六章 赤い闇 (12) 再会
『去りなさい!』
突如として凛とした声がしたと思えば、目の前が真白く輝いた。眩しくてフィーネが目を閉じると、エリーシャの甲高い悲鳴が響いた。
やがて辺りが元の色を取り戻し、フィーネが目を開くと、エリーシャの姿は消えていた。
代わりに、フィーネの背後から花の香に似た穏やかな声がフィーネの名を呼んだ。
『もう、大丈夫ですよ。彼女は去りましたから』
振り向きざまにその人物の顔を見たフィーネは驚きと喜びで震えた。
「ははう――」
だが、彼女は指を口の前に立てて沈黙を促した。
『ごめんなさい。残念ですが、私はあなたの母君ではありません。……そうは言っても、人の世――エレスの洞窟の奥にいる私が彼の岸べに足を踏み入れたあなたに会うために隠世のお母君の魂を借りているので、姿だけはあなたの母君ではありますが』
白く澄んだ肌に、緩く波打つ艶やかな黒い髪。細い輪郭で形作られた滑らかな卵形の顔は儚げで、澄んだ銀の瞳が温かな光を湛えていた。
母の『双眸』を見た瞬間、フィーネは目頭が熱くなり、すすり泣いた。
なんて綺麗な色だろう。ずっと見てみたいと願っていた失われた光を、こんな所で目の当たりに出来るとは、思いも寄らない幸福だった。そして、幼い日に母の温もりに包まれた日々を思い出して、ますます涙が止まらなくなってしまった。
しばらく泣いたフィーネは深呼吸して頭を冷やすと、母の姿をした何者かに深々と頭を下げた。
「そうなのですね。どなたかは存じませんが、助けてくださりありがとうございます。ところで、エレスの洞窟というと……いえ、あなたは何者なのですか?」
『そうですね。こうして話をするのは不思議な気分ですし、はじめまして、なのでしょうか。ですが、あなたはもう薄々わかっていそうですがね。私は、あなた方人の子からは霧の女神と呼ばれている存在です』
ムーア・レジナ、と口ずさみ、さらなる驚きでフィーネは叫んだ。
「女神様なんですか!? え、本当にいらっしゃったなんて……」
『あら? そこまで驚くなんて……あらら?』
「申し訳ございません! ただ、びっくりしてしまったのです。だって、神様なんて……」
会うのははじめてだから、と言おうとしたが、神鳥である鳥の神の存在を思い出して言葉を飲み込んだ。
「あの、女神様は、どうして私を助けてくださったのですか?」
『それは……あなたがエリーシャに命を奪われそうになっていたからです』
「その件についてお尋ねしたいのですが、どうしてですか? 私は彼女に恨まれることなんてした覚えが――」
ない、と言いかけたものの、フィーネには思い当たる節があり、そろりと尋ねた。
「私が……カナーヤ人の娘だから、ですか?」
『当たらずとも遠からずでしょう。ですが、間違ってはいないのでその認識で構いませんね』
妙な引っかかりを残す言い方をした霧の女神は真っ直ぐこちらを見据えた。銀色の瞳がふわりと光る。生前の母の目を見たことがなかったが、鏡で見るフィーネの銀の瞳よりももっときらきらとした無邪気な輝きが宿っており、思わず見惚れた。
『フィーネ、よくお聞きなさい。あれは九番目の片翼のエリーシャではありますが、エリーシャ本人ではありません。呪いのせいでいびつに歪んではいますが、彼女は間違いなく先代の片翼が次代の翼王と片翼のために残した『風の聖霊』です』
「風の聖霊?」
『ええ。あのエリーシャは、本物のエリーシャの魂を元に、人の世に遺された、いわば複製であり、一般的には風の聖霊と呼ばれる存在なのです』
「複製って何ですか? 風の聖霊は、翼王を守護する眷属ではないのですか?」
『違います。風の聖霊は元来、眷属でも刃などでもなく、片翼の中にある『翼王を守りたいと願う意識』が生み出す『風の盾』なのです。
本来は、翼王が生まれた時に先代が残した風の聖霊が翼王を守り、新たな片翼が目覚めた時に旧き聖霊は役目を終えて片翼の中に帰ります。同時に、新たな片翼の中から新たな風の聖霊が誕生するのです。つまり、風の聖霊とは、片翼の「翼王を守りたい」という意志を核として、その魂を複製した存在なのです。
ところが、此度は今までと状況が異なり厄介なことになってしまいました。三百年前にエリーシャは、神殺しに憑依した西の魔の王による呪いを受けてしまい、魂が呪われてしまったのです。そして彼女が死した瞬間に、彼女の記憶とともに彼女が受けてしまった呪いが風玉輪に移り、そのことによって風の聖霊のあり方を歪めてしまいました』
「すみませんが、話がよくわからないのですが……」
この短時間でもはや何度目になるだろうか、と思われる質問をまたしてしまった。
何故、エリーシャも霧の女神もべらべらべらべらと、こちらが理解できる量や範囲を超えた情報をぶつけてくるのだろうか。
『ごめんなさい。つい早口になってしまいましたね。……片翼は、翼王と違って現人神ではないため、転生後に能力や記憶を引き継ぐことが出来ません。特別な力を持っていても、存在や身体は常人なのです。
ですから、初代片翼のオルレガは、片翼の死後も次代の片翼に力の扱い方を継承できるように、人の世に分身を遺すという方法を取ることにしたのです。神殿では、片翼が生きている間に、将来的に片翼から複製した魂の形代となるための『風玉輪』の宝玉を作ります。片翼の死後、風玉輪に移った片翼の分身は、風玉輪の中で眠りにつきます。歳月を経ていつかの未来に翼王が生まれた後は、次の片翼が力に目覚めるまで翼王の身に宿って守護します。そして片翼は翼王の力を一度己の身の内に取り込み、その体内で力を弱めて翼王に返す。そうしなければ、翼王は強大な力を持て余して力を暴走させてしまいます。つまり、片翼がいなければ、翼王は力を扱いきれなくなるどころか、身を滅ぼしてしまうのです』
「……女神様。もしも先に片翼が命を落としたらどうなるのですか?」
先ほどエリーシャも片翼が先に死ねば翼王は心と力の均衡が保てなくなって暴走すると話していた。彼女の話の真偽も確かめておきたいとフィーネは考えた。
『今までの九人の片翼たちの中で、翼王よりも先に片翼が生涯を終えた例は、初代オルレガを除けばエリーシャの時だけです。……オルレガは冥界下りの旅をしたりややこしいですからね。
片翼には、何があっても翼王より先に死んではならないし死なせてはならないという天の主神との約束事があります。もしそのような事態が起これば何が起きるのかはわからない。だから、私や鳥の神をはじめとした多くの神々は常に片翼を守っていたのです。ゆえに、片翼の身は常人でありながら丈夫であり、幸運に恵まれることとなりました』
確かに、フィーネは自他共に認めるほど運は良い。素敵な人に出会うことが出来たし、エレスにいた頃は稀少な薬草を見つけることが多かったし。富籤の高額当選も一度や二度でなく経験した。崖から谷底に落ちた時は何百もの蔦に引っかかって軽い尻餅で済んだこともある。
それに――。
エレス大火の時に殺されそうになったフィーネは一羽の鷹に命を救われた。あの時の鷹は偶然ではなくフィーネを守ってくれたのか。
「霧の女神様、お聞かせください。どうして翼王はこの世に現れるのですか。片翼がいないと暴走するのなら、そこまでして翼王が世界に現れなければならない理由なんて、ないのではありませんか? 神話のようなこの国を守るためだけとは思えないのですが……」
『その通りです。翼王を本当に必要としているのは国でも民でもなく、天の主神なのです。西の山に眠る魔の王の毒を祓うために、天の主神は、強い浄化の力を持つ風の女神を地上に降ろさなくてはなりません』
「西の魔の王……」
嫌な言葉だ、とフィーネは思った。風の女神と初代片翼が命懸けで封じたという、世界を滅ぼそうと多くの命を殺戮した魔の王と言われている。現代でも魂だけは水を介して自由に動き回り、人間に取り憑いて市井に溶け込んでいるという。ウルガやカナーヤをはじめとしたスーヴェ大陸東部の人々が恐れる凶悪な神だ。
霧の女神はフィーネが見せた恐怖を見抜いたようでフィーネを励ます傍ら、力のない笑みを浮かべた。
『すべては我らが父――天の主神が原因でした。世界を創造していた父はその終盤に差し掛かり、少しだけ疲れていたのです。ですから、ほんの気の迷いからあともう少しのところで世界が完成するから早く済ませてしまおうと考え、休息を怠って身の内に溜まった疲労や負の感情をとある箱に封じました。
その箱は天華晶石という石で出来ていて、強い浄化の力を持つ浄化箱でした。その中に負の感情を放り込むと、時間はかかりますが負のものは浄化され、世界を育むための力の材料にすることができたのです。ところが、神々からすれば昔から有名な話なのですが、以前から父はどこかうっかり者な部分があったもので、危険なものが詰まった浄化箱を不注意にも天の宮の床に落としてしまって中身を世界にばらまいてしまったのです』
「え!?」
『父は様々なものを産む力を持っていました。通常の『創造』のみならず、あなた方に伝わる神話でも知られているでしょうが、耳垢や抜け毛からも神産みが成立しているように、何かする度に色々な神が産まれたそうです。また、彼が浄化箱で浄めようとしていた負の感情や失った配偶神への未練や疲労やずぼらな思考さえ独自の意思を持ち、それらが凝り固まって魔の神となってしまいました。
困ったことに、魔の神は魔の王を名乗り、穢れや毒の風を生み出して世界を壊し始めました。
父は慌てて魔の神の毒風を打ち消すために浄化の風を吹かせて瘴気を祓おうと試みましたが、世界創造のために神力を使い果たしていたため、全く歯が立たなかったのです。そこで、浄化箱を用いて浄化の風を吹かせ、魔の王を滅することに特化した風の神を創ろうとしました。強靭な肉体と強い精神を持つ神を創ろうとしたのですが……』
「そこでまた何か問題でも起きたのですか?」
冗談でも聞いているかのごとき錯覚に眩暈を覚えながらもフィーネは食いついた。
『以前に落とした衝撃で浄化箱にひびが入っていたために神生みは失敗し、私が生まれてしまったのです。浄化の力は一応ありましたが、弱くてとても魔の王に対抗することはできませんでした。私は魔の王に捕らわれ、西の山の地底に封じられてしまいました。
途方に暮れた父は、箱を噛み砕いてひと吹きして今度こそ風の神を産もうとしました。ですが、今度は途中でくしゃみをして失敗し、鳥の神が産まれました』
「え゛!? 鈴晶石の石琴からお生まれになったのではなかったのですか!?」
『え? ……そうですね。私の反省を生かして鈴晶石を混ぜ込んでいたのは確かですからその認識も誤りではありませんね。鳥の――いいえ、アシュハドの額に浮かぶ宝玉が鈴晶石なことは――』
「初耳です」
『……長い年月のせいで人と神との乖離が広がってきているのでしょうか。これは由々しき問題ですね。後で皆と相談しないと……』
「あの、色々と知らないお話を伺えて面白……いえ、とても興味深いです」
『それなら良いのですが……』
彼女は困惑した様子でため息をついた。
『そして、いよいよ後が無くなった父はこれを最後にと、箱の残りすべての欠片を噛み砕き、太陽の神の宝剣の房飾りと月の神の竪琴の弦一本、海の神の潮の満ち引きを司る宝玉、鳥の神の羽、時の神の砂を一掬い、その他魔の王に迎合しなかった神々全てから何らかの宝物もしくは身体の一部を譲り受け、それらを咥えながら息を吹き込み、ついに最強の風の神を産み出すことができました。しかしながら、父が想定していた男神ではなく、何故か女神が産まれました。しかもその容姿は……いえ、この話はいりませ――』
「あの、とても気になるのですが」
『……そうですね。あなたと直接話せるこの機会に伝えておくべきことかもしれません。じつは、風の女神の姿は天の主神の妻だった女性と瓜二つだったのです』
「え!? それも初耳なのですが、もっと言えば天の主神には配偶神がおられたのですか?」
『ええ。私はお会いしたことはありませんが、父は彼女を深く愛していたそうです。彼女は何らかの理由で自我が消滅して天華晶石の浄化箱に身体が変化してしまっていたそうです』
「それって……」
『父は、元は自身の妻だった浄化箱から三人の神を産み出したのです』
神話には語られることのないとんでもない事実を知ってフィーネは頭を抱えた。
「要するに、風の女神は対西の魔の王のために天の主神によって創られただけでなく、自分の奥さんに似てしまったということですか?」
『はい。そして、話が逸れましたが、風の女神は天から風を吹かせて魔の王と戦いましたが、彼の者が隠れ棲む地の底には届かず、なかなか魔を祓うことはできませんでした。時が経つにつれて、神々の中にも魔の王に迎合する者が現れたため、彼女は地に生きる者を救うことを決意し、自らの意志で天の衣を脱ぎ捨て、翼を折り畳んで地に降りました。彼女は囚われの身となっていた私を地底の牢獄から救ってくれました。また、あらゆる命を助けるために父から貰った治癒の腕輪の力を使いました。その戦いの中で彼女はオルレガという人間の男と縁を結びましたが、魔の王もまた、彼女を我が物にしようと邪な考えを抱きました』
「どういうことですか?」
『……フィーネ、気をつけなさい。西の魔の王は今もなお、風の女神への強い執着と憎悪を抱き続けています。何度も彼女やその転生者を狙い、心を傷つけたり力を奪おうとしています。また、そうすることで世界を破壊しようと企んでいるようです』
「それってまさか、粛清の風ではありませんか?」
『ええ。元々は人間の国家同士の争いでしたが、そこにあの者は介入し、結果として粛清の風を引き起こさせました。
……今では忘れられてしまったものの、あなたが生まれ、生きる地に与えられた『碧海の守護国』というウルガ王国の異称は、魔の王と戦うために天の主神が与えた呪力を込めた言霊なのですよ。翼王と片翼、そして神鳥は魔の王の脅威が高まった時に人の世に生まれ、魔の王と戦う運命を背負っているのです。そして、我らが父は天の主神とは呼ばれおりますが、今のあの方に出来ることはもはやほとんど残されてはいません』
「そんなことって……」
『父はもはや自らの形すら失ってしまいましたが、産み出した神々によって世界の秩序は保たれています。太陽の神が世界に光と温もりを届け、何人もの天候神が協力して世界に風を吹かせ、海の神が豊かな海を育む。だから心配は要りませんよ』
「……女神様。片翼がいなければ翼王の力は暴走して、さっきのエリーシャが見せてくれたようなことが起きてしまうということですよね。教えてください。私は一体何なのですか? エリーシャと私が同じ魂を持っているというと、私は片翼なのですか? 最高神官長様はなにも教えてくださりませんでした。ですが、女神様はご存じなのでしょう?」
『ごめんなさい。私はあなたのその問いに答えるわけにはいきません。答えてしまえば、モールク・エントリハルクや歴代の最高神官長や今現在、片翼を守ろうとしている者達の努力を台無しにしてしまうかもしれません。
ですがフィーネ、あなたに覚えていてほしいことがあります。十番目の翼王の片翼が長年現れなかったことは、翼王と片翼の命を守るためにと先代の国王や最高神官長達が様々な手を尽くし、考えてのことだったのです。そのせいで翼王は心に傷を負い、あなたは病に苦しみ、多くの人々が命を失うこととなってしまった。けれどもフィーネ、あなたは近いうちにある選択を迫られることとなるでしょう』
「選択?」
『ええ。あなたにしか救えぬ者を救うか見捨てるか共に果てるか抗うか、その時のあなたの選択次第で如何様にも未来は変わるのです。だから、あなたは常にその目で見て、耳で聞いて清らかな水のような心持ちを忘れてはなりませんよ』
その言葉に素直に頷くことは躊躇われた。だが、銀の瞳は相対する銀の瞳を一点の曇りもない眼差しで見つめた。
「あれ、ですが女神様? 全く関係ないことですが、風の女神様がアウィルドと名乗ったから翼王なのはわかるのですが、どうしてウーザン王オルレガは片翼――ファーシャなのでしょうか? ウルガ語で片方の翼のことはフィクカフーとなるはずですし、変ですね」
『ええ、本来はフィクカフーが正しかったようですが、四代目国王の時代に、一時的ではありますが、政治的理由からアウィルドを男王、オルレガを巫女かつ風の女神であると史実を歪めようとしたことがあったそうなのです。すぐに改められましたが、片翼に対してファーシャという名称が残ったのです。フィーネ、現在あなたが呼ばれている片翼という称号は元々、オルレガが恋人のアウィルドに与えた『風姫』という愛称が由来なのですよ』
そう答えると、女神は一瞬驚いた様子で目をフィーネの背後に向けた。何事だろうかと後ろを振り返ると、少し離れた場所に緑金色の髪の女性が立っていた。
エリーシャと同じ水宝玉の瞳だが、彼女より浅黒い肌で、エリーシャでないことは一目でわかった。
彼女は神殿の巫女の白衣を纏い、長い髪を丁寧に結い上げていた。大人びた顔つきだが、頬にまだ少女らしい丸みが残っている。エリーシャが髪の色から緑色の菊なら、彼女は水宝玉の瞳の色に似た常山がよく似合う。それほど二人は似ているが違っていた。
『あら、サクィーエ。どうしたのですか?』
その名前を聞いたフィーネは鼓動が乱れるほど驚いた。彼女は、何かを躊躇うように俯くと、背を向けて去ろうとした。
『待ちなさい。サクィーエ、あなたはフィーネに用があるのでしょう?』
「……畏れながら霧の女神様。そして、フィーネ様。少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
『もちろん構いませんよ』
フィーネも頷いた。彼女は、アウィルドリーシャを暗殺しようとしたと言われているが、切れ長の瞳は澄み切っていた。
確か彼女は年若いながらも、類い稀なる知識と魔力を持ち、十番目の翼王の「籠守」に任じられると同時に教育係を兼任していたはずだ。
フィーネが想像していたよりもずっと、責任感の強い女性のように見えた。
彼女は礼を述べて深々と一礼すると、フィーネの目の前までしずしずと歩み寄ってきた。
近くで顔を合わせると、彼女は第一印象よりもずっと若く、二十歳前くらいの年頃に見えた。
「フィーネ様。ご無礼であることは承知しております。しかしながら、わたくしはあなた様にいくつか伝言をお願いしたいのです」
「かしこまりました。どなたへの伝言をお預かりしましょうか?」
それから彼女はフィーネにある話を語った。
何故四歳のアウィルドリーシャを殺そうとしたのか。彼女自身に起きた悲劇と風玉輪の現在の行方。そして、フィーネが身につけている腕輪の真相を彼女は教えてくれた。
彼女の話を聴いているうちに、フィーネの中に彼女への憐れみと西の魔の王への怒りがこみ上げてきた。
それから彼女はある二人への伝言をフィーネに託した。
「――かしこまりました。あなたからの大切な伝言は責任を持って私がお伝えさせていただきます」
「ありがとうございます」
彼女は再び頭を深く下げると、涙を浮かべていた。
「どうか、あの子をお願いいたします。そして、わたくしはフィーネ様の幸せを心よりお祈り申し上げております」
そう言うと、彼女の身体が金色に輝き出した。
「サクィーエさん?」
彼女は明るいがどこか寂しげな笑みを浮かべると光の粒となって消えた。
あとに残されたフィーネは蛍が空に舞っていく姿を見た時のような光の中、涙を流した。
「……女神様、私は帰りたい。あの場所に戻って、あの人に何があったのか、知らなければならないんです」
風が吹き、フィーネの左手首に痛みが走った。
おかしい。この腕輪は偽物だというのに、フィーネの想いに応えるように、それは痛みを伴うほど強い熱を持っていた。
「ユリフェの誓いがあるからじゃない。わたしは、わたしの意志でアウィルドリーシャを助けたい。そして、サクィーエさんの伝言も伝えたい」
でも、とフィーネの顔が曇る。どうすれば戻れるのだろうか。方法がわからないのだ。
エリーシャには偉そうに啖呵を切ったものの、フィーネには薄々わかっていた。ここはこの世とあの世の狭間であり、自力で戻ることは不可能である。だが、母の姿の女神は強いまなざしをフィーネに向けた。その光はフィーネに大丈夫だと言っているように思えた。
『その決意があるのなら大丈夫です。さあフィーネ、上を見てごらんなさい』
彼女に言われて見上げると、空に一つの光が瞬いていた。青白く小さくか弱いが、彼女はその小さな星を指差した。
さらさら、とかすかに星屑のささやきが聞こえた。
星鏡の音だ。聞き慣れたすずやかな響きはフィーネの意識を遠くに運び、引き寄せる。
「――フィーネどの!」
ふいに、煌めく音色に混じって誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。
その声は何度も絶え間なく、繰り返しフィーネを呼ぶ。時に掠れながら、痛みを堪え、咽せるように呼び続けた。
それは、魂呼びに似ていた。魂呼びとは、幼かった頃に母が教えてくれたカナーヤの風習だ。死に瀕した者の魂を呼び戻すために、生者が名前を何度も呼んで此岸に引き留めるまじないといわれている。
カナーヤ帝国では古の皇后が夫である皇帝を呼び戻した伝説が今もなお語り継がれている。
その物語は時代と国を越えて広く愛され、ウルガ王国でも演劇の題材となるほどだ。
「戻ってきてくれ、フィーネどの!」
声はなおもフィーネを呼ぶ。
懐かしい人の声。いや、声は変わってしまった。
もう、彼は何も出来なかった子どもではないのだ。だが、何でも出来るわけではない。
だからこそ、一縷の望みを願って声を上げている。
さらさらと天から星が降る。
砂時計のように降る星灯りは輝きを増し、フィーネの胸元に光が浮かんだ。天から差し込んだ白い光は一本の糸となった。それは、天の星に向かってのびてゆく。
『もう大丈夫ですね。星の導きに従って飛びなさい』
見えざる力によってフィーネの体がふわりと持ち上げられる。不安定に地面から足が離れ、舞うように宙に浮き上がる。フィーネは上から母を見下ろした。
『さあ、帰りなさい。あなたのいるべき場所へ』
「ありがとうございます、女神様」
彼女は微笑むと、小首を傾げた。ふわふわとした黒髪が揺れて白い首筋が覗いた。
ふと、先ほどまでとは異なる雰囲気で、可憐な白い花のような笑みを浮かべた。
「……フィーネ、あなたならきっと大丈夫よ。だってあなたは私とあの人の娘ですもの。私はもう見守ることしかできないけれど、いつもあなたの幸せを願っているわ。だからね、あなたは自分の信じる道を進みなさい」
「え? はは……うえ!?」
驚きで問い返そうとした瞬間、強い力でフィーネは空に向かって引き上げられた。
「待って……!」
慌てるフィーネに向かって『彼女』は手を添えて叫んだ。
「女神様が許してくれたから言うけれど! フィーネ、大きくなったね! 私はあなたの顔を見られてとても嬉しかったよ! 目が見えなかった頃はずっとあなたの顔はガイズさんに似ているものだと想像していたけれど、実際は私のお母様にそっくりで驚いたわ! だけどあなたはどちらかと言うとガイズさんによく似ていると思うの! あの人のように破天荒ではないけれど、誰かを助けたいと思った時の行動力と信念の強さは間違いなくあの人譲りよ! だからあなたならきっと大丈夫! あなたなら、あなたの大切な人を助けられるはず!
……それとね! 私は出来るだけ長く、あなたに会わずに済むことを祈っているわ! だからどうか、ずっと元気でいてね!」
母は目を細めて微笑みながら手を振っていた。
もう少し話をしたいと思うものの、母の姿は遠ざかり、みるみるうちに豆粒のようになってしまった。
久しぶりに会うことが出来たのに、はじめて大好きな母に自分の姿を見てもらうことが出来たというのに、こんなにも早く別れなければならないなんて。もっと一緒にいたい。触れて抱きしめてほしい。心の底から甘えたい。とても寂しさを覚えたが、フィーネは嬉しくて力いっぱい声を張り上げた。
「ありがとう母上! 私は頑張るよ! だから、母上も、どうかお元気で!」
必死に声を張り上げたものの、母へ言葉が届いたのかはわからない。彼女の姿はすでに芥子粒よりも小さくなっていた。
フィーネはひとり頷くと天を見据えた。
目の前には細い光の糸が伸びている。一筋の光は暗闇の中に浮かぶ青白い星に繋がっていた。
帰るのだ。アウィルドリーシャが風の聖霊の暴走に苦しんでいるのならば、一刻も早く風玉輪を取り戻さなければならない。だから、早く、戻らなければならない。
前にエリーシャに教わったとおりに鳥の姿に身を変じる自分を思い描く。すると、手は翼となり、風に触れた。
フィーネは真っ直ぐ飛んだ。
星は近づき、眩しさに眼を閉じた。
空の穴を抜け、雲を抜けて飛んだ。ふと、気がつくと、空に向かって飛んでいたはずなのに、急に天地がひっくり返ったように落ちていた。
目の前に王都の街並みが見える。足元の青空はどこまでも透き通るように眩しく、太陽が熱く光っている。
ふと、フィーネは奇妙なものを見た。
大気は青く、頭上の海は碧く、緑の大地は日の光を反射して輝いているが、それとは別に、空中に浮かぶ光の帯が見えた。海からは橙色の帯が揺らめいていて、時折渦を巻いて踊っている。
初めて目にしたが、あれは何なのだろうか、と考えていると自分が掴んでいる風も同じように輝いていた。
もしかするとこれは大気の流れというものなのだろうか。
落下するのは怖いが、自分の身体が大地に引き寄せられていることがわかる。身体の自由を奪われるような、ふわりとした時の、寒気のような、酔うような嫌な感覚に囚われそうになる。
しかしこれは、大地がフィーネを呼んでいる証のように感じられた。だから、地面に引き寄せられる恐怖を受け入れなければならない。
大地には巨大な白い鴎が翼を広げていた。王宮だ。普段は地上からしか見ていない王宮が、本当に一羽の鳥に見えた。
上から見ると本当に白鴎宮という名の通りなのだな、と感激しながら翼を動かす。左翼のそばには真っ黒く燻った区画があり、瓦礫の傍らに人だかりができていた。その隅では、ノルンとディムをはじめとした兵士達が大きな布で目隠しを作っていた。その内側には、フィーネを抱きかかえたラキアと、フィーネの手を握るヒレナとガイズ、傍らで見守るセイファンとレリファ=シシカの姿が見えた。
攫われた時にムームィで眠らされたディムやヒレナ達が無事だったことにフィーネは安堵した。
星だと思った光はフィーネの胸元にあった。青い光の正体は星鏡だった。
フィーネはその光の中に勢いよく飛び込んだ。
フィーネの正体は何なのか、彼女自身の中でこの問いは燻りますが、彼女はこの後しばらくその疑問を表面には出しません。
それにしても、この世界の神様はちょっとしたうっかりで多大な迷惑を掛けまくっているので洒落になりませんね。




