六章 赤い闇 (4) 小夜嵐
吹き荒ぶ風が戸をがたがたと鳴らす。
セイファンや刑務官や大臣などを残して地下牢から出てきたアウィルドは、軒下で大粒の雨を降らせる空を見上げた。
ひどい雨だ。地下室は少し涼しかったが、地上の空気は熱と湿気を含んでいてとても重く身体にまとわりついてくる。風も強くて木々の枝が折れてしまいそうなほど激しくしなって、ごおごおと大きな音を立てていた。
先ほどまで彼は、セイファンやダウレス大臣、尋問官などと共にフィーネを狙った刺客の取り調べを行っていた。
刺客の目的は、アウィルドが推測していた通り、片翼候補である彼女の抹殺だった。
アウィルドは、誰の命令か、と静かにネラワリエ語で問い掛けた。だが、刺客は口をつぐみ、答えようとしなかった。それでも、アウィルドは、刺客に向けて柔らかい笑みを向けたまま、彼の頬に浮かぶ、とある紋様を見つめながらおおよその見当をつけていた。
見た目には三十路ほどの、ごく平凡そうな男だった。だが、その頬には涙を流す赤い目玉と蔦の模様が絡み合った紋様がまるで皮膚の内側から滲み出したように頬に浮かんでいた。
一目見るだけで禍々しい雰囲気が強く、その紋様を見た瞬間、アウィルドの背筋を冷たいものが走った。
この紋様は、一般の人間には見ることが出来ないが、風の女神の魂を持つアウィルドにははっきりと見ることが出来た。これは、西の魔の王と風の女神の因縁にかかわるもので、長年、アウィルドが悩まされてきた問題の一端でもあった。
だから、紋様を認識できないセイファンや他の者には、この男が単なるネラワリエ王国からの刺客であるというところまでしか知る由もなかった。
刺客は元々、ネラワリエ王国で貧しい漁師の八男として生まれたという。重税や長年にわたる不漁から、日々の暮らしは辛くひもじいもので、彼は漁の合間に銛や石などで投擲術を鍛えて、地方の島を守る兵士になった。だが、数年前の野分による津波のような凄まじい高潮と、暴風雨によって沿岸の集落が一晩でほぼ壊滅するという災禍に見舞われた。彼は妻も娘も、親族すべてを喪い、天涯孤独の身となった。
彼は世を呪い、神を呪い、風を呪った。奉賛会に出会ったのは絶望の底で腐った泥に沈みかけていたその時だったという。
彼の顔の紋様は、『真聖神奉賛会』という、西の魔の王を、真の天の主神と崇める団体の教えに染まった者の顔に現れる、西の魔の王への忠誠を誓った証だった。
彼らの教義はウルガ王国で一般的に信仰されている天の主神を崇めるレーア教や、カナーヤやネラワリエで信仰される天帝や天の最高神を完全否定することにある。
ウルガ王国においてのかの団体の教えは、天の主神は偽りの主神であり、真なる主上は、今は西の魔の王と蔑称で呼ばれる貴き神である、とされている。カナーヤやネラワリエにおいても、同様に最高神を否定するもので、奉賛会はそのような教義を信じる者たちで国や人種を越えて構成されていた。
彼らは西の魔の王を『真聖神』と呼ぶ。
そして、奉賛会の教えによれば、風の女神は元々、この真聖神が自身の妻として鈴晶石の浄化箱を用いて作ったが、のちにとある人間の男に騙され堕神となった。さらに、その男のせいで真聖神は西の山に封印され、肉体を失い、魂のみの存在となってしまった。
ゆえに、瀆神者たる人間の男の転生者である片翼を滅し、風の女神の魂を持つ翼王を救い、誰も不幸にならない幸福に満ちた永久の楽園を築くことが彼らの目的である。
もちろん、風の女神が西の魔の王の妻である、という部分は事実ではなく、当の風の女神の転生者であるアウィルドにとっては甚だ迷惑極まりない話であった。
アウィルドは古い知己である元信者から聞かされたのだが、奉賛会には、教義に賛同するだけの賛助者と、聖水を授かって西の魔の王の眷属となった信者がいるらしい。主な活動は信者が行い、賛助者は資金面や設備面で奉賛会を支えている。
また、信者は、西の魔の王を神と崇め、神から与えられる聖水を口にする。そうすると、彼らは人でありながらも、西の魔の王の眷属となる。その証が両頬に浮かぶ邪悪な紋様だ。そして、聖水の貴き力によって生まれつき魔力の素養を持たなくとも、人知を超えた特別な力を扱うことが出来るようになるという。
また、信者達は定期的に西の魔の王に自らの信仰心を示し、聖水を口にする必要がある。そうしなければ紋が消えて聖水によって得た力を使うことができなくなるという。
この男の能力は天候を予測するものだという。
アウィルドはその能力を知り、顔には出さなかったが少しだけ安堵した。
アウィルドをはじめ、代々の翼王の魂の起源と言われる風の女神は、天の主神が西の魔の王を『滅する』ために創った神だ。ゆえに、西の魔の王に身体を乗っ取られた者や、その信奉者を見抜く目を持っている。
西の魔の王の器になった人間には、瞳全体と舌と掌に西の魔の王が用いる魔法陣が見える。奉賛会の関係者の頬には紋様が浮かぶ。
それらを視認することが出来るのは、この世界で風の女神の転生者である翼王と、西の魔の王本人と、奉賛会の聖水を定期的に摂取している者だけなのだ。
そのため、平時に見つけても、アウィルドにしか見えない『印』を理由に信者を糾弾することも捕縛することもできないことが悩みだった。
王都の雑踏を歩いてみても、思いのほか奉賛会の紋様を頬に宿している者が紛れ込んでいる。だが、アウィルドは奉賛会の信者に対してこちらから積極的に何かしらの動きをすることはなかった。
まず、人がなにを信じるのか、そこは自由だ。たとえ、こちらから見て間違っているように見えたとしても、その信仰は本人にとっての心の支えだ。だが、信仰を理由に悪事を働いたり他者に危害を与えようとする者は別だ。そのような輩は、証拠が掴めない以上、別件でもいいから早急に拘束できるだけの証拠を探す必要がある。特にすでに害ある者となった人物に対しては容赦なく対応しなければならないのだ。
この扱いは甘いと苦言を呈されるかもしれない。だが、信仰だけを理由に人を捕らえるわけにはいかない。もし、それを実行してしまうのならば、王である自分が何を信じるかまで人に強いることになるからだ。
それに、奉賛会の人数の多さや、社会的地位が高い者が幹部となっていたりすることを考慮すると、迂闊に動くことが出来ないのも事実であった。
それからアウィルドは三番倉庫に足を運び、ヘーシャが襲撃された時に彼女が押していた洗濯物回収車の確認に向かった。
この車は犯人が見つかるまで証拠として保管することになっている。これを確認するのは事件直後と現場検証時と、今回で三度目になる。何度見ても、木製の車は血がこびりついていたり、粉々の破片となっていたりするなど、ほぼ大破に近い状態だった。すでに飛び散った血は乾いて黒くなっていたが、アウィルドは、襲撃の凄惨さと、生身で切り裂かれたヘーシャの苦しみと、その痛みの全てを引き受けて治癒させたフィーネの苦しみを考えずにはいられず、激しい後悔に身体を支配された。
そして、断面が刃物で切った時よりもささくれており、あまり綺麗とは言えなかった。鋸なら滑らかに、斧なら途中で何度も刃を入れた跡があるが、これは木材の繊維を切るでも裁つでもなく、一息で乱暴に切り刻んでいた。ヘーシャの胴体が繋がっていたことが奇跡と思えるほど激しい刃だったはずだ。
アウィルドには、この傷がどのように出来たものか嫌と言うほど見覚えがあった。
これは、アウィルドの身に宿る風の聖霊による風の刃による傷に酷似していた。
まさか、とは思うのだが、ヘーシャやフィーネが語った事件当時の状況や、過去にアウィルド自身が見たサクィーエ・アルファスが肌身離さず身につけていた首飾りの宝玉を思い返すと、黒外套の人物が手にしていたという杖の飾りの宝玉は、アウィルドがずっと探し続けていた風玉輪ではないかという疑念を抱いたのだった。
風玉輪はサクィーエが持っていたが、十五年前に何者かに奪われ、それ以来行方がわからなくなっているというのが王宮と神殿の認識だ。しかし、アウィルドはその真犯人を知っていた。
即位の儀の一環で星見の間に籠もった際に天の主神が見せてくれた真実はあまりに惨く、口に出来るようなものではなかった。同時に、彼女が受けた仕打ちの一部始終を見せた天の主神の悪趣味さには激しい怒りを覚えた。
あの時感じた腹立たしさと無力感が蘇り、息苦しさを覚えたが、アウィルドは目の前の車の残骸を注視することで今対処すべき問題へと思考を戻した。
ヘーシャ・ブムが黒外套の人物に襲われた時の傷は上半身に集中していた。推測だが、鳩尾から下は車の陰になっており、風の刃から守られたのだろう。
車に積まれていた服は、ヘーシャの血を浴びていたり、ずたずたに切り刻まれており、元が誰の服だったのか判別できなくなっているものもあった。
白鴎宮では洗濯物を下女に渡す時に前もって記入した申込書を一緒に渡す決まりになっている。依頼者は名前と依頼する品名を提出用と控え用の二カ所に記入し、中央に自らの印を押す。
アウィルドも常に首に提げて携行しているが、通行証として用いられる指輪は、身分証の役割の他に、飾り石の土台を開くと印鑑になっているのだ。下女が実際に引き受けた品と申込み書の内容を確認して、引き受けた品名の欄に受領印を押す。そして、竹製の紙切小刀で中央で切り、控えを依頼者に渡して手続き完了となる。
だから、洗濯物の依頼者、種類、数は常に記録に残っているのだ。
特に衛兵の制服は、紛失や盗難による防衛上の脅威になり得るため、厳重に数の一致が重要視されていた。
そして、ヘーシャが運んでいた台車の洗濯物は不可解なことに五着足りなかった。もちろん、ばらばらに千切れている可能性もあるため、欠片をつなぎ合わせて確認したが、記録と合わない。
ヘーシャは仕事に誇りを持つのみならず、実際に有能な女性だ。いくら彼女が急いでいたとしても、書き間違いをするとは考えにくかった。
十代前半の少年が着る見習い衛兵用が一着。中肉中背の男物が三着、丈も横幅も広い大柄な男物が一着。上下ともに見当たらない。
アウィルドは、五着の制服は、何者かに意図的に持ち去られた可能性が高いと睨んでいた。これは由々しき問題である。
アウィルドは該当する衛兵を呼び出し、話を聞いたうえで一人ずつ顔を確認した。しかし、彼らの中に奉賛会の紋様を持つ者はいなかった。
ただ、消えた五着の衛兵用の服については嫌な予感がした。ヘーシャのすぐ前にあの渡り廊下を通ったはずのヌナーシャという下女は主に寝具の洗濯物を運んでいたという。そして、彼女の台車には衛兵の制服は載っていなかった。
つまり、あの時間帯に渡り廊下を通った洗濯物回収車のうち、衛兵の制服を載せていたのはヘーシャの台車だけだったことになる。
もし、黒外套が、衛兵の制服を載せた台車を押してくる下女を待ち伏せしていたのだとしたら――。
そして、目的がヘーシャではなく、その積み荷だったのだとしたら。
アウィルドは渡り廊下を歩きながら、地面を穿つように激しく降る雨を暗い目で見つめた。
――衛兵の制服を何に使うつもりだ?
誰にも話したことはないが、嵐の時は鳥による監視網が極端に弱体化する。激しい雨は視界を遮り、強い風が吹くため、見張りよりも鳥達の安全が優先されるからだ。しかも、嵐と夜が重なるのは最悪な条件だ。
夜の海のような瞳に険しい光が宿った。
いつもなら回廊の屋根に止まっている鳥の姿が、今夜は一羽も見えなかった。
今までの経験上、こういう晩は外部から刺客が入り込んでくる。人間のみならず、死魔をはじめとした魔物も涼しい顔をしてやってくるのだ。彼らは気配もなく門や塀を越えてくる。
普段であれば鳥の警告ですぐに気づける異変も見落としがちになってしまうのだ。
――それに、とアウィルドは瞼裏に禍々しい幾何学模様を思い描いた。直線や鋭角な多角形を組み合わせた闇の中でも黒く輝く魔法陣を用いて世界を滅ぼそうとする存在――。
特に厄介なのが西の魔の王だ。
あれは鳥の目を欺く魔術を使えるため、アウィルドにとっては天敵に等しかった。さらに、王宮に張られた結界も、人による警備網も易々と突破されてしまうため、過去に幾度となく王宮に侵入を許してしまった。その度に撃退してきたが、しつこいことに年に二、三度ほど鉢合わせになるのだ。
西の魔の王は、かつて初代翼王と初代片翼が命懸けでウルガ西部の『西の山』に封じた魔の神だ。そして、二千年以上経った現在もなお、この世界を滅ぼすことを目的に動いている。
本体は鍵の神の力を借りて二度と解放できないほど厳重に封印されているが、その魂は水を介して『器』を求めて人の世を渡り歩いており、多くの人々はその存在をとても恐れていた。
困ったことに、『器』となる人間は、生者に限らない。死後に遺された肉体でも良いのだ。
だから、ウルガでは死者は基本的に火葬で弔われる。大切な故人を西の魔の王に奪われないようにするためだ。
アウィルドは唇を噛み締めた。
サクィーエが幼い日のアウィルドの首を絞めたことも。
アウィルドの母が自害するきっかけを作ったのも。
最愛の妻を喪った先王が長年描いては消していた恐ろしい計画を実行に移すきっかけを間接的に作ったのも。
すべて西の魔の王が関わっている。
だからこそ、今回のヘーシャ襲撃事件も、フィーネを狙った奉賛会の刺客も、無関係とは思えない。
その裏にいるのは、あの魔の神ではないのか。
表向きにはネラワリエ王国が放った刺客のように見える。
先ほどまでの取り調べの場面を思い出すと、アウィルドはため息をついた。
なかなか情報を吐かない刺客に対してセイファンは自白剤を使用した上で拷問にかけるか検討し始めた。アウィルドは普段でもなかなかやらない明るい笑みを刺客に向けて茶菓子を勧めた。ネラワリエでも好まれるバナナを混ぜ込んだ小麦の焼き菓子を前に初めは警戒心と敵対心を剥き出しにしていた刺客も、アウィルドがあれこれ話すくだらない冗談に少し気が緩んだようで、自分の生い立ちを話してくれたのだった。
その上で、刺客は命令者についてこう答えた。
『おれはネラワリエ王国国王の命令により、片翼候補を殺すように命じられた』
その証言の真偽は不明だが、両国間の亀裂を深めるには充分な一言だった。だが、刺客が売ってきた喧嘩をお安く買うつもりはなかった。
アウィルドも菓子をつまみながら軽い冗談のように奉賛会の話題を振った。常に持ち歩いている巾着の中から奉賛会の者が持つ西の魔の王の御影が刻まれた徽章を見せびらかして、かの神について、わざと下品な悪口まで混ぜ込んでべらべらと言ってみせると、初めはおとなしかった刺客も最後には激昂して、命令者は奉賛会のサヌクァプ・エントリハルク――フプトゥク大神殿の神殿長であるとつい勢いで口にしてしまった。
まったくもって可愛げがあり、刺客や間者に向かない男に対してアウィルドはにこにこと笑みを浮かべたまま礼を言った。対してうっかり感情任せに口を滑らせた刺客は顔色を青ざめさせて怯えるような目でアウィルドを見上げたのだった。
アウィルドは腰の巾着から銀色の指輪を取り出すと強く握り締めた。
雪を模した金剛石の指輪。
普段は自室の隠し棚の中に仕舞ってある文箱に大切に保管しているが、今は縋るような気持ちで胸に押し当てた。
これはアウィルドにとって、大切な御守りだった。
王太子としてこの先の決意をこの指輪の元の持ち主に誓った晩も。
父の暴政を諫めようと決意した時も。
流刑地で再び誰かのために剣を取るという決意をした時も。
いつだってこの指輪は銀の輝きを失わず、アウィルドの心が粉々に壊れそうになった時でもずっと繋ぎ止めてくれた唯一の光だった。
銀の六花は、七年前の星降る晩に幼かった彼女が願いを込めてくれた通り、常にそばで守り続けてくれた。
だからこそ、アウィルドは――。
もう一緒に星を見るという約束は叶わないだろう。
彼女は約束を違えようとしている自分を助けたいと言ってくれた。だが、こちらだって負けず劣らず助けたいと思う気持ちを強く抱いているのだ。そして、彼女だけではない。弟妹も、友人も、側近も、王宮で働く者も王都やその外で暮らす人々も。
絶対に死なせない。たとえどんなに罵られようとも、失望されようとも、自分勝手だと言われようとも、この命ある限り、たとえ捨ててでも守らなければならないのだ。
嫌な雨だ。どうか、この嵐が去った後は平穏な朝が来てほしい。
それがただの願望に過ぎず、叶わぬ泡沫だとしても。
それを実現するのが王としての己に課せられた使命なのだ。
雨に濡れて黒と赤が入り混じる髪の間から覗く黒い瞳には、強い光が宿っていた。




