六章 赤い闇 (9) 九番目の――
次に気がつくと、フィーネは荒野を見下ろしていた。
茶褐色の乾いた大地。灰色の空。
重苦しい雲の渦が立ち込め、その光景を丘の上から見下ろしていた。
平野の縁には、海かと思うほど巨大な川が広がっている。黄色く濁った水が、ただ悠然とゆるやかに流れていた。
その平原の此岸と彼岸に、無数の千切れた黄と紅の旗が見えた。
黄金の龍を描いた朱色の旗――カナーヤの国旗だ。
その向こうには、黄色地に橙色の縁取りを施した旗――白い神鳥の刺繍のウルガの国旗も見える。
地面に刺さった幾百幾千の剣や槍。
幾千万もの兵士たちが叫び、太鼓や鉦が鳴り響き、剣を打ち鳴らし、土埃が舞う。けれども、生きているという実感だけが欠けた、寂しい世界だった。
「ここは……」
どこだろうか、と左右を見回したが、これはどこからどう見ても戦場だ。倒れる人、川を流れる人、船を漕ぐ人、命の灯火が消えた人、何かに押し潰された人、武器を振るう人、逃げ惑う人、人を傷つける人。生死を分けたのは、ほんの偶然だったのかもしれない。戦場を実際に目にするのは初めてだったが、そこが悲惨で過酷な場所であることだけはわかった。
風に乗って漂ってくる血や煤のにおいに、フィーネは幼い日の大火を思い出し、その場にうずくまった。
どうやら自分はあの火事で死んでしまったらしい。残念ながら、天国に行くことができるほど清く正しい立派な人生を送ってこなかったせいか、やはり地獄に落とされたようだ。
落胆はしたものの、まずはこれからどうするべきだろうかと考えた。
ふと、崖下の川のほとりに青年が立っていることに気づいた。黒髪の青年と、向かい合うように黒い頭巾を被った人物がおり、黒頭巾は青年に長い杖を向けていた。黒く渦を巻くような奇妙な形の杖だ。黒頭巾が杖を振り下ろすと、黒い雷が青年に向かって伸びた。青年は大剣を構えて迎え撃とうとした。どういうわけか、青年の剣は夜明真珠のように青白い光を放っていた。
黒雷が青年を襲う直前、どこからともなく青年を庇うようにひとりの少女が彼と黒頭巾の間に割り込んだ。
「……っ」
フィーネは思わず目を背けた。
緑金の髪が美しい少女の姿はすでに跡形もなく、ただ、彼女がいたはずの場所には赤と白と黄の泉が広がっていた。
青年は頬に血飛沫がついたまま呆気にとられた様子でいたが、目の前の血の海を見ると、顔から血の気が引いて絶望に染まった。彼は剣を捨てて屈み、地面に散らばった少女の破片をかき集めるように拾いはじめた。しかし、すぐさま周囲に駆け寄ってきた四、五人の兵士たちに止められ、彼は諦めた様子で地に崩れ落ちた。
彼は激しく慟哭した。声は聞こえないものの、絶望の深さは離れていても伝わってきた。
すると、どういうことだろうか。先ほどまで空を覆っていた雲が、まるで何かに引き寄せられるように渦を巻き始めた。急に空が黒くなり、冷たい風が吹き始めた。驟雨が来るのかと思ったが様子が違う。雲は渦を巻き、竜のような巨大な風の柱が天に向かって伸びたかと思えば、次の瞬間、それは天から降る槍のように地上へ叩きつけられた。
フィーネは茫然した面持ちでその後に起こった光景を見ていることしかできなかった。
青年は憤怒と憎悪の入り混じった形相で天を仰いだ。黒い瞳は金色に変化し、結い上げていたはずの黒く長い髪はほどけて風で逆立ち、彼の足元は銀色に輝いた。
天には巨大な嵐が起こり、数百を超える落雷を生み出した。風は砂粒や大岩、地に落ちていた剣や槍などあらゆるものを取り込み、光る刃を生み出した。それらは逃げ惑う人々を襲い、呑み込まれた人々は次の瞬間には跡形もなく崩れ去った。
船は転覆し粉々に爆ぜた。大河は赤く染まり、褐色のあぶくで満ち、辺りは血の海と化した。
フィーネは恐ろしくなってその場に崩れた。足ががたがたと震えて力が入らない。
何が起きているのだ。地獄という場所はなんて恐ろしいのだろう。
「だれか……」
助けて、と願いかけたが、そうも言っていられない。いますぐあの青年を止めなければ、皆が死んでしまう。
「でも、どうしたらいいの……?」
その声に応えるように鈴のような声がフィーネ、と呼んだ。
背後を振り返ると、こちらに微笑みを向ける少女が立っていた。彼女の顔を確かめたフィーネは驚きで叫んだ。
「あなたは……エリーシャさん!?」
そうだ、エリーシャだ。数日前の夢の中で会った少女だ。緑がかった金の髪をまっすぐ腰まで垂らし、ゆったりとした白い衣を纏っている。改めて見ても、彼女の服はやはり、すこし時代遅れの意匠だった。水宝玉のような水色の瞳は穏やかな光を湛えてこちらを見つめていた。だが、フィーネの気のせいかもしれないが、以前『鳥の渡り』という魔術を教えてくれた時の彼女より少し大人びて見えた。
「どうしてあなたが……。いえ、それよりも、ここはどこなんですか? 私は確か、白鴎宮にいたはずなのに、気づいたらここにいて……」
エリーシャは静かにフィーネの隣に立ち、眼下に広がる惨状を眺めた。
「……ここは、私の記憶の世界。今あなたが見たことは、実際に起こった過去の光景なの」
え、と驚いたフィーネは自分の頬をつねった。今回もしっかりと痛みがあることに落胆して思わずため息が出た。
「……私、夢を見てるんだ……」
「ええ。ここは夢の世界で間違いないわ。現実のあなたはいま、火難によって死に瀕しているもの。でも、この夢は夢であっても偽りのない夢だわ」
「夢なのに本当の夢ってどういうことですか?」
エリーシャは眉尻を下げて力ない笑みを向けた。それから、左手で遠くの青年を指差した。手首の五弁の花や蓮などの花の彫りが美しい金色の腕輪がきらりと輝いた。
「ねえ、あの男の人が誰かわかる?」
白い人差し指が示す青年を目を凝らして見る。
改めて確かめても、初めて見る顔だ。怒りで歪んでいるが、整った容貌の長い黒髪の、優雅さと精悍さを備えた二十歳過ぎくらいの青年が誰であるのかはわからない。だが、彼の姿を見た瞬間、不思議なことに懐かしい感情を抱いた。
「いいえ。……ですが、どことなく陛下に似ている気がする」
「ふふ、あなたって思ったよりも鋭いのね。彼はアウィルド……いえ、正確にはあなたがよく知ってる翼王ではなくてね、あの方は、九番目の翼王――あなた達からすれば先代の翼王よ」
エリーシャは緑金の長い髪を揺らして微笑んだ。首を傾げると、はらり、と艶やかな髪が一房滑り落ちて肩にかかった。
予想外の答えにまたもや驚きつつ、フィーネは顎に触れて思案に暮れた。
九番目の翼王となると、フィーネが生きている時代よりも三百年前の昔の人物だ。九番目の翼王は、粛清の風と呼ばれる大災厄を鎮めるために自ら命を投げ出したという伝説が残るが、先ほどの光景を見ると、災いは彼を起点に起きているように見える。
エリーシャは裾を引きずらないように長衣の腰のあたりの布を持ち上げると可憐に一礼した。
「あなたにはまだ、正式には名乗っていなかったわね。私はエリーシャ。私はかつて、『九番目の片翼』と呼ばれていたわ」
先代の翼王と片翼と聞いてフィーネは動転した。
「待ってください!? それじゃあ、あなたはやっぱり……先代の翼王の片翼、なんですか?」
「そうよ。もう、そんなに驚いた顔をしないで。あら? でも、よく考えたら私はもう死んでいるし、幽霊と面と向かって会話したとなれば冷静ではいられない気持ちもわかるけれどね」
「そんな……」
事態を受け入れられずに頭を抱えたくなりながら、ため息が出た。
以前、図書寮でノルンが調べてくれた情報から、エリーシャが九番目の片翼ではないのか、という仮説は立てていた。だが、あれはあくまでも夢の中の出来事だろうとフィーネはわざと深く考えることをやめていた。そうでなければあの時に見聞きした出来事が真実であることになってしまう。そして、今見ている夢はあの時の夢の続きとでもいうことになるのだろうか。
そしていざ、本人から片翼であると名乗られてしまうと、フィーネは受け止めきれなかった。いや、これはやっぱりフィーネの頭の中だけで筋道が通った単なる夢だ。そう、きっとそうに違いない。
あれやこれやとフィーネが自分が納得できるように話を組み立てながら悩んでいると、エリーシャは穏やかな声で話し始めた。
「ここはイベルの川岸。今から三百年くらい前のスーヴェ川――ウルガとカナーヤの国境の街ネヴィ近郊の川岸なの。フィーネったら青い顔をしてしまって面白いわね」
「それは青くもなりますとも。だって、こんな――」
フィーネはなおも狂ったように吹き荒ぶ風に目を向けた。エリーシャとフィーネの周囲だけは無事だが、先ほどから大地が揺れ続け、丘の上も、下に見える川沿いの地面も激しくひび割れてめくれ上がっていた。
「確かにそうね。ねえ、フィーネ。どうしてこうなってしまったのか、今から順を追って話していこうと思うのだけれど、いいかしら?」
「お願いします」
混乱する頭を鎮めるためにも、まずは少しでも情報を集めたいとフィーネは望んだ。
「私は物心ついた頃にはすでに白鴎宮にいたから、本当の両親のことは知らないの。でも、アウィルド様のご両親の国王夫妻も、王宮の皆も、私にとてもよくしてくださったわ。だから、寂しくはなかったの」
彼女は感慨に浸るように目を伏せて小さく微笑んだ。
「私が生きていた頃のウルガ王国とカナーヤ帝国はとても仲が悪くて、百年にわたる長い戦が続いていたの。何度も小競り合いを繰り返して、地図の国境が少しずつ書き換わっていたのだけれど、ある戦いで国王陛下が戦死なさってしまったの。王太子であらせられたアウィルド様が跡を継いで国王となられたけれど、その年の乾季に、カナーヤが領土拡大を狙って一方的に侵攻してきたわ。
騎馬と戦象を多数従えたカナーヤ軍の苛烈な攻撃のせいで、ウルガは国土の半分を失い、とても多くの者が命と尊厳を奪われてしまったわ。……アウィルド様は、カナーヤにこれ以上の侵略をさせないため、自ら剣をとり、片翼だった私を連れて前線で戦った。五年以上かかって私たちはなんとか敵軍を本来の国境のスーヴェ川付近まで退けることに成功したの」
だが、この光景は一体何なのだ、と丘の下の光景と彼女を交互に見て問うと、エリーシャは眉尻を下げた。
「スーヴェ川の畔のネヴィという街を取り戻す戦いの最中、私はカナーヤが雇った神殺しが放った死の呪いから彼を庇って死んだわ」
「死んだ……って」
彼女は静かに目を伏せた。
「仕方のないことだったわ。人はいつか死ぬもの。私の一生はあの場所、イベルの河原で終わる定めだった。その様子はさっき見たわね」
「あれが……」
「そう。あれは私。あっという間だったでしょう?」
「そんなあっさりと言うなんて……」
「本当に呆気ないものだったわ。人間に潰される蚊の気持ちがとてもよくわかるくらいには、私は死の瞬間を覚えてはいないの。……アウィルド様は私と『――』を拾い集めてくれようとしたみたいだけど」
「え?」
「もうどうしようもないことだったの」
彼女は諦めているような、むしろ清々しいほどの笑顔でフィーネに微笑みかけた。
彼女の話が一部聞こえなかったが、彼女は一体何と言ったのだろうか。気になったがあまりに重い話に水を差すわけにもいかず、フィーネは押し黙った。
「……でもね、私が死んだことで誰も予想していなかったことが起こってしまったの」
他人事のように微笑んだのもつかの間、静かに、かつ震える声で言葉を絞り出した。
「……アウィルドセーシャが、死魔……正真正銘の化け物となってしまったのだから」
今回は四章のエリーシャが再登場しました。
やはり、ノルンの推測は正しかったようです。
火難で気絶中のフィーネですが、なぜエリーシャは彼女の夢に現れるのでしょうか。その謎が明らかになっていきます。
ちなみに、水宝玉――アクアマリンのような瞳のエリーシャですが、イメージは橄欖石――ペリドットです。
次回もお読みいただけましたら幸いです。




