第一話「峰塚昭夫」中編
結婚というのは、食卓が華やぐことだ。
この感覚はしばらく忘れていた。幸せな生活とは食事時に何気ない会話ができることだ、と言い換えてもいい。
コーヒーの件でこの意識を思い出してから、テレビ相手に相槌を打つでもなく、ましてや楽しむでもない食事を繰り返してきた真由美は、このところ手抜きになっていた料理を改めて楽しい食卓を過ごせることに感謝した。
今日は鰆の西京焼き。キャベツとキノコは炒めて副菜に、あと味噌汁、お浸し。まともな食事なんて久しぶりだ。日曜だからいつもより手間もかけられる。付け合わせのキャベツからつまんで、真由美は聞いた。
「次は何を書くの?」
『戦記が書きたいな』
聞かれた昭夫は楽しそうに言う。
『ずっと練っていたネタはあるんだけどね。練りすぎて大作になっちゃったなあ。どうしようか』
「困る事なくない?」
『すごく長いんだ』
「いくらでも書けばいいじゃない。十巻でも二十巻でも」
もう出版社に忖度する必要はないんだから。という事実は口にしない。する必要がない。心に過っても、すぐに無かったことにする。
そうすれば、この取り戻したささやかな平和を守れるのだ。
「どういう話?」
『そうだなあ……ある日世界に魔王が現れ、それを打ち倒せる勇者を皆が待ち望む。皆が勇者の伝説になろうと冒険に出る。勇者への期待値が高すぎて、世間では勇者が優遇される。流行る勇者。一大ブーム。なりたい職業第一位、勇者。危険職種第一位も勇者。でも勇者志望でないともうモテないので、若者はこぞって勇者を名乗って冒険に行く。村の役立たず男も自分を勇者だと勘違いし、モテモテになるために意気揚々と出かけていく。はたして彼は本物の勇者か、ただのお荷物か……』
「戦記なの、それ?」
真由美は愉快そうに笑った。
思い切ってポップな話に聞こえるが、入り口を軽くしておいて重い話に持っていく手法を、昭夫はよく取っていた。
もちろん真由美にはそんなこと織り込み済みだし、塞ぎがちだった自分の気持ちを考えて笑わせようとしてくれているのかもしれない。
「でも、あれ……『風斬り森のガーディアン』……あれに少しだけ似てる」
『僕の三作目だね』
「それを思い切りライトにした感じ。今時ね」
『そうかな……じゃあ、逆に時代劇風にしてみようか』
「時代劇、書きたいけど今は流行らないからって言ってたもんね」
昭夫と作品の話を聞くのは楽しい。
ネタ出しにあたって、昭夫は真由美を話し相手にすることで、リライトに役立てている節もある。それも単純に嬉しかった。
「どう、美味しい? 味噌汁は昭夫さんの好きなお揚げにしたわ」
タブレットの前にも、おかずの皿は用意していた。必要ないことはわかっているが、自分だけで物を食べる事が、なんとなく後ろめたかったのだ。だって、昭夫は目の前にいるのだから。
『うん、とても美味しいよ。ありがとう』
昭夫の皿に乗せられたものは一口も減っていないが、美味しいと言ってくれる、その気持ちに感謝した。
明日、昭夫の分のおかずが真由美の弁当に詰められて昼食になる。
そして真由美はそれを、初めから自分のために用意したかのように食べる。
真由美は今、幸せだった。それなりに。
昭夫が仕事で世話になっていた出版社の担当が、線香を上げさせてくださいと連絡してきたのは百箇日法要も過ぎた後だった。
まだ若いのに、丁寧に仏壇に手を合わせ、しっかりと座布団を外して
「その節はお世話になりました」
と頭を下げる。
彼女は、最後の著書を出した時に世話になった担当、大山咲菜だった。
名刺を出してくれたので、真由美は改めて名前を聞かずに済んでいる。きちんと気遣いの出来る子だ。
「こちらこそ。主人がお世話になりました」
真由美は心からの笑顔を見せて、どうぞ、お茶を出しますので、とリビングに誘導した。
昭夫を知っている人と話が出来るのは嬉しかった。あの人の思い出が増える。
咲菜も素直に申し出を受け入れ、頭を下げながら示された席につく。
「コーヒーで良かったかしら。どうぞ」
「いただきます」
「私一人じゃ、なかなかコーヒーの減りも緩やかでねぇ」
故人を偲ばせる言葉から始まったこの場を、咲菜は微笑で受けた。
湯気たつコーヒーカップを前にいくらか当たり障りのない挨拶を重ねた後、真由美は何気なく聞いた。
「お仕事の方はどうですか?」
「……」
あまりに定型な、ありきたりな話題に、しかしすぐには返事を返さず居住まいを正した咲菜に真由美は目を瞬かせた。
「どうしたの?」
「編集部の仕事、辞めました」
「あら……」
では何を、と聞く前に、咲菜は話し始めた。
「小説家になろうと思っています。実は……その許可を取ろうと思って、今日はここまで来ました」
「そりゃもちろん……いいだろうけど……」
他人の就職事情に口を挟む余地があろうか。
真由美は困惑したが、それなりに思惑があってのことだろうと思い、話を聞くことにした。
「生前、峰塚先生にはお世話になっていました。作品についても色々とお話を聞かせていただいたんですが、体調を崩されてからはよく、まだ手を付けていない、脳内にだけある話も私に語ってくれていたんです」
構想中の物語。真由美なぜかドキリとした。
「いつか世に出したいと言いながら、先生は気分も体調も向かないことをもどかしく思っていて。まず元気になって頑張って書いてくださいね、と私は言ったんですが……あれは亡くなる二ヶ月前、先生はいくつかの物語を語り終えて言ったんです。『これ、咲菜ちゃんにあげるよ』って」
『僕の代わりに書いてよ。僕だけが読者なの、もったいないしさ。書いて誰かに読ませてあげて』
そう言われた言葉が、咲菜にとっては小説家・峰塚あきおの遺言となった、という。
「どうしても、私はそれを世に出したいと思ったんです。私自身、見てみたい。もちろん、筋書きが同じでも先生と全く同じ文体にはならないけれど、でも面白さを損なわないように頑張りたいと思います。なので、どうか」
咲菜の下げられた頭を、真由美は呆然と眺めた。
何かしら答えなければならない。ハイか、イイエか。
ハイを望まれていることもわかる。そうすべきだろう。本来ならば。昭夫の望んだことを叶えてくれる相手がいるのだ。
しかし、もやもやとした気持ちが心を覆う。私の知らない話を、この娘が知っている。昭夫の物語を。
そんな楽しそうな話、あの人、私にしてくれただろうか。
思い浮かんだのは、流行勇者。いや、あれはAI故人が、「今の昭夫が」、語ってくれたことだ。本物の昭夫ではない。
真由美は記憶を探った。新しいネタ。いや、言っていた気がする。だが物語全てではない気がする。
折に触れて小ネタを振られてはいたが、大きな物語の筋としてはそこまで知っているわけではない。
昭夫は真由美を「気の知れた読者」として扱っていた気がする。読者がこの話を読んだ時に、どういう反応を返すのか、そこを見られていた気がする。
じゃあこの娘は?
プロットを全て語り、後を委ねたとしたら。それは作り手、クリエイターとしての話だ。
確かに真由美は小説を読むのは好きだが、書いたことはなかった。だから話してくれなくてもおかしくはない。昭夫が真由美の読者反応を重宝していたことも疑っていない。が……
答えの遅れた真由美を上目で伺って、咲菜はそっと問いかけてきた。
「決して粗末には扱いません。言われた通りに何も曲げず執筆したいと思います……見たくはありませんか?」
「そりゃあ……見たいけれど」
分かっている。これは嫉妬だ。自分の知らない話、自分と違う方向を見ていた昭夫、まだ見ぬ作品のためにしたことと理解しても、すんなり百の喜びを出せないだけだ。どこか引っかかる。
自分で書けないとしても、それは自分にも分けて欲しい特権だった。
「……ちょっと待っててくれる?」
苦し紛れに、真由美は立ち上がった。
「え、はい」
トイレだとでも思ったのか、咲菜は大人しく頷く。
真由美はそっと寝室に向かった。中を覗くと、ベッド脇に「昭夫」がいる。
「昭夫さん」
『うん、何?』
タブレットからの声に、どこか安堵した。いつもと変わらない抑揚と返事。
「今、大山さんがお見えなのよ」
『担当の大山咲菜さんかな』
「そう……あなたの未発表の作品を世に出したいんだって。どう?」
初めから本人に委ねてみる気でいたわけではないが、相談の説明をしたら真向から聞いてしまう形になった。
『僕の作品を?』
「そうよ」
いつものように一秒考えた昭夫はいつもと変わらぬ明るい口調で言った。
『いいんじゃないかな。僕が握っておくより、それで確実に世に出るわけだから。僕は今、話は作れるけど担当がついてるわけじゃないからね』
それはそうだ。全くその通り。だけれども。
「どうして私に教えてくれなかったの? その話」
『真由美にはいつも話をしているだろう? 新作の話も』
「そうじゃなくて……」
生前に教えてくれなかったのか、だ。書きかけの相談はよくされていた。しかし、いずれも既刊になっている。どうやら他に真由美の全く知らない話があるらしい。あの口ぶりだと、いくつも。
「私も聞きたかったわ」
『そうか。ごめんね。真由美にはやっぱり、完成したものを見せたかったんだ。面白さはやっぱり、文章で見せてこそだしね。面白いって思ってもらいたくて』
食い下がりたい気持ちはあったが、素直に謝られるとそれもやりにくい。真由美は頷いて部屋を出た。客人を待たせているのだ。昭夫がいいと言うならいいだろう。
部屋の扉を閉めてリビングに戻ろうとした真由美は、ビクリとして足を止めた。
廊下に咲菜が立っていたのだ。
後編は明日公開。
こじれた気持ちの置き所をさがして。




