第三話「井尻康子」中編
は、と目が覚めると部屋は薄暗かった。
朝か夕方かわからないが、時計は六時と言っている。
昼すぎに寝たのでおそらく夕方の方だろう、と思いながら拓也はのそのそと体を起こした。
つけっぱなしの画面は、寝る前に低評価をつけて歩いた人気の動画が残っていた。
「ユーチューバーとか、いいかもな」
というのが最近の拓也の考えだ。
結局、原稿用紙は一滴も墨を乗せないまま、その縁を黄色く変色させただけで後は部屋の一部になっている。
あの時ただの同期だったカバオが新作ゲームのデザイナーに名を連ねたというニュースを見てからこちら、創作意欲がめっきり減退したことは、拓也本人も都合よく忘れていた。
漫画家は向いてなかったかもしれないが、もっと簡単に才能を発揮できるのなら、例えば動画配信もいいだろう。
そのため、相対的に自分が良くなるようにと、今は熱心に周りの足を引っ張っている工作中だ。いずれ満を持して世界に出よう。
あすなろ気分で過ごした、成人以降の四半世紀。拓也はいつのまにか四十半ばとなっていた。
「はぁ……ねむ」
目を擦って立ち上がる。
部屋の電気を点けて、そっとドアの外を覗くと廊下は真っ暗だった。
おや、と拓也は思った。誰もいないのだろうか。父がいないのは構わないが、母は? 夕食の用意をしないと間に合わない時間ではないのか。それとも朝の六時なのか。
いずれにしろ、人がいる気配がないならそれはそれ、食糧調達の時間だ。
軽い気持ちで一階に降りた。電気をつけて台所を探る。
「あれぇ……?」
拓也は首を傾げた。この間、ここを探った時から食糧が増えた形跡がない。冷蔵庫の中も、前と変わらない。食べ物が何もないのだ。
厳密に言えば味噌も醤油も乾物もあるのだが、料理などしたことのない拓也には無いのと変わらない。
「何だよ全くよぉー、食い物ねーじゃんよぉー」
段々とイライラしてきた。
「何で無ぇんだよぉ!」
腹立ちまぎれに振り回した拳が、開いていたカラーラックの扉に当たった。縦に。痛い。
悶絶する呻き声はだんだん怒りの喚き声となり、重めの体重から鳴る足踏みがうるさく音を立てた。だが、誰もいない家の中では応えてくれる者もない。
「どこ行ってんだよぉ、一家の主婦がこんなんじゃダメだろぉ! おい女!」
母を呼んでも、誰もいない家には応える声があるわけない。
ちなみに、拓也は母をそこまで嫌いではなかったので「ババァ」と呼ぶ反抗的な態度を避けていた。
自分の親を「ババァ」と呼ぶような不良よりは友好的である、とのアピールであったが、この優しさは周りにはあまり理解されていない。
昔は「おかあさん」と言っていたが、もう大人になったので、青龍のようにクールに「女」と呼んでやっているのだ。そこも、あまり理解されていない。
さておき、リビングもトイレも両親の部屋も電気がついていないと判ったので、ここは泣き言を言ってもいいフェーズに入った。嫌になった気持ちを込めて母を呼ぶ。
「んもー! おかーさん!?」
……と。
『なあに、拓也?』
返事が聞こえて、飛び上がるかと思った。いたのか!
今素通りしたリビングは真っ暗で、人の気配はないと思っていた。
拓也は素早くリビングに戻り、照れ隠しとして拳を壁に叩きつけてやった。
「いるなら早く返事をしろ、女!」
威嚇じみた電気の点灯でパッと部屋の中が見えた、が……やはり、誰もいない。
リビングは片付いていた。動きのない空気に誰も座っていない空っぽの椅子。人間は誰も見当たらない。
ただ、テーブルの上にポツンと何かが乗っているのに目が止まった。
片付け忘れた写真立てかと思ったが、近寄るとスマートフォンのようだ。画面いっぱいに母、康子の顔が映っている。
画面の母が口を動かした。
『……お母さんも女だけど、もしかして呼んだかしら? ちゃんとお母さんって呼んでね』
「何だこれ……喋ってるのか? あっ、ビデオ通話みたいなものか!? おい、俺のメシは? どこに行ってんだよ!」
『ああ、ご飯ね。簡単なものから作れば大丈夫よ。まずはごはんを炊いて、それから味噌汁と玉子焼きと……』
「作れるわけないだろ俺が! 早く帰ってこい! 困ってるんだぞ、俺が!」
『お母さんはここにいるわ』
康子の像はにっこり笑って頷いた。
『分からない事はなんでもお母さんに聞いて。作り方を教えてあげるわね』
「今要るんだよ! 早く持ってこい! すぐ帰ってこいよぉ!」
すると康子は申し訳なさそうに言った。
『教えてあげることだけはできるの。拓也、あなたには伝えることがあるから、ここにある封筒を取りなさい』
なんだか芝居がかった言い方だなとは思った。いつもの母と様子が違う。
不満そうな顔をしてみせて、拓也は康子の前に添えられた封筒を手に取った。中を見ると……
「えっ……!」
思わず声が出た。無造作に入っていたのは、現金だ。しかも中身は全部一万円札で、握った時の厚みが嬉しくなる程度あった。
「やったあ! ピザ取ろう!」
『中にお手紙が入っているから、しっかり読むのですよ』
声半ばで出て行った拓也には聞こえなかっただろう。
しかし、画面から息子の背中を見送った康子は穏やかな笑みを湛えたまま、次にまた話しかけてくるのを待つ体勢に入った。
まず伝えるように言われていた事は伝えた。そこから先は、拓也次第だ。
万券はなんと三十枚もあった。
多分、夫婦で旅行にでも行ったんだろう。何も言わずに出かけるのはマナー違反だが、悪いと思って食費を残してくれているのだろうから、まあ良しとしよう。
こうして拓也は安心してご機嫌な日々を、まずは二週間を過ごした。推しキャラの新衣装は当然買った。
今日もやってきた出前に金を払い、そこで残りがだいぶ少ないな、と思い始めた。
親はまだ帰って来ない。どこまで行ってるんだ、海外か?
欲しいものはまだまだあったが、仕方なく残りを食費として切り詰めることにした。ケチった拓也は親のカードを切ろうとしたが、いつのまにか使えなくなっていた。
さらに二週間が過ぎ、最後の一枚が千円札数枚に変わった。それでも親の「ただいま」の声は聞こえない。
拓也は部屋を出て下を覗きこんだ。相変わらず人の気配のない、静かな一階に降りる。自分の足音がうるさいくらいだ。
リビングのテーブルに飾ってある画面に寄ると、フッと明るくなり康子の笑顔が出て来た。
拓也は戸惑いながら康子の顔に向かって語りかけた。
「……いつ帰ってくるの」
『お手紙は読んだ?』
まだだ。封筒の中に一緒に入っていたが、邪魔だったので最初に引っ張り出した。
チラリと見たところ「拓也へ」と書いた手書きの文字だったため、どこかしら不穏な気配を感じてそのまま置いていたのだった。
『そこに書いてあるから、読んだらまたいらっしゃい』
仕方なく部屋に戻り、そこら辺に放り出していた手紙を拾い上げ、初めて開いてみた。
「拓也へ
元気にしているか。
ずっと、部屋から出てこなかったので、こちらには、様子がわからん」
拾うのに苦労するほど、インクの線は捩れていた。目を近づけながら文字を解読していくと、早々にクライマックスが来た。
「お母さんは、死にました」
「ファ!?」
声が出た。母が死んだ? 何を突然。
信じられない。信じるわけにはいかない。母は母だ、いつも変わらない。
そういえば近頃はやけに話をしたがっていたし、何かを訴えるような目も向けてきていた。拓也としてはうっとうしいことこの上なかったので、傍にいるとさっさと部屋に駆け込んでいたのだが。
死んだとは。どういうことだ。死んだ? 死ぬのか? 親が? 母が?
死ぬものなのか、母は。いつも元気で、笑顔で、自分の世話を焼いてくれるものだと思っていたのに。
呆然とした拓也は口を開けたまま手紙に目線を戻した。
ということは、これは父が書いたのだろうか。読みづらい字だ。昔はもっと達筆だったのに。
「俺も、もう、元気がない。お前は、一人で、生きて行くように。
前から寛二おじさんに、言われていたことだが、やっぱり、甘くせず、お前を突き放すのが、いいと思う。
お前のためだと、思う」
なーにがお前のためだ!
拓也は瞬間的に噴火した。邪魔だから体よく追い払いたいだけだろうが!
親父なんて、こっちから願い下げだ! 昔の男で、仕事しかしなくて、料理の一つもできやしない。そんなのが一緒に暮らしていても、拓也にご飯など用意してくれようはずもない。
どうせなら母が残ってくれた方が嬉しかった。そうしたら家事は任せられたのに。
「だから、俺は、施設に行くことにした。俺のことは、心配いらない。
お前も、早く働いて、自分の人生は、自分でやっていくように」
続きは明日です。
ショックを受ける主人公と対話するのは死せる母。
どうぞよろしくお願いします。




