第四話「浦川ハツ子」前編
寝て、起きると、「ああまだ生きていた」という気になる。
浦川嘉朗、八十六歳。
人生百年という。まだあと十年は生きると思っていたが、最近めっきり力を落とした。妻ハツ子が亡くなって以降だ。
口うるさい妻ではあったが、居ないなら居ないで寂しいものがある。
布団から這い出した嘉朗は部屋の隅に寄せてあるローテーブルの前に正座し、飾ってあるハツ子の遺影に手を合わせた。
「ハツ子、おはよう」
『おはよう』
遺影が返事をする。
正確には遺影ではなく、AI故人なごみ、という代物だ。ハツ子の顔をして、ハツ子の声で喋る。
『今日はいい天気です。散歩に行くのもいいかもね』
その瞬間、部屋の襖がザッと開けられた。
一言もなくプライバシーを開け放ちにしてくるのは、娘の宏美だ。忌々しそうに舌打ちして、つっけんどんに声を上げる。
「私もう行くからね!」
「あ、ああ……まだ居たのか」
「居ちゃ悪い!? 私の家なんですけどー? あと今日ね、カレシ来るから夜はいないでくれる? 午後になったら出てってね」
それからもう一度舌打ちをして、「辛気臭い」と呟いた後にビシャリと襖を閉める。
嘉朗はこっそり溜息をついた。
『なんなのかしらね、あの子は。反抗期?』
と、暴力を振るわれないハツ子は呑気に構えているが。
「カレシてなんじゃ……カレシ……いい年して……もう結婚せんのかな、あいつは……」
嘉朗は暗澹とした気持ちで呟いた。一度それを本人に聞いたことがあったが、ヤンキーがメンチを切る顔で「言うのアンタが私にそれを?」と威嚇された。
宏美は未婚だ。その経緯としては……威嚇されるような心当たりは、まあその。ある。
『結婚率は年々下がっているからねぇ。Z世代は恋愛すら難しいって言うし』
ハツ子がズレた返事をするのはいつものことだ。生きてる時からそうだった。
宏美、あいつはいくつになったろう。自分たちの年を考えると、還暦も近いはず……
細かな計算をする気が起こらず、嘉朗は頭を振った。
「疲れたな……」
カーテンの向こうはぼんやりと光っている。今日もいい天気のようだ。嘉朗の心とは裏腹に。
「一生懸命生きて来た。戦争が終わっても人生は戦場だ。社会に貢献して長年やってきて、今は一人だ。ハツ子はいないし、宏美からは嫌われる。知り合いはみんな先に逝ったか寝たきりだ。みんな俺を老人扱いして、言う事には耳を貸さん。何だろうなぁ、何なんだろうなぁ人生とは」
老人は、敬うものだ。
なのに若者にその気配はない。とっとと飯を食って出て行けと言われる。今夜は帰ってくるな、と。
嘉朗は孤独だった。死を待つばかりの年になって、誰からも顧みられないとはこれほど寂しいものなのかと毎日身につまされていた。
「お前に会いたいよハツ子」
『私も会いたいわ、あなた』
ぼやきに返事をくれたハツ子の声を聞き、嘉朗はハッとした。
「本当か?」
『ええ。今もこうしてお話はできるけれど、本当に一緒とは言えないから』
その言葉を聞くと、嘉朗の頭にはぼんやりと霞が掛かり「それもいいかもしれないな」と思った。
出かけなければいけない、というのが思った以上のストレスだったらしい。
あてもなく彷徨い、ビジネスホテルに泊まる。その大した手間がスッキリなくなるのだ。明日になって帰宅する煩わしさすらなくなる。
『早く会いたいわ、あなた。ねえ、会いに来て』
だがどこに行けばいいのだ。どうすれば。
質問もできずに口を半開きにしている嘉朗に、ハツ子は画面の中から優しく微笑んでみせた。
『ここ、マンションでしょう? 何階?』
「三」
『それだけあれば大丈夫。飛び降りたらすぐよ』
「ああ……よし、わかった」
言われるままに嘉朗は立ち上がり、窓を開けた。
すっかり硬くなって動きづらい関節を精一杯動かし、何とか窓枠によじ登る。そして、明るい朝日の中にポンと飛び降りた。
嘉朗の生きた昭和は激動の時代だった。
ハツ子とは見合い結婚だ。当時はそれが当たり前だった。
ハツ子は朗らかで明るいお嬢さんという触れ込みだった。実際、その通りであったので、嘉朗はいい嫁をもらったと思った。結婚して、二年は。
二人は結婚してすぐに子供を作った。当時はそれが当たり前だった。
子供が出来ると、母は強くなるという。ハツ子もそうだった。
強くなった、というより、強くなりすぎた。レベチだ。いや、レベルが上がったのではなくジョブチェンジしたのかもしれない。とんでもないパワーを得て、エキセントリックに変貌していった。
長男、長女、次男、と子を成す度に、ハツ子は朗らかを越えてうるさくなっていった。特に長女の宏美が高校に入る頃には毎日怒鳴り合っていた。
何がそんなに気に入らないのか、嘉朗は知らない。帰ればいつもギスギスしていた。
もっと仲良くすればいいのに、などと言おうものなら女二人からステレオで文句を言われる。
「あなたにはわからない!」
「お父さんにはわからない!」
そんなこと言われても、嘉朗は月月火水木金金で働いているのだ、そりゃあ家の中のことはわからない。長男も次男も見ないフリだ。けだし、これが正解というものだろう。
大人になった宏美が、付き合っていた彼氏と結婚したいと言った時もモメていた。ハツ子が強固に反対したのだ、それは覚えている。
ハツ子としては地元の男と結婚してほしかったようだ。
職場で知り合ったというその男と結婚したなら、宏美は夫の転勤に伴い県外に行くことになったろうから。
長男が仕事で海外に渡り、次男も遠くに行った後だ。残るは娘だけ。固執したのだろう。
その頃から母娘の溝は埋めがたいものとなり、結局恋人と別れた宏美は、仕事も辞めて数年間引き籠ってしまった。
ハツ子は満足そうに、独りになった宏美に話しかけていたが、返ってくるのはドアの隙間から覗く恨みがましい目と、ブツブツ漏れ聞こえる不明瞭な呪詛のみとなった。
悪びれないハツ子に腹が立つのはわかる。しかしあの目はもう、親に向ける目ではない。
親の仇でも見ているような視線だった。こっちが親なのに。
三十代になった宏美はなんとか立ち直り、就職して家を出た。
ハツ子はそこでも難色を示したが、今度は宏美が、強引に出て行くだけの覚悟を持っていた。県内ではあったので、ハツ子もしぶしぶ同意した形だ。
それだけ子供も大きくなったことか、と嘉朗はしんみり……しているヒマは、逆になくなった。
子供がみんないなくなったと思ったら、ハツ子のパワーは嘉朗に向いたのだ。
もう、うるさい。毎日うるさい。
この年になって箸の上げ下げから口を挟まれるとは思わなかった。アットホームな修羅場です。
そう、こんなこともあった。
仕事の帰りに近所のスーパーが騒がしいと思ってひょいと見ると、大声をあげて頑張っているハツ子がいた。相手をしている店長の言葉から察するに、裏への誘導にも屈せず、店の入り口にて延々とモメている様子だった。
慌てて嘉朗が割って入る。
「すみません、あの、うちのが何か……」
「何かじゃないッ! 何もないの!」
嘉朗の問いに、店長に指つきつけたハツ子の方が怒鳴り返してきた。
「肉ないの肉が! 入ってなかった! コイツがチョロまかそうと思って! 珍しくウチが奮発したからってバレないと思ったのか、このドロボー! 金なんか持ってないと思ってバカにしやがって!」
興奮して要領を得ない発言を聞いていくと、つまり今日このスーパーに電話をして配達を頼んだが、届いた荷物の中に肉だけが入っていなかったということらしい。
給料日だからと張り込んだ肉だっただけに、ハツ子は腹の虫が治まらない様子だ。
それならば、店にはやはり一言いわねばなるまい。
「そこはキチンとしてくれなきゃ。荷物はどこですか、貰って帰ります。お騒がせしたのは申し訳ないが」
「ですからね、旦那さん。奥さんには何度も説明したんですけど……」
苦々しい顔の店長が口を開いた時、軽快なバイクの音が聞こえてきてスーパーの前で止まった。
「あれ、浦川さん、居ないと思ったらこっちだったの」
バイクの上から声をかけたのは、向こうの商店街にある肉屋の配達員だった。
「家行ったけどいなかったから。はいこれ、ご注文の品ね。今夜はすき焼き? 牛脂もオマケでつけてるからね」
「あらホント? ありがと」
配達員はハツ子に肉を手渡してバルバルと去っていき、しれっと品物を受け取ったハツ子もスタスタと歩み去った。
つまり、いい肉だからと肉屋に別途注文していたことをコロッと忘れてスーパーに文句をつけに来た、ということだ。
事情を察した時には、逃げ遅れた嘉朗にいくつもの視線がザクザクと刺さっている。嘉朗は滑らかに頭を下げた。
「大変申し訳……」
「もう、うちの利用はご遠慮ねがいますね?」
サラリーマン仕込みの謝罪所作でもダメだった。
出禁、不可避。
一事が万事、こんな調子だった。全てとは言わない、ただ晩年は本当にひどかった。
定年で家にいるようになった嘉朗は、一日中ハツ子のエネルギーを浴びせられていた。
あまりに瞬間湯沸かし器が過ぎて(昔の人はすぐ怒る人のことをこう呼んだものだ)、ある日の朝に飛び起きるなり「カラスがうるさい! アタシが寝不足になるように誰かがけしかけてるんだ!」と叫んで外に飛び出し、カラスを追いかけて爆走していった。
しかしどうやら道を踏み外したらしく、用水路に転げ落ちて亡くなったという連絡がきたのは、その一時間後だった。最後までお騒がせな、台風のような女だった。
ああ、どうしてこの事実を忘れていたのだろう。会いたいなどと思って、命を捨てようとまでしたのだろう……
嘉朗が目を覚ますと、傍らには宏美が鬼の形相で待ち構えていた。
「やっと起きた。どんなにバカなことしでかしたのか、わかってんでしょうねぇ!?」
辺りを見ると、どうやら病院のようだった。生きている。
マンションの部屋は三階で間違いない……ただし、嘉朗が窓から飛び降りたその日は、外装工事だとかで壁に足場が組まれていたところだった。
嘉朗は既に組まれていた足場にべちゃりと落ち、捻挫の一つで済んでしまった。致命傷には全く至らなかったのだ。
「相手してらんない、もう知らん。自分の面倒は自分で見てね!」
嘉朗はぼんやりと、怒り狂った娘の歪んだ顔を見上げていたが、やがて口を開いた。
「宏美……」
「何よ!」
「母さんそっくりになったな」
その感想は素直が過ぎた。
こうして、嘉朗は退院と共に、容赦なく家から追い出されることになる。
四話です。前回からの警告通り、そろそろ本格的にどうしようもない薄暗さは増していきますので、ご注意ください。
次回は明日です。ホームに送られた先で出会った人々との出来事。
どうぞよろしくお願いします。




