↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/95

六章 赤い闇 (10) 堕ちた王と水宝玉の涙

 フィーネは唾を飲み込んだ。


 翼王が死魔になったなど、そのような話は聞いたことがない。まさか、そのようなおかしなことがあるはずがない、と戸惑う気持ちを押し殺すように服の内側に提げている星鏡を握り締めた。

「そんな……翼王は国を救うために神が遣わす天の御子のはずでは?」

 そう返すとエリーシャは淡い水色の瞳でフィーネを射た。清らかな泉の水のような蒼。ゆらめく波のように光は揺れ動く。

「……覚えておいて。人は誰しも、どんなに心が清い者でも、優しい者でも、無自覚に己の中に『魔物』を住まわせているの。魔物というのは厄介で、普段は土の下で眠りながら、虎視眈々と太陽の下に出る時をいつも狙っている。それを抑えるために、『人』は心と理性で重石を乗せたり、箍(たが)で縛り付けている。それでも、ふとしたきっかけでその戒めがはずれてしまうと、時として取り返しのつかないことが起きてしまうことがあるの。……あの方のようにね」

 フィーネを射る眼差しは嘆きにも似た色を宿した。

「私の死に激昂したあの方は、自身の中の魔に呑まれて力を暴走させてしまった。……花や平和を愛し、虫をも慈しむような人だったあの方が、自分も含めたこの世の『生きとし生けるもの全ての死』を願い、カナーヤ人もウルガ人も殺し尽くす死魔となってしまったの。彼は心も力も制御を失い、自らの意思で風を操り、人々や獣たちを切り刻んだ。皆等しく、命乞いをする間も逃げる間もなく、霧となって消えてしまった。……可哀想なことに祈りの機会すら与えられなかったわ。大河はどす黒く染まり、皆の亡骸から弾け飛んだ脂と血の泡が水面に浮いたものだわ。……やがて、この戦場は誰もいない死の大地となってしまった。

 しばらくしてアウィルドセーシャは我に返って、自身の犯した罪におののいたわ。敵はもちろん、彼の信頼する友も部下も、共に戦っていた自軍の兵も、守りたいと願っていた民も、戦に駆り出された鳥獣たちも、その場にいた何もかもが息をしていなかった。……いえ、それどころか姿形を全く留めていなかった」

 エリーシャの視線を追い、フィーネが顔を向けた瞬間、思わず悲鳴を上げた。

 大地には彼が屠った者たちの亡骸の成れの果てが点々と落ちていた。フィーネは仕事柄、大怪我を負った者や五体満足でない遺体を見ることにはいくらか耐性を持っていたはずだった。怪我の程度を見て、助かる見込みがあるかそうでないか。助けられるならばどういう手段を用いれば命を繋ぐ可能性を高めることが出来るのか。患者を診る時には、心の中の恐怖よりも先に、医師としての目や判断が働いてきた。

 だが、これは明確に違った。

 えもいわれぬ惨事を前に、フィーネは耐えきれずにその場に崩れ落ちた。腹の底から酸いた熱いものがせり上がるような心地がして口元を強く手で押さえた。咽せるように咳き込むフィーネに、エリーシャの静かな声が降り注いだ。

「……フィーネ、あなたは『粛清の風』という出来事は知っているかしら」

 上から降り注ぐ声にフィーネはかろうじて頷いた。


 粛清の風と呼ばれる大災害があったという話は言い伝えには聞いたことがある。伝承によれば、今から三百年ほど前に、戦を繰り返し堕落しきった人間の行いに対して、この世を創世した天の主神(ナハートアム)が怒り、人間を滅ぼすためにあらゆる災いを同時に引き起こしたと伝えられている。

 落雷、地震、津波、噴火、竜巻、洪水、旱魃――例を挙げてもきりがないほどありとあらゆる苦難が人々を襲った。

 その中でも、刃のような風がもたらした被害はすさまじく、その災厄によってウルガとカナーヤの双方の国では人口の六割が失われ、周辺国にも被害が及び、それまでこの地に存在していた文明が一度崩壊したとすら言われている。

 しかも、それまでの人々は『魔術』とともに生きてきたが、その能力も知識も現代ではほとんどが失われてしまったのだ、と老人はよく語った。


「……そのような大災害であったと聞いたことはあります」

「あなたの知っている知識は表向きのものでしかないわ。現在この世に生きている人々のほとんどは本当のことを知らないの」

 フィーネはやはり信じられないという気持ちから、エリーシャの瞳に縋った。彼女の話が事実ならば、この凶事は翼王が引き起こしたということになる。だが、彼女はフィーネの望み通りの答えを返さず、淡々と続けた。

「正気を取り戻したアウィルドセーシャは、ひとり王都に戻ると、当時の最高神官長(レリファ=シシカ)に自らの過ちを正直に告げたわ。そして『もし次代の翼王が現れたのならば、その者を速やかに殺してほしい』と頼んだの。それから、彼は災いを止めるため、バルク岬から岩礁の海に飛び降りて自ら命を絶ったわ。でも、彼が死してもなお、災いは治まらず、その後の十年間、この一帯は彼が残した激しい憎悪の念により、不毛の地となったの」

「……不毛の地だなんて、そこにいたはずの人々はどうなったの?」

「ウルガ王国内で生き残ったのは、エレスやタイト、ロンファなどの霧や山の神々に守られた地か、リドアやカルヴァや王都など、戦場から離れた場所にいた民や王族だけだったわ。……なんだかんだいって十三家もしぶとく無事だったみたい。カナーヤはもっと酷くて、災害や疫病によって民の半分が死に絶え、都の大半が焼け落ちて皇族の多くが命を落としてしまったようだわ。

 そして、戦場で起きた真実など何も知らなかった人々は、この災いの原因を神罰と考えたの。そして、両国がいがみ合っていた今までの行いを反省し、和平交渉を始めた。偶然かも知れないけれど、和平を結んだ日とほぼ同じ時期に一連の災いは治まったわ」

「ウルガとカナーヤは現在は同盟を結び、非常に友好的な関係を築いています。でも、昔はそんなことがあったなんて……。エリーシャさん、翼王は民や国を救ってくださるのではなかったのですか?」

 エリーシャはどこか諦念を帯びた表情で空を仰いだ。流れる涙はないが、代わりに水宝玉(すいほうぎょく)の瞳そのものが透き通る涙のように弔いの光を宿していた。

「多くの無辜(むこ)の命が失われてしまったけれど、両国は争いをやめたわ。それに、とても良い関係が続いている現代から見れば、犠牲は大きかったけれども結果的に言えば、ある意味ではアウィルドセーシャはウルガ王国を守ったと言えなくもない。でも、九番目の翼王(かれ)は死後も己の罪を悔い続けたの。罰を受けることを望み、天の主神に願い出たし、神々の多くも、翼王を責めたわ。神々の中には己の魔に呑まれた翼王を断罪すべきと説く者も数多くいた。でも、天の主神は彼を赦したわ。だって彼には風の力を制御することができなかったから」


 彼女は目を伏せた。話すことを躊躇うように彼女は深く呼吸をした。


「……翼王の魂には、重大な欠陥があるの。風の女神(ファル・レジナ)は死の女神(ベルダエレス・レジナ)から呪いを受けていたし、天の主神が元は一つだった風の女神の魂を翼王と片翼の二つに分けたことで、力に偏りが生じて存在が不安定になっていた。さらに、人の身は脆すぎて、神の魂の器としては弱すぎた。だから、翼王は、単独では自身の力を制御することなんて端からできなかったのよ。

 ……愚かなことに、私もあの方も……いいえ、私たち以前の翼王も片翼も、天の主神がどうして『風の女神』と『初代ウルガ王国国王』にそれぞれ、『翼王』と『片翼』としての役目を与え、幾たび転生を重ねてもその関係を続けさせたのか、本当の理由を知らなかったわ。

 翼王の持つ強大な力を、風玉輪を通して片翼が一度その身に受けて弱め、翼王に再び返す。水路の水門のように、力が暴れないように調整する役目。これこそが片翼に任された一番大事な使命だったの。そうすることで、翼王ははじめて力を制御することができるなんて、そんなこと、私たちは知らなかった!」


 言っている意味が分からない、とフィーネは首を傾げた。彼女の話は片翼ではないフィーネにとって、理解の範囲を完全に越えていた。

 建国神話で当たり前のように語られてはいたが、よくよく考えてみると『元は一つの魂を二つに分ける』ということはどういうことなのだろう。そして、そこの部分をすっ飛ばして考えてみると、本(もと)を正せばそもそも、天の主神が世界を揺るがしかねない大事な話を事前に翼王と片翼に教えておいてくれなかったことで粛清の風の悲劇が起きた、という認識で良いのだろうか。


「だから、天の主神はアウィルド様ではなく私に罰を与えることにしたの。粛清の風を引き起こしたそもそもの原因は私の短慮にあったから……」

 そう語ると、エリーシャは話すことが辛くなったのか、俯いてしまった。

「……その時の私と彼は、とある些細なことで喧嘩をしていて、少し距離を置いていたの。でも、私は彼を愛していた。彼を守りたかったの。片翼には翼王より先に死んではならないという掟があったのに、私はそれを破ってしまった。呪いや瀕死の重傷を受けても片翼さえ無事なら、翼王が死ぬことはなかったのに……私は見守ることができなかった。何があろうと、あの時、あの人を信じて動いてはならなかったのに、身を挺して庇うことを選んでしまった。あの人が私を戦場から遠ざけようとしたことに苛立っていて、私はむきになってしまっていた。そのせいでわたしは取り返しのつかないことをしてしまった……」

「エリーシャさん……」

 彼女は両手で顔を覆いながら、その場で膝をついた。すすり泣く声はあまりに悲痛な響きでフィーネの胸の中を抉ってゆく。


 彼女が受けた悲しみは計り知れないものだろう。


「陛下は……アウィルドリーシャ様は、このことをご存知なのですか?」

「私にはわからないけれど、知っているはずよ。新王は即位の儀式で星見の間に籠もり、天の主神や歴代の王の魂と対話をするといわれているから、粛清の風のことも、生まれる以前に天の主神と交わした約束についても知っているはずなの。だからこそ、自分も同じ道を辿るのではないかと恐れたのでしょうね」

 フィーネは馬鹿祭り初日――セイファンに星見の間を案内された時、アウィルドリーシャが自分は天啓を得られなくなった、とセイファンに言った話を思い出した。彼がラキアとしてアウィルドリーシャを殺すと豪語するのは、粛清の風のような災いを再び引き起こす前に自らを殺さなければならないからなのか。

 もしそれが理由だとすれば、なんと事態は解決が難しいことか。まさか彼が抱えていた事情がここまで重い神話級の悩みだったとは思いも寄らなかったのだ。

 ましてや、片翼ではない自分に、一体、何が出来るのだろうか。

 翼王と片翼という存在について、フィーネは幻想のような印象しか持っていなかったし、知らないことが多すぎた。


 そして、たった一つだけ、どうしても腑に落ちないことがあった。


 フィーネの腹の底にはある疑念が澱んで渦を巻いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。