六章 赤い闇 (13) 大好きな泣き虫の君
「――っ、げほ、げほ……!」
フィーネは急に息苦しさを感じ、激しく咳き込んだ。だが、その苦痛のおかげでずっと喉につかえていた何かがとれて息が楽になった。
瞼が、重い。それに、全身がとてつもなくだるくて力が入らなかった。
通り雨でも降っているのだろうか、ぽたぽたと顔に水滴が落ちてくる。
全身が痛くて身体の自由がきかない。けれども、自分はちゃんとあるべき場所に帰ってこられたのかどうか、それを確かめなければならない。
フィーネは全身を支配するだるさに抗い、力強く目を見開いた。
急に明るいものを目にしたためか、強い目の痛みとともに一瞬、視界がちかちかとして白一色に染まったが、時間の経過とともにそれがおさまる。それにつれて、目の前にぼんやりと誰かの顔が現れた。
目を焦がされそうなほど眩しい青空を背に青年がひとり、フィーネを覗き込んでいた。
鼻先に雨が当たった。頬にも、額にも次々と大粒の雨が落ちてきて伝ってゆく。
空は晴れて苦しくなるほど眩しいのに、フィーネの上にだけ大雨が降っていた。
古来より雨とは『天』が降らせるものである。けれども地に縛られた『人』という存在もまた、しばしば雨を降らせることがあった。
悲しみ、怒り、喜び。感情を揺さぶられた時、人は天になる。
彼は泣いていた。何度も何度も、フィーネの名を繰り返し呼んで、こちらに向けて泣きながら笑みを浮かべた。
フィーネの口からその名前がこぼれた。
「――ラキアさま?」
そう、ラキアだ。だが、違う。
彼はラキア――またの名をスヴァロン・ラウルガル・タイトと名乗っていた。しかし、それはこの青年の本当の名ではない。
彼は己の身分を偽っている。その証拠に今の彼の姿は普段とは異なっていた。
彼の髪は水を浴びたために、黒い染料が落ちて本来の色が覗いていた。黒と赤が入り混じった奇妙な色になっているように見えた。クーヴァルという染料は、海水のような塩分を含んだ水には強いが、真水に弱い性質を持つ。炎に飛び込む前に水を頭からかぶったため落ちてしまったのだろう。
黒い色の下から覗く本来の彼の髪の色は、フィーネの命を奪おうとした炎のように鮮やかな赤だった。
どちらも同じ赤だというのに、一方は命を奪おうとし、もう一方は命を救ってくれた。
そう思うと、張りつめていたものがほどけるように、フィーネは口元を弛めた。
「気がついたのか、フィーネどの!?」
フィーネは彼に手を握られた。以前触れられた時とは異なり、皮膚ががさがさと固く、棘が刺さるような心地がした。彼の長く整った指は火傷を負って腫れ上がり、ひどく爛れていた。同じように彼の額も頬も火傷が痛々しかった。
「良かった」と言って涙を流す彼は悲しんでいるのか喜んでいるのかどちらともつかない複雑な表情を浮かべていた。
彼は昔から泣き虫で、少しだけ頼りないところもある。良き王族でいようと己の心を律することに長けすぎてしまったが故に、彼の心は雁字搦めになっていた。それが、幼い頃からフィーネにとってはとても気がかりだった。だが、フィーネはそんな人間味あふれる彼を好ましいと思っていた。
神の化身というよりも、一人の人間として大好きだった。
いったいどれほど泣いたのだろうか。
彼の目元は赤く腫れ、眉の間には深い溝を刻まれている。整った顔は涙でぐしゃぐしゃになって、額や頬にはいくつも火傷の染みが点々としていた。
涙雨の主に向けて手を伸ばす。フィーネも手がずきずきと鋭く痛むが、その涙を拭ってあげたいと願った。
視界に入った自分の手には腫れはみられないが、赤い痣が浮かんで真っ赤になっていた。
幼い頃、フィーネはこの人と一緒に星を見た。
彼は命を助けてくれた。
たくさんの星座や知識を教えてくれた。
星を宿した首飾りをくれた。
優しさと勇気をくれた。
だからこそ、幼い頃のフィーネは星の海の下で願った。
家族と領民の幸福。
この世から治せぬ病を減らすこと。
そして――。
この人にはいつも笑っていてほしいのに、自分のせいでまた泣かせてしまった。
つい最近、フィーネは彼に向かって泣きべそをかかせてやる、となんとも大それた無礼な宣言をした。だが、こんなことで泣かせたくはなかった。
どうか、泣かないで。
とめどなく流れ落ちる彼の涙を止めたくて、笑ってほしくて、フィーネは笑みを向けた。それから、鉛のように重い両手を持ち上げ、目の前の涙雨の主の頬にそっと触れた。
その瞬間、彼の表情が反射的に強張った。
けれども、フィーネは懐かしさと深い親しみを覚えた。
そして、心の奥底から笑みを浮かべた。
「……泣かないで、アウィ……ルド、さま」
そう口にした瞬間、フィーネは安堵し、再び深い闇に意識を手放した。
どうにか戻ってきたフィーネですが、これからどうなるのか、見守っていただけましたら幸いです。
ひとまず六章はここで一区切りです。




