六章 赤い闇 (5) 嵐が過ぎて
馬鹿祭り十一日目。
フィーネは窓から外を眺めてため息をついた。
昨晩の嵐は嘘のように去り、澄み切った空気に降り注ぐ太陽の光がいつもより眩しく鋭さを伴っている。
フィーネを狙った刺客は捕らえられたが、身の安全が確認できるまではこの部屋を出ないように、とセイファンから指示を受けた。
ヒレナは普段よりも警戒を強め、ルラ、トムカ、サラーも少し落ち着かない様子だった。ディムが出入り口を守ってくれているのはとても心強い。ヘーシャに至っては箒を手に、万が一の時は自分が守ると勇ましいことをフィーネに言って元気づけてくれた。衛兵達も普段より少し緊張感を高めていた。
フィーネは窓から離れると女官達が普段仕事をしている部屋で皆で一緒に朝食の生春巻や白身魚の汁物をいただいた。
それから、彼女達と一緒に部屋の掃除をした。
はじめ、フィーネが掃除を手伝おうとしたら、普段は冷静沈着なはずのトムカが柄にもなくあわあわと慌てたため、面白くて皆で笑った。
緑水宮で過ごすのもそろそろ半月くらいになるが、白鴎宮に来てからのフィーネは割と忙しく過ごしたり体調不良になっていたため、皆とのんびり過ごしたのは、実はこれが初めてだった。
命を狙われることは怖いが皆がいてくれると楽しく、とても勇気をもらうことができた。
昼食は香菜と海老の出汁がよくきいた平たい米麺と、井戸水でよく冷やした芒果の果汁をいただいた。
鳩の間で沐浴すると、午睡の準備を始めた。
ヒレナは自室で少し事務作業をするらしい。ルラ、トムカ、サラーはそれぞれの部屋で午睡をする。ヘーシャは箒を持って見張り番をすると息巻いたが、ディムがいるし、戸口に鍵をかけるから大丈夫だと言いくるめられて強制的に寝室に連れて行かれた。
フィーネは戸口から顔を出して廊下のディムと笑い話も交えて挨拶をすると、扉を閉めて鍵をかけた。
さて、これから午睡だ、と寝室に向かおうとしたが、ふいに少し魔が差した。
昨晩も今朝も今も思うのだが、ルラがラキアに話していた通り、鳩の間を使うと、寝室の蒸し暑さが心なしか普段より増していく気がした。それに、眠気が全く湧いてこない。
フィーネは王宮に来て数日間はやめていたが、元々は毎日弓の鍛錬をしていた。ラキアとお喋り悪魔の木狩りをして以来、彼や武器庫の管理人の許可を得て弓を一張借りていた。
フィーネはすぐに寝付けるように午睡の前に素引きをして筋肉を鍛えることにした。
湿気の都合から女官の仕事部屋の壁に立て掛けさせてもらっていた弓に弦を張り、矢はつがえず弓を引いた。引き絞り、静かに弦を元の状態まで戻す。空打ちをしないのは、矢をつがえていない状態で勢いよく弦を離せば、本来矢を飛ばすときに働く力が弱まらずに直接弓に衝撃が伝わり、弓を痛めるおそれがあるからだ。
何度か繰り返して肩甲骨や上腕三頭筋にほどよい疲れが溜まり、ようやくフィーネも午睡を始めようと弓の弦を外して元の位置に片付けた。
ふいにどこからか甘い香りが漂ってきた。
誰かが香でも焚いてくつろいでいるのだろうか。もしかしたらお香好きのルラかもしれない。
白檀でも沈香でも肉桂でもなく嗅ぎ慣れない香りだが、とても優しい甘さで心地がよい。だが、以前どこかで嗅いだことがあったような気がする。
フィーネは記憶をたどった。そうだ、以前ミムロンがカナーヤから持ち帰ってきてくれた『サクラ』の香だ。あとは、藤袴という花の香にも似ている気がする。あとは確か――。
昔嗅いだムームィという薬草の香りにも似ているな、とフィーネは口元を弛めた。
何のお香だろうか。後でルラに教えてもらおう、とうきうきしながらフィーネは寝室に籠もった。
寝間着に着替えて寝台に身体を横たえたフィーネは静かに目を閉じた。
眠れないときは西方の国では羊や、前の二つの数字を足し合わせて次の数字を作っていく計算をすると良いと言われているが、フィーネはもっぱら文鳥を数えることにしていた。つるふかな手触りの子を思い浮かべると心が休まるのだ。だが、百羽以上数えても眠れず、積み重なった文鳥の塊が出来るばかりで効果がないこともある。今はどちらだろうかと思いながら三十六羽まで数えた。
ふいに瞼の裏に薬草園で植物の名前を教えてくれた時のラキアの笑顔が映り、どきりと心臓が跳ねてフィーネは飛び起きた。
「……なんでよりにもよってアウィルド様の顔が思い浮かぶんだろう。というより、これからあの方のこと、スヴァロン殿とラキア様と陛下とアウィルド様と、どのお名前でお呼びしたらいいんだろう……」
昨日清泉舎で片翼の任命書に署名を書いた彼はフィーネに笑顔で自身の賭けの負けを宣言した。
それからすぐ彼はどこかへ行ってしまい、それきり会えていない。
フィーネはアウィルドを助けたいと思って王宮に来たが、まだ何も成し得ていない。アウィルドの気まぐれで賭けには勝てたが、それはヒレナが向けた疑いに対して誠意を示すためだった。
彼は自身を殺そうと考えているが、その本当の理由をまだ特定出来ていないのだ。問題は解決するどころか、厄介事が増え続けて収拾がつかなくなっているのではなかろうか。
ふと、どこからかどんどんと戸を叩く音が聞こえてきてフィーネは思考を打ち止められた。どうやら部屋の出入口の扉のようだが、ディムか衛兵だろうか。いつもであればディムの声がしたり、ヒレナや女官達がすぐに目覚めて応対してくれるのだが、その気配がない。
それどころか、扉を叩く音が止まない。
もしかすると皆疲れていてよく眠ってしまっているのだろうか。
やれやれ、と思いながらフィーネは寝台を降りた。簪で簡単に髪をまとめ、肩掛けと顔を隠す冠をつけると、隣室を抜けてさらに廊下に続く部屋に向かった。
途中、ヒレナの部屋の扉を叩いたが、珍しいことによく眠っているようで返事がなかった。
いまだに扉を叩く音は続いていた。
午睡中に戸を鳴らすなんてまったく弁えない態度であるが、何か急ぎの事態が起きていたらまずい。先日もヘーシャが襲われたのだ。第二の被害者がいたりでもしたら洒落にならない。
フィーネは扉そのものではなく、覗き窓を開けた。
扉の向こうにはディム――ではなく、見慣れぬ衛兵が二人立っていた。衛兵の制服に身を包んだ二人はフィーネを見ると恭しく一礼した。
片方は背の低いフィーネとさほど変わらぬ身長の少年で、もう一人は大柄で体格に恵まれた壮年の男性だった。
「……あの、ファーシャ様」
見習い衛兵だろうか。声変わりの最中の少しがらがらとした声の少年はおずおずとした様子で言った。
「良かった、ようやくお会いできました。お初にお目にかかります、ファーシャリーシャ様。わたくしは、ナルム・バハーンと申します。恐れながら、お願いしたき義がございまして、無礼は承知で参りました」
何があったのか問いかけると、十二、三歳ほどの年若い少年は困り果てた様子で俯いた。
「……少々重い怪我をした者がおりまして、ドウゴ侍医長とスヴァロン殿下からの依頼で急ぎ、あなた様をお連れするよう仰せつかっております」
「何があったのですか?」
「……じつは、燕子舎そばの三番倉庫で少々厄介な物資を運んでいたのです。ところが、突然、強風が吹いてきて、資材が倒れて三人ほど下敷きになってしまったのでございます。いずれも頭を強打したのか意識がなく、腕や足の骨が折れている者もおりまして……もう、どうすればよいのやらと途方に暮れておりましたところ、スヴァロン殿下があなた様のことを話してくださりまして……」
「殿下が?」
はい、と勢いよく答える衛兵の話には少しばかり引っ掛かりを覚えた。
確か、ラキアはフィーネが力を使うことをあまり快くは思っていなかったはずだ。それなのに、あっさりフィーネの力に頼ろうとしてしまうなんて、彼らしくない。それに、彼なら使いを寄越すことなく本人が直接フィーネのところに飛んで来そうな気もする。それなのに、本人ではなく使者を寄越したことがどうにも腑に落ちなかった。
もしかすると、ラキアが応急処置をしないといけないくらいに患者達の怪我はひどいのだろうか。
だが、長い前髪で目元が見えづらいが真っ直ぐ自分に向けられたバハーンの澄んだ目を見るだに、嘘をついているようにも思えない。
だからこそ、今はとりあえず現場に行ってみた方が良さそうだとフィーネは考えた。だが、一人で行くわけにはいかない。
それに、午睡の時間になってから薫っている甘い香りが先ほどよりもずっと強くなっている。やはり嗅ぎ覚えのある薬草臭だが何であったか。
疑問に思いながらもフィーネは頷いた。
「わかりました。勝手に部屋から出ないようにと仰せつかっているのですが、ラキア様からの……いえ、スヴァロン殿下からの依頼であれば仕方ありませんね。ヒレナに伝えてきますので少しだけお待ちいただいてもよろしいですか?」
「恐れながら、事は一刻を争います。わたくしからお伝えしておきますのでファーシャ様は先にこちらのペフカとともに三番倉庫へお急ぎください」
「ペフカ・ドゥーパと申します」
体格の良い衛兵が一礼した。
何故だろうか、フィーネは再び違和感を覚えた。隣の部屋にいるヒレナに声をかけることくらいさほど時間はかからないはずだが、それすらさせないとなると少し怪しい気がした。
「そういえば、レムリス殿や他の衛兵の皆さんはどちらに……」
「皆様は急ぎ三番倉庫に向かわれました。ファーシャ様、申し訳ございませんが、扉を開けていただけませんか?」
「あの、バハーン殿、やはり少々お待ちいただけますか?」
フィーネはバハーンとドゥーパの顔をもう一度よく見て、先ほどからずっと気になっていた違和感の正体にようやく気づいた。
長い前髪で気づかなかったが、バハーンもドゥーパも目が異様に黒いのだ。いや、黒いのは瞳孔が開いているからだ。そして、先ほどから香るこの甘い匂い。
「まさか――」
なぜもっと早く気がつくことができなかったのだろうか。気づいた時には遅かった。
吐き気を伴う急激な眠気に襲われ、フィーネはその場に崩れ落ちた。
先ほどから薫ってくる甘い匂いはムームィという薬草を燻した煙のものだ。ムームィは猛烈な睡眠薬だ。
二度だけ、師匠が嗅がせてくれたことがあるので匂いを知っていたが、サクラや、藤袴の香によく似た香りがするのだ。
火にくべて煙を吸わせるか、葉を直接、もしくは煎じ液を経口摂取させることでどんな屈強な大男ですらあっという間に眠らせてしまう恐ろしいほどの催眠作用がある。
あまりにも効果が高すぎるために、薬草園でも特別に管理を要する場所で育てられる危険植物とされている。そのため入手難易度が高いはずなのだ。
それに対して、ブームームィという覚醒作用の薬草があり、ムームィの効果を打ち消すことができる。ブームームィを使用すると副作用で散瞳が起こる。つまり、バハーンの瞳孔が開いているという事実が意味することは――。
扉の鍵ががちゃがちゃと音を立て始めた。フィーネはくらくらと世界が回るようで立ち上がれず、床に這いつくばって鍵が開くのを待つしかなかった。
なんということだろう。皆が午睡をしていると思ったが違うのだ。しかも、相手は鍵を容易く開ける技術を持っている。
間もなく、扉が開いて二人の衛兵が部屋に入ってきた。
入口の床には、見覚えのない香炉が置かれていた。細く立ち上る煙から、甘い花のような匂いが漂っている。傍らにはディムや衛兵が転がっていた。
「……っ、香炉に、ムームィを混ぜたの……ですか? ディム殿は、皆は……どうした……のですか」
「安心してください。他の方々は午睡なさっているだけですよ。わたしはあくまでも、あなたをお連れするようにしか仰せつかっておりませんから」
一呼吸置いて彼は付け加えた。
「まあ、この緑水宮の皆様には良い夢を見ていただきたかったので各部屋に香炉を置かせていただきましたがね」
この眠気に対抗するにはどうすればよいか、と床に手を突き、どうにか半身を起こしたフィーネは朦朧とした意識の中で考えた。考え抜いた末に痛みで無理やり意識を繋ぎ止めようとした。
すぐさま震える手で髪から簪を抜き取ると、自らの太腿に向けて刺そうと振り下ろした。しかし、バハーンの蹴りに弾かれ、簪は彼方に吹き飛ばされてしまった。さらに顎を蹴られ、仰向けに倒された。バハーンはフィーネの腹の上に跨がると、歪な笑みを浮かべた。彼の体重で内臓がせり上がるような吐き気で涙が出てきた。
「いけませんね。簪で刺した痛みくらいでこの眠気に抗えるはずがないことはご存じでしょう。さて、追加のお薬です。これも吸ってください」
バハーンは手袋をした手で小瓶の蓋を開けると布に薬を染み込ませた。こぽこぽと嫌な音がして結構な量が白い布に吸い込まれてゆく。
フィーネは彼を退かせようと足に力を込めたがびくともせず、薬を含んだ布で口と鼻を押さえつけられた。息を止めて吸わないようにしたが、すぐに口元や手足の指先が痺れてきた。唇が勝手に開いてびりびりとした痛みを伴う苦い味が口腔内に入り込んできた。
「息を止めても無駄ですよ。この薬は皮膚からも吸収されますからね。さあ、諦めて肺の奥までたっぷり吸い込んでください。特別に神殺しの毒も混ぜ込んでありますから、霧の女神の守りも効きません。よく効くはずです」
バハーンのあどけない顔が魔物のように歪んだかと思えば、彼はフィーネの顎を骨に沿って端から端まで指で軽くなぞった。さらに彼は、浅い呼吸となったか細い首元へ手を伸ばした。
「そうそう、念のため、これは外しておきましょう」
そう言うと、フィーネの首から夜明真珠の連珠の御守りを外した。
頭の奥がぼんやりとして手足だけでなく全身の感覚が失せてきた。それに、呼吸も苦しい。
フィーネの身体から力が抜けてぐったりとしたのを確かめると白い歯を剥き出しにしてバハーンはほくそ笑んだ。
「そろそろ出来上がりかな。さあ、一緒にお越しくださいね。陛下がお待ちです」
バハーンの指示を受けてドゥーパと名乗った衛兵がフィーネを麻袋に詰めた。
――まずい。
と思った瞬間を最後にフィーネは意識を闇に手放した。
さて、なんだか大変なことになりましたが、フィーネはどうなってしまうのでしょうか。
続きをお楽しみに。




