六章 赤い闇 (7) 白い霍香薊と救えなかった人
フィーネは幼い頃から、様々な人から母親にとてもよく似ていると言われてきた。フィーネはとても誇らしかった。しかし、しばしば母親譲りの目のせいで誘拐されそうになったり命の危険に曝されるなど、苦い経験があった。
聞いた話では、北の隣国カナーヤ帝国では銀の目を持つ者は皇血と呼ばれて珍重されるらしい。
特に女子は人身売買では男子よりも高値で取引される。
そのため、フィーネは人攫いによく狙われたのだ。だから、普段は男物の服に身を包み、身分も性別も偽って暮らしていた。
その暮らしは不自由な部分もあったが、大好きな母親に似ていると言われることは嫌ではなかった。
母はとても美しい女性だった。
白く澄んだ肌に、緩く波打つ艶やかな黒い髪の対比が美しい人だった。細い線で滑らかな卵形に縁取られた顔は儚げで、首から肩にかけて描かれるなだらかな曲線、さらに手の指やつま先に至るまで非の打ち所がない女性という評判だった。
しかし、フィーネは母の本当の顔を知らなかった。
母は目が見えなかった。若い頃に重い目の病に罹り、手術を受けて両目を摘出したのだという。
眼窩の形を保つためだけに義眼を入れた白い瞼は常に閉じられ、開くことは一度たりともなかった。
それでも母は自らの境遇を嘆いたり、不服を漏らしたりすることは一切なかった。それどころか、手術をしてくれた故郷の医師に生涯感謝し続けた。幼いフィーネには、それがどうしても理解できなかった。
一度だけ、フィーネは母に尋ねたことがあった。医師を恨んでいないのか、という幼い我が子の問いを聞くと、母はおいで、と嬉しそうな笑みを浮かべて手招きした。真昼の月の澄んだ色のような声に呼ばれるのがフィーネは大好きだった。母はフィーネを抱きしめて頭を優しく撫でてくれた。布越しに伝わる温もりと、ふわふわとしたやわらかい花の香りに包まれ、安堵しながらフィーネは猫のように母に甘えた。
『フィーネ、私がガイズさんと結婚してあなたを授かることができたのはそのお医者様のおかげだったのですよ。私の命を脅かす悪い部分を取ってくださったから、私は今もこうして生きていられるの』
『でも……痛かったんじゃ』
『そうね。でもね、人というのは一生のうちに何回か、痛いことに耐えなければならない勝負時があるの。生まれた時と、死ぬ時は避けられないわ。まだあなたには早いけれど、あなたは女の子だから、いつか大人の身体になる時や、赤ちゃんを産む選択をしたときは負けられない戦いに挑まなくちゃならなくなるかもしれない。怪我や病気で苦しむこともあるかもしれない。とにかく、生きていく限り、苦しいことがたくさん待っているものなの。けれども、人間というのはその痛みと戦って勝つことで、幸せを手に入れることができるのよ』
『痛いのは嫌です』
『そうね。……でも、その痛くて辛いことに耐えたから、私はあなたに会えた。これってすごいことよ』
『だから、私は幸せよ』
母は心の底から幸せそうに笑った。白い霍香薊のように華やいで、とても美しかった。
そして、フィーネは以前、父が語ってくれた言葉から母が銀の瞳を輝かせて明るい笑みを振りまいていた頃の姿に思いを馳せた。
だから、フィーネはそれ以上のことは訊かないことにした。
だが、いくら両親が幸せであったとしても、フィーネは自分の出自に疑問を抱かざるを得なかった。
フィーネの両親は、先王リルダムにわざわざ許可を得てから結婚したという。ガイズは十二歳という歴代最年少の若さで科挙に合格したためか、先王に気に入られており、若くして近臣として様々な仕事を任されていた。その縁からのことだったのだが、この行動が後に様々な憶測と波紋を呼ぶことになった。
ガイズ・ユリフェとその妻、アーリ・ユリフェの間に生まれた娘は、母親の形質を色濃く受け継いでしまった。白磁の肌に銀の瞳。それを見た者は口々に言ったという。
『ユリフェ本家の次男坊。天にも唾を吐く放蕩息子の妻は一体何者なのか』
まことしやかに囁かれたとある噂は、ユリフェ家のみならず国中を駆け巡り、王宮までもが騒ぎになりかけた。そして、その疑問の答えを知っていた者の多くは、先の星見の乱で命を落とし、今となっては実父のガイズしかいない。
ガイズはかつて、試しの儀、というウルガとカナーヤの交流行事のために白鴎宮にやってきたとある女性と恋に落ちた。
その時に懇意にしていたのが、あろう事か、カナーヤ帝国第五皇女のアーリ・イグゼバルト・フライネだった。二人は国や身分の隔たりを感じさせぬほどたいそう仲睦まじかったという。
ガイズは試しの儀が終わると、皇女を故郷に送るためにカナーヤに同行した。ところが、彼女は継母である正妃に疎まれており、帰国後まもなく暗殺されてしまった。そして、ガイズも消息不明となった。
奇妙なことに、カナーヤの宮城に第五皇女の遺体は戻らず、皇帝の元に帰ったのは氷漬けにされた二つの眼球のみだったという。
それからしばらくして、ガイズはウルガに帰国した。両目が不自由な、かつて彼が恋した皇女と同じ名のカナーヤの女人とともに――。
そのことから、彼が連れ帰ったのは殺されたはずのカナーヤ第五皇女であるという噂が立ったのだ。
実際のところ、アーリはカナーヤ北部の砂漠で暮らす少数民族の出身だったという。そんな噂を知った母は、とんでもないことだわ、とひどく驚いていたらしい。
噂の真偽はわからないが、銀の瞳を理由に、フィーネは本家の祖母と伯父夫妻以外の親族から疎まれることとなった。
フィーネが自分で調べた話によれば、フィーネの素性については一族はもちろんのこと、家臣との間でもかなり揉めたらしい。過激な意見では、どこの馬の骨の娘かはわからぬが、皇血など、無用な争いを生じさせる前にすぐに殺すべきだと意見した者すらいた。
* * *
フィーネは生まれてからしばらくの間は、王都のユリフェ邸で暮らしていた。その頃、ガイズは第一王子の教育係として多忙のために、なかなか邸に帰ってこなかった。だから、フィーネは父の代わりに母を守ると決め、婆やとともに母親の世話をしていた。
盲目のために世界を見ることができない彼女の代わりにフィーネは毎日、その日に自分が見た出来事を話して聞かせた。母はよく耳を澄ませて聴いてくれたものだ。
フィーネの話に合わせて頷いたり、驚いたり、大笑いしたり、まるで我が事のように聴いてくれた。嬉しくて、ついついどうでもいいようなくだらないことも話しかけたものだ。
ところが、母はフィーネが五歳になった年の初めに流行病で命を落とした。
大きな白い棺が屋敷から火葬場へ旅立ち、しばらくしてガイズが小さな白い壷を持ち帰ってきた。彼は目に見えて憔悴しきっていたが、フィーネと目が合うと、力強い笑みを浮かべた。
『母上は天の楽園に向かって旅立ったんだ。だからフィーネ、母上が道に迷わないように弔いの歌を歌ってくれるかい?』
彼は泣きじゃくる幼いフィーネを抱きしめ、気丈に振る舞った。フィーネはその強い胸に顔を埋めては幾度となく涙した。
父は強かった。しかし、夜中になって彼が部屋に籠もると激しく泣く声が聞こえてきた。
慰めようと部屋に近づこうとすると、婆やの手がそっと肩に触れてきて止められた。
フィーネと目が合うと、彼女は口元に指を立てて沈黙を促した。
『……旦那様は、お嬢様の前では父親として、王宮では国を護る官吏として振る舞わなければなりません。辛く泣きたい時も、涙を我慢して、ずっとおひとりで立ち向かっておられたのです。旦那様がひとりの殿方として、奥方様との別れを悲しまれるためには、今はおひとりでそっとしてあげなければなりませんよ』
『でも婆や、父上は悲しいのではありませんか? ひとりでいたら余計に悲しくなります』
皺としみだらけの婆やは、目を伏せて頷いた。
『ええ。ですが、人は時として、誰とも話をせずに誰の目を気にすることなく、ひとりきりで向き合う時間というものが必要なのです。心の中の悲しみを洗い出すために、枯れるほどの涙を流すこともまた、大切な時間なのです。問題はひとしきり涙を流した後です。人というのは一度悲しみの沼に落ちてしまうと、そこからなかなか出ることができません。そのとき初めて、誰かが助けの手を差し伸べなければなりません。悲しみの沼に落ちてしまった人を救えるのはまた、人なのです。お辛いとは思いますが、今は待ちましょう。旦那様が元気を取り戻すことができるよう、お嬢様のお力が必要なのですよ』
フィーネは父が元気になることを願い、婆やに教わりながら手巾に刺繍をした。絵柄は『六花』という寒冷地でしか咲かない花にした。『雪』ともいうその花は、両親にとっての思い出の花だった。
以前、父が描いてくれた絵をフィーネは大切に文箱に仕舞っていたので、それを手本に作り始めた。天空から降る花々をフィーネは実際に見たことはなかったが、想像を膨らませながら針を布に刺していった。
しかし、その手巾が完成することはなかった。
そして、妻を亡くした悲しみに打ちひしがれていたガイズはさらなる悲しみに襲われることとなった。
突如としてフィーネが奇妙な病に悩まされるようになったのだ。
その病は、何の前触れもなく赤い痣が身体に浮かぶのだ。手足や額をはじめとして全身に扶桑花の花弁のように鮮やかに散るそれは、激痛を伴いながら幼い身体をしばしば蝕んだ。それは痛み止めが全く効かず、二、三日は悲鳴を上げるような痛みが続いたのだった。
ガイズは苦しみ叫ぶ娘の病の原因を突き止めようと医師を頼り、神官に相談し、王宮の書庫に籠もって文献を虱潰しに調べたが、答えにたどり着くことができなかった。
憔悴しながらも彼は諦めずに努力したが、一連の出来事を経て、年若かったはずの彼の黒髪は一時的に白く染まってしまったのだった。目は落ち窪み、頬は痩せこけ、苦悩と苛立ちから髪を強く何度も引っ張ったために髪が抜け落ち、頭皮が透けて見えるようになり、二十代の彼は少なくとも四十は年を食ってしまったように老け込んだ。
さらに、彼はフィーネを見ると涙を流すようになった。
何故、娘がこのような仕打ちを受けなければならないのだ、と神棚に八つ当たりして壊し、酒に溺れ、最愛の妻の不在を嘆く言葉を幾度も叫んだ。
エレスの伯父ギルガムは、弟の荒んだ様子を案じてフィーネをエレス領のユリフェ家本家で育てることを提案した。
元々ユリフェ家に生まれついた者は、分家であろうと全員本家で育てられるしきたりになっていたし、いい加減良い頃合いであろう、と弟に言い聞かせた。
さらに、ガイズはある問題を抱えていた。彼は第一王子の教育係――中でも専属教育係でありながら、王宮に居を持つことを拒んでいたのだ。
ウルガ王国の王族の子女には通常の各科目を教える教育係の他に、各々最低一人、専属の教育係が就くことになっていた。
専属教育係は自身が担当する王族の側に常に控え、知識のみならず起床から就寝までの生活全般の教育を任されているため、王宮に住むことが求められていた。だが、ガイズは以前アーリの出自の件で騒ぎになった一件からフィーネを王宮に連れて行くわけにいかず、かと言って邸に置いていくことも出来なかったため、自邸から通っていたのだ。銀の瞳を持つフィーネを王宮へ連れていけば、彼女の素性を知ろうと詮索する者や、攫おうとする者との接触が増える。それをガイズは厭うたのだ。
それでも、何故ガイズが先王によって第一王子の専属教育係に任命されたのか。それは、幼子であるはずの第一王子が神の化身としてほかの者の手に負えないほど優秀過ぎたからだった。
語学、算術、歴史学、地理学、地政学、政治学、経済学、軍事学、天文学、理化学、医学、神学、帝王学、礼法をはじめ、いずれの教育係も、教えるべきことがないほどの理解力を見せつけられた。しかも、ただ賢いだけではない。彼の夜の海のような瞳は貪欲に知識を求めて異様に輝いていたばかりか、一つ物事を教えると少なくとも十の問いで返される。さらに、彼の理詰めの話し方で教育係のほうが言い返せず追い込まれることもあったという。
まったくもって幼子らしいところがほとんどない第一王子の様子に怯えて教育係達は逃げ出してしまったらしい。
特に、彼は物心ついた頃から誰からも教えられることなく文字の読み書きが出来た。さらに、難解な書物を一読するだけで内容を理解したり、一度見た武術の技をすぐに己の物にしてしまう。不気味なほど礼儀正しく非の打ち所がなく、人間味に乏しく、まるで神か化け物を相手にしているようで恐怖を感じてしまうと彼らは口々に言ったそうだ。
困り果てた先王は思案し、そういえば賢くはあるが神を恐れぬ馬鹿者がいたな、とガイズを次の教育係に指名したという経緯があったらしい。
フィーネをエレス本家で育てるという伯父のギルガムからの提案をガイズは拒否したが、フィーネは受け入れた。幼きながらも薄々わかっていたのだ。
自分がいれば彼は否応なしに母を思い出す。このままそばにいれば、愛しい人を守れなかった後悔に苛まれた彼は壊れてしまうかもしれない。
フィーネは大好きな父が壊れてほしくないし、見たくなかった。
だからフィーネは寂しさや、祖父の元で暮らす恐怖を笑顔で隠し、ガイズに自分のことよりも、父が果たすべき役目を優先してほしいと頼んだのだった。
「――だから父上、どうか、私の代わりに王子様を立派な国王様にしてください。私のことは心配いりません。ですからどうか、お願いします」
要約すればそんな感じのことを、フィーネは父に願い出た。
彼はなおも拒否したが、フィーネの顔を見るとやはり涙が止まらなくなり、大声で泣きながら床に伏せてしまう有り様だった。
それからしばらくして喪が明けると、ガイズは再び王宮に出仕することになり、フィーネは療養のためにエレスに暮らす伯父夫妻に預けられることとなったのだった。
* * *
あれはフィーネが七歳の時の暑季のことだった。
その年のエレスは例年よりも雷が多かった。
落雷が原因となって発生した山火事は、瞬く間に人の手に負えぬ規模となった。風が吹き、大火は領都の街を焼き尽くした。
あの晩は空が血の色のように明るく、街から離れたユリフェ邸にいても、空気が焼かれるように暑かったのをよく覚えている。
西部にあり、水堀に囲まれたユリフェ家本家の邸は無事だったが、領都にいた多くの領民が帰るべき家を失ってしまった。
そのため、当時の領主だったフィーネの祖父は、屋敷の門を開放し、木材や布を組んで庭に仮設の住居を建てた。
まもなく、邸の庭には怪我人たちが運ばれてきた。火傷を負った者は痛々しく、目を背けたくなる姿になりながらも、必死に生きたいと願い、助けを求めた。
祖父や伯父はあらゆる手を尽くして彼らを助けようと努力した。使者を近隣の他領に派遣し、財を投げ打って薬品や食料を手配し、国王にも陳情書を送った。
街から吹く風には煤けた匂いが混ざり、火傷を負ったり煤を浴びたりして全身を赤黒く染めた人々がやってきた。
フィーネは、手拭いを運んだり、怪我人の手当てをする人々の手伝いをしなければと考えたが、祖父の命令で地下の隠し部屋に幽閉された。
机の上で背伸びをすることで辛うじて見える外の景色を見つめながら、漂う死臭が鼻を突き刺す中、どうしようもない無力感と怒りに小さな身体は震えることしか出来なかった。
状況は日に日に悪化した。
そんな折、地下にいたはずのフィーネはある男に連れ去られた。被災者に紛れて邸に忍び込んだ男は、大胆にも朝食の配給の時の喧騒に紛れてフィーネを攫った。
だが彼は、『人攫い』ではなく、どこにでもいる妻を持つ普通の夫だった。彼の首からは、貝殻模様が刻まれた女物の銀の腕輪が、紐で提げられていた。ただ、それはとても美しい意匠ではあるが煤で黒ずんで脂もこびり付いていた。
年若い青年はフィーネをわざわざ焼け野原となった街に連れて行き、様々な場所を見せて回った。そして、フィーネは見てしまったのだ。
普通の大人であれば、幼子の心に与える影響を案じて、見せまいとするであろう惨状を――。
銀の瞳に焼き付いたのは焼け野原に積み上がった黒い丸太のような炭の山だった。
そして、街の広場には埋葬が追いつかないほど多くの、かつては人々であったはずの炭が積まれていた。
そのただ中で、男はフィーネに刃を向けた。
『……っ、き、貴様のせいだ。聞いたぞ、貴様が……雷を呼んだんだ。銀の目は神の血筋と言うが、カナーヤの魔女や西の魔の王も同じ目を持つんだってな。子供の形をしているが容赦できない!』
始めは静かだった声はだんだんと感情の制御を失い、荒々しくなる。
謂われのない話に混乱し、フィーネは男に問い返した。
『何のことですか。私にはそんなことはできません!』
『うるさい!』
乱暴に彼は手に持っていた鉈で地面を叩いた。
恐ろしくてフィーネは身をすくめた。
『魔物め、妻を、キリアを返せ!!』
フィーネを凶刃が襲った。間一髪で避けたものの、髪を掴まれる。フィーネはその手から逃れるために身体を思い切り前に倒した。男が振り下ろした刃は本来の軌道を逸れて、フィーネの髪だけを根元からばっさりと切り落とした。腰まで長かった黒髪は無残に風にとばされた。
男は舌打ちすると、再び鉈を振り上げた。
フィーネは動けず、目を瞑った。
――死ぬのだと思った。
だが、悲鳴を上げたのは男の方だった。
フィーネが目を開けると、彼はよろけて鉈を取り落とした。
どこからか飛来した一羽の鷹が男の脳天を襲ったのだ。
思わぬ妨害を受けて、彼はへなへなとその場に座り込んで完全に戦意を喪失してしまった。
「……くそ、どうして……返してくれ、キリアを、キリアを……キリアを……キリアを――」
脳天から血を流し、茫然としながら譫言のように呟いている隙に、フィーネは恐怖でもつれる足を引きずるようにその場から逃げ出した。
その後、邸からフィーネを捜しに来た伯父の側近の兵士に発見され、無事に帰ることができたが、殺されそうになったことよりも、魔物だと思われたことよりも、誰かがつらい目にあっているのにそれを知らずに何もすることが出来なかった自分自身の存在こそが耐え難かった。
皮肉なことに、自分を助けてくれる者の言葉よりも、傷つけようとする者の言葉の方がフィーネの心に深く入りこんできた。
それは、フィーネ自身が己に向けた怒りと同じだった。そして、大切な人や物を永久に失ってしまった人の悲しみを思うと胸が張り裂けてしまいそうな苦しみに身悶えした。
名も知らぬあの年若い青年に対して、自分は本当に何もできなかったのだろうか。彼は、愛する妻を喪ったからこそ、あれほどまでに泣き叫んでいたのだ。そして、フィーネを魔物だと思い込んで襲うことでどうすることも出来ない悲しみから目をそらそうとしたのだ。
けれど、フィーネには何も出来なかった。ただ、その無力さに打ちひしがれ、後悔することしか出来なかった。
その時の出来事が後々までフィーネの心にしこりを残した。
だからこそ、フィーネは医師を志すようになった。
あの時は何も出来なかったが、今度こそ、多くの人を救える人になりたい。いや、必ずなってみせると決意した。
はじめは祖母から医学を教わった。ユリフェ家のしきたりで町医者の家で修行を始め、さらにたまたまエレスを訪れた薬王と名高かったリリネに頼み込み、彼女に弟子入りしたのだった。
――火事はもう懲り懲りだ。
――そう。願わくば、もう二度と、命や建物を焼くような悲しい炎なんて見たくない。
しかし、完全に火事を防ぐことは不可能なことをフィーネはよく知っていた。
たとえ常日頃、人が気をつけようとも、いくら優れた建造物を造ろうとも、災害から『必ず』人々を守りきることはできないのだ。
ならば、災いが起きた時に、傷ついてしまった人々を救えるように。助けを差し伸べ、支えられる医師になってみせる。
今度こそ――苦しむ人を助けられるだけの知識と強い力がほしい。あのようなことは二度と起きてほしくないのだ。
だが、フィーネは気がついた。
何故だろうか、自分を取り巻く環境がおかしい。
街を焼いた炎はすでに鎮まり、もう火事は終わったはずだ。あれはすでに過去の出来事だ。それなのに、暑い。
いくら王都の気候は気温が高めであるとはいえ、少し暑すぎはしないだろうか。
いいや違う、『熱い』のだ。
「――――!」
アゲラタム――白い霍香薊の花言葉は色々ありますが、中でも「幸せを得る」というのが素敵な花だなと思います。ぜひ一度検索してみてください。
次回はいよいよ序章に続きます。
フィーネの命を狙う者は誰なのか、フィーネはどうなってしまうのか。
お読みいただけましたら幸いです。




