六章 赤い闇 (8) 赤い闇の向こうから
「――――!」
どん、と何かが弾けた大きな音が聞こえ、フィーネは目を覚ました。そして、自分を取り巻く室内の光景を見て息を呑んだ。
目の前が赤い。ぱちぱちと薪がはぜるような音が鳴り、はらはらと天井から火の粉が降る。
まさか、夢の中だけでなく現実でも火に襲われていたとはつゆにも思わなかった。
すぐにこの場から逃げなくては、と起き上がろうとしたフィーネだったが、手首と足首を縄で縛られていて身動きがとれず、地を転がることしかできない。
簡単にはここから逃げることが出来ないことを知り、背筋に寒気が走った。
「ここは……」
どこだろうか。
上下左右、周囲の様子を確認するために視線を動かしてみる。右、左、上下斜め――木材が積まれているだけで他には何も見当たらない。そして、自分は何故、火事に巻き込まれているのだろうか。記憶の整理が追いつかず、混乱しながらも、思い出せる範囲で考えた。
たしか、緑水舎で午睡をしていたのだ。そこに、ラキアの依頼で来たというバハーンから怪我人がいるという話を聞いた直後、薬を嗅がされて意識が無くなって――。
『悪く思わないでくださいね。恨むならわたしにあなたを殺せと命じたあの男を恨んでください――』
消えかけた意識に強く残ったバハーンの声はその名をはっきりと告げた。
フィーネは信じたくなかった。まさか、『彼』がそんなことを命じたなんて――。
ふいに目から涙が零れた。
熱から目を守る身体の反射のためか、はたまた、罠にはめられたことが悔しいのか。自分でもどちらかわからないが、涙が止まらない。
アウィルドはフィーネを殺すつもりだったのだ。
いや、違う。
「……冗談じゃない」
彼がそんなことをするはずがない。
今のアウィルドにはフィーネを殺そうとする理由が充分にある。フィーネさえいなければ彼の望みの通り、自由に国王殺しが出来るのだ。だが、殺そうと思えばとっくにやっていたはずだし、わざわざフィーネを殺さずとも馬鹿祭りの終わりを待ちさえすればその願いは叶うものである。わざわざ別の建物に運んでから生きたまま炎で焼き殺すような回りくどい方法を使うなど手間がかかりすぎている。
おそらくは彼を騙った別人の仕業に違いない。
「でも……」
ふと、もしも、そうでなかったとしたら、という考えが頭の片隅をちらついたが、フィーネはその考えを打ち払った。
今はどちらでもいい。生きてさえいれば真相を知ることができる。もし仮に、これが彼の仕業だったとしても、彼を責めることだってできる。
――死んでたまるか。
そう強く決意を固めたフィーネは指に力を込めた。
しかし、頭で考えていることを思う通りに実行するのは存外容易いことではない。手足を拘束された上に、煙のせいか、薬のせいなのかはわからないが身体が痺れて自由に動くことがままならない今の状態で、為す術のない人間にできることは限られている。本当ならば煙を吸わないためにも手巾を取り出して口と鼻を覆うのが最善だが、手足の自由がきかない今は、残念ながら不可能だった。
仕方なく、フィーネはうつ伏せになってなるべく熱い空気を吸わないように努めた。
火や煙は上の方に広がると聞いたことがある。ならば下にいれば安全だろうか、とも思うのだが、その考えはすぐに否定された。火は天井に回り、煙が白から黒に変わってきたのだ。
まずいな、とフィーネは焦りを覚えて唇を噛み締めた。師匠から教わった話によれば、煙の色が黒く変化したということは、柱や資材など、すでに燃えた物から発生した毒を含んでいる可能性がある。その煙を吸えば意識を失ったり、熱気で気道に熱傷を引き起こしたりして呼吸困難に陥る。
もし、動けなくなってしまえば高温の炎で生きたまま火葬されるのをただ待つだけだ。
こうして床でうずくまって耐えていても、すぐに下のほうにも火の手が及ぶ。そうでなくてもこの建物が倒壊して燃え盛る瓦礫の下敷きになれば即死するだろう。
なんとしても、意識を失う前に逃げなくてはならない。だが、熱と苦痛で頭が朦朧としていてこれが現実なのか夢なのか判断力が鈍ってきていた。
フィーネは悟った。
多かれ少なかれ、煙を吸って酸欠になったのだ。動けなければもはや出来ることは何一つ残されてはなかった。せめてもの幸いを願うならば炎で身を焼かれる前に煙で意識を失うことだけだ。
火刑はもっとも苦しく残酷な処刑方法だと聞いたことがあるからできることならなるべく苦しみは少ない方がいい。火の神の慈悲を乞うほかない。
その間にも、じりじりと舐めるように炎の熱が、手足や顔など、着衣で覆われていない部分のむき出しの肌を攻める。逃れようと痛みに喘ぎながら必死に指を床に立てるが、力が入らない。つい先ほどまでは玉のような汗をかいていたが、それすら出なくなった。代わりに目と喉の粘膜に焼け付くような痛みを感じた。肌はすっかりからからに乾燥して、ひりひりする。
いよいよ死が迎えに来たのだ。
煙を吸わないようになるべく息を止めて耐えていたが、もはや限界だ。
誰か、助けて――。
自分はまだ、死にたくない。死ぬわけにはいかないのだ。
恐怖で胸が張り裂けそうになりながら、フィーネは願った。
あの人――アウィルドリーシャに何があったのか知らなければならない。
お願いだ。誰か、来てほしい。
ここから連れ出してほしい。
神でも先祖でも、幽霊でも精霊でも悪魔でも、魔物でも善人でも悪人でも、誰でもいい。
必死に心の底から願ったその時だった。
フィーネは思わず目を疑った。
助けを乞う彼女の願いに応えるように、視界に影が一つ、ちらついたような気がしたのだ。
はじめは、死にたくないという人生最期の悪足掻きが見せる幻だろうかと疑った。だが、それはどんどん大きくなってこちらに近づいてくる。
朦朧とした意識の中、誰だろうか、とぼんやりと考えた。
炎の向こうから現れたのは、一人の男だった。赤く眩い光に包まれているために、こちらからはよく姿が見えなかった。彼は駆け寄ると、フィーネを強く抱き起こした。心なしか、その男はほっとしたような笑みを浮かべた。炎の逆光で顔は良く見えないはずなのにそう思ってしまうのはフィーネがかなり衰弱していて幻覚を見ているからだろう。
本当に夢を見ている気分だ。まさか、自分を助けるために炎の中に飛び込んで来てくれる人がいるなんて思いもしなかった。
そう考えていると、彼は頭から被っていた水で湿らせた大布をフィーネの小柄な体に被せた。
不思議なことに、頭から足まで全身をすっぽりと包み込まれると、布が炎の熱をかなり遮ってくれたため、わずかではあるものの楽になった。
ただの布にそれほどの効果があるとは思えないが、もはや感覚も思考力もかなり鈍っていた。
視界が真っ暗になったと思ったのも束の間、フィーネは担ぎ上げられた。向かい合わせの格好で担がれ、男の肩が腹部に押し付けられて苦しいが、先ほどまでの苦しみに比べれば大したことはない。
彼は走り出した。
その間にも、火は勢いを増してフィーネと男の二人に襲い掛かってきた。剣だろうか、何かで瓦礫や炎を薙ぎ払いながら進む音が聞こえる。
そして、フィーネは何故か背中と右腕に激しい痛みを覚えた。炎には触れていないはずだが、額にも焼けるような熱さを感じて歯を食いしばった。
そのうちにフィーネの意識は闇に呑み込まれて途切れた。
今回は、序章『赤い闇』でフィーネが巻き込まれていた火事と、その続きの場面でした。(ようやくここまで書けました! また、お読みいただきありがとうございます!)
序章で何が起きていたのか。
そして、フィーネはどうして火に襲われていたのか。
それらの答えを示唆する回でした。
新たな謎として、炎の向こうから現れた人物は誰だったのか?
という疑問が残りますが、恐らくばればれだと思われます。
そして、とんだ冤罪をかけられたあの人はかなり気の毒かもしれません。
次回は、意識を失ったフィーネが、ある人物の「過去」を知り、『粛清の風』と呼ばれている大災厄の真相を知っていくことになります。
よろしければお読みいただけますと幸いです。
お読みいただきありがとうございました




