
逃げるように取り残してきたブラントの、驚いた顔を思い出す。
そういえば、ブラントの唇も同じように血がにじんでいた気がする。
怪我させてしまっただろうかと気にするよりも、何をしても動じないブラントを傷つけたかもしれないというその事実に、ぞくりと背徳的な気持ちにさせられた。
どこか壊れた自分の感情に皮肉めいた笑みがこぼれる。
なんの混じり気もない、本当の純粋な気持ちでブラントを追いかけていたのは、いつまでだったっけ。
今だってきっと、偽りない気持ちでブラントが好きだ。だけど、この暗い気持ちを伴うようになったのは、いつからなんだろう。
頭にもやがかかったように、ぼんやりし始める。
その答えは、考え込まなくたって分かってる。
フタをして見えないようにしてきたのだから。
なのに、急にどうしてこんなに苦しくなるのだろう。
ブラントとのキスが、私から奪った一方的なものだったから?
それもある。
自分を抱きしめるようにベッドの上に座り込んだ。
ゆりかごに揺られるように体を揺らす。
わけもない苦しさが襲ってきて、きつく目を閉じるけれど、涙がとめどなく溢れて顎を伝い落ちていった。
『──傷はつけんなよ。商品だってことは忘れんな』
『要はちょっとくらいなら大丈夫ってことだろ?』
『ほんとーにちょっとだからな!』
男たちの下卑た笑い声がよみがえり、私を酷くさいなむ。
両手で両目をふさぎ、誰にともなく泣き言を漏らした。
「いまさらっ、なんで...っ」
ブラントとのキスが、トラウマの引き金になったなら、なんて皮肉なんだろう。
どんなに力をつけて立派になったとしても、こうして捕まってしまう私は、あの頃からちっとも成長していないのだと、錯覚させられる。
臆病で泣き虫な、ひたむきにヒーローを待ち望む、無力な少女だと。
☆
ふと気づけば、華奢な腕に抱きしめられていた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
いつもそうしてきたように、酒に酔った状態で、なだれ込むように眠ったのだろうシュリーが、私の体に抱きついて眠っていた。
窓の外はまだ暗いが、そろそろ準備してしまおうかと起き上がった私に気づいて、シュリーが小さく目を開けた。
「もう朝かあ。やっぱベッドで寝るときは寝過ごしちゃいそう〜」
「もう少し時間ありそうだから寝てていいよ。もうちょっとしたら起こしてあげるから」
「クク、もしかして、夕べ泣いてた...?大丈夫...?」
ベッドから立ち上がると、そんな不安そうな声が私を追いかけてきた。
やっぱり見られてたか。
巻きついていたシュリーの腕を思い出し苦笑する。
「変な夢、見ちゃったのかも。」
「ククを泣かす奴は、私がぶっ飛ばしてやるから、安心してね...」
私の言い分など聞かずに言いたいことを言って、シュリーはすーすーと気持ち良さそうに寝息を立て始めた。
シュリーの柔らかそうな頬をぷにっと押して、お礼を囁く。
洗面所へ行き、顔を洗った。
鏡の中にいる私は目が赤く、下唇には昨日の傷跡が残っていた。
回復薬を飲めば、あっという間に消えてしまいそうなこの小さな傷を、消したいと思わない。
ブラントの温もりを鮮明に思い出せる気がして唇に触れると、何故か途端に心細い気持ちにさせられた。
情けない顔をしてこちらを見つめる女を睨みつける。
──しっかりしろ。
もう、何もできない少女のままじゃない。
仲間もいるし、守るべきものもある。
両頬を両手でばちりと叩き気合いを入れ、私はシャワーを浴びて、シュリーを起こすために部屋へと戻った。
☆
シュリーを起こし、皆が集まるであろう屋敷の前へと向かう。
廊下を歩いていると、後ろからレストの声がした。
「よお。よく寝れたか?」
振り返ると、レストとミミリスが私たちの後を追うように歩いていた。
昨夜の談話室での雰囲気から、その後どうなったかと少し心配していたが、どうやら大丈夫だったらしい。
いつも通りの2人の姿にほっとする。
隠れ里に入った辺りからルベル湖まで、およそ1日ほどかかる。
互いにメンバーのメンタルにも気遣いながら、今までもやってきた。
だからこそ、レストが私のちょっとした変化に気づいたとしてもおかしくはない。
昨夜シュリーが私を慰めるように抱きしめて寝たのも、そういったパーティーメンバーに対する家族のような気持ちがあってこそだ。
「お前、口にそんな傷あったっけ?」
予想通りの指摘とはいえ、思わずレストから目を横にそらす。
めんどくさいのでとりあえず誤魔化すことにした。
「昨日ブランと手合わせみたいなことをしたから切ってしまってたみたいだね。」
「ふーん?で、なんで消さねえの?いつも回復薬湯水みたいに使ってるだろ。バカ高えからやめろって止めてもどうせすぐ作れるから良いだろとかなんとか言うくせによ〜」
「......。これくらい普通の冒険者なら放置でしょ。これはこのままでいいの。」
「......それはいつも俺が言ってるセリフな。」
「はいはい」
ちょっとしつこいので放置して出口へと向かう。
屋敷から出ると、既に皆出発の準備を始めていた。
馬車2台はいつでもご令嬢を乗せても良いように屋敷の前に配置され、騎士たちは各自馬の手綱を手に取り、それぞれの場所で待機している。
先に来ていたサヴィが、私たちに気づき声をかけてきた。
「おはよう。よく眠れたか?」
そんなサヴィに、パーティーメンバーがそれぞれ挨拶やお礼などをする。
丁寧に返事を返し終えてから、私を見たサヴィの表情が、少し厳しいものへと変わった。
あ、またかと思う。
「それ、どうした」
サヴィが短く尋ねる。
私は先ほどパーティーメンバーに告げた言い訳をもう一度サヴィに答えたが、サヴィは信じていないようだ。
私を手招きし、少し離れた場所へ連れ出す。
「昨夜あの後何があった?お前、あの時みたいな顔してるぞ」
私はすぐに答えることができなかった。
瞬時に脳裏をよぎるのは、不安定な状態になってしまった自分の姿。
それを慌ててかき消す。
「大丈夫。ちょっと思い出すようなことがあったけど問題ない。」
「問題がないようには見えないから言っている」
「お願いだから大騒ぎしないで欲しい。あの時の事はサヴィと私しか知らない。公にしたくないの」
手を合わせてお願いすると、サヴィは渋々と「何かあればすぐに言ってほしい」と言って引き下がってくれた。しかし、その視線は鋭くブラントの姿を見つけ、睨みつけるように見ている。
私は気を取り直して、お礼を告げた。
「サヴィ、昨夜は一晩泊めてくれてありがとう。おかげでみんなきちんと体を休めることができて助かったよ」
「なら良かったけど。クク、ネックレスを外すなよ。それに、この間提案した件のこともよく考えておいて欲しい。1ヵ月後に迎えに行くことも忘れなるな」
「......分かってる」
そんな話をしていると、「話の途中に失礼」と声がかかった。
見ると、昨日のすさんだ雰囲気などなかったかのようなきりっとした騎士姿で、ヨードがそこに立っていた。
私の中ではあの後の出来事の方が大きすぎて、神妙な顔をしてこちらを見ているヨードに、呆気に取られた気持ちにさせられる。
ひとまず「おはよう、ヨード」と挨拶すると、ヨードはゴホンと咳払いをしてから言った。
「一応、今の呼び方で呼ぶのは構わないのだが、今は任務中だ。せめてヨード副隊長と呼んで欲しい」
「了解。で、どうしたの?」
ヨードはまたひとつ咳払いをして言った。
なんだか少し気まずそうな表情をして、一度横に目を逸らすが、意を決した様子でこちらに向き直る。
「...さ、昨夜の事だ。だいぶ酔っていたのと、むしゃくしゃしていたというのは、言い訳にしかならないが......昨夜は、どうか、していた。ブラントに説教されたからというわけではないが......あ、謝りたいと思って...。昨日は、本当に、無礼なことを言ってしまった。......本当にすまない」
「──だ、そうだよ。2人とも」
明らかに渋々といった様子でいるのが透けて見えたが、まあいいかと、私はミミリスとシュリーを振り返った。
2人は聞いていなかったような顔をして私たちを見返す。髪の毛をいじったり、爪の先に息を吹きかけていたりしていたようで、まるで興味がなさそうな態度である。
状況を説明してみるが、「何の話?」と言いたげな顔をするので、私は少しだけヨードが気の毒になった。
「あー...ああいう事は結構日常茶飯だから、2人はそんなに気にしてないみたいだよ。良かったね」
「そ、そうか...、よかった...。リリアも...許してくれるだろうか?」
「もう2度と私たちを侮辱したりしないなら。それと、私のこともリリアじゃなくククと呼んでくれて構わない」
「ククか、分かった。今後そのようにしよう。...それにしても、リリアが冒険者になってるとは本当に驚いたよ」
「まあ、いろいろあって。」
にごすように苦笑する。
そんな私たちから少し離れた場所に立ち、レストが興味なさそうに欠伸をした。
そうしている間に、私たちの向こう側から、よく通る低い声が聞こえてくる。
「予定通り、日の出と共に出発する。各自、準備に怠りがないか今一度確認しろ!」
ブラントだ。
その姿は再会してからのブラントと何ら変わりなく、昔を思い出させる要因などないというのに、私はその背中に駆け寄りたい衝動に駆られてしまう。
居ても立っても居られなくなるような、この心細さはなんだろう。
昨夜の発作のようなトラウマのせいで、心が弱ってしまったのかもしれない。
気づけばその広い背中を見つめてしまっていたようだ。視線に気づいたかのように、ブラントがこちら側を振り返る。
黒曜石のような瞳が私たちの姿を捉えるが、その瞳が私の姿をとらえても、表情が変わることはない。
唯一今までと違うのは、私の姿をその目に移すようになったことくらいだろう。
その唇には私と同じような傷があり、そこだけが今のブラントの姿の中で少しだけ違和感を持って存在していた。
駆け寄りたいのにそうできないもどかしさを抱えていることなど、きっとブラントは想像だにしていないだろう。
この世にひとり取り残されたような思いで見つめてしまうことも。
そんな気持ちの中、ブラントの唇の傷が、私を満たしていく。
ブラントと私とでは、同じような意味で残されたものではないと確信することができるからだ。
騎士を統率する隊長が、すぐに消せるその傷を残しておくメリットなどない。
少しでも動揺させることができたのかもしれない、と。
ブラントの唇の傷に気づいたパーティーメンバーが、ここぞとばかりいじってくる。
「手合わせねえ〜?」だとか、「手合わせで全く同じ場所に傷なんてできたかしら?」とか、「やだなんかえっちぃ〜」だとか。
好き勝手なことを言い始めるパーティーメンバーの言葉を背中で黙殺する。
指示を出し終わったことに気づき、ヨードが私たちに待機していてほしいと頼んでから、ブラントを呼びに行った。
ヨードに声をかけられると、ブラントは何故か少し固い表情へと変わった。そして、私たちのいる場所まで2人で歩いて来る。
そんな2人を見守っていると、ヨードが改まった様子で私たちに口を開いた。
「実は、出発前にフェリシアお嬢様からお話があるとのことだ。悪いが、部屋までご足労願えるだろうか」
私たち一同が思うことはきっと同じに違いない。
あ、なんか面倒事だな、と。
そして私は、とうとうきたか、と思う。
ヨードの横でこちらを見つめるブラントを見る。
その唇についた傷にでも気づかれたか。
それとも、その他に目的があるのか......。
どっちにせよ、面倒事だという予感は、きっと外れてない。




