六章 赤い闇 (4) 偽りの演技と王の署名
フィーネは沐浴を終えると、清泉舎の相思鳥の間で髪を乾かすためにヒレナに扇であおがれていた。肩には絹の布を当てて髪に染みた水を吸い取っているが、背中に流れた黒髪の先から、まだ細い雫が落ちていた。普段であれば、傍らで香を焚きしめて匂いで髪を飾るのだが、今は香炉の中には何も入っていなかった。
寸刻前の話になるが、フィーネは、いつものように蓮の香を準備していたルラに、これからは別の香にしてほしいと頼み込んだ。
『それなら、月来香になさいますか? ファーシャ様の枕元にも月花酒がございますし――』
先ほどラキアに揶揄われたことがとても堪えたため、蓮と月来香はもう使いたくない、と伝えると、彼女は労りの気持ちに満ちた優しい眼差しを向けた。
顔を隠す布越しではあるが、ルラはフィーネが涙で鼻を詰まらせていたことに気づいたのか、そっと歩み寄ると、手巾を差し出した。
『畏まりました。それでは、ファーシャ様? お好きな香りはございますか?』
『この年になって恥ずかしいこととは思うけど、私は仕事柄邪魔になるから自分では香は纏ってこなかったので……自分に何が似合うのかよくわからないのです。香自体の知識や香りの印象は知っていますが、王宮での作法や暗黙の規則みたいなこともあまり詳しくないから、よくわからない、としか……』
俯くフィーネの両手を彼女はぎゅっと握った。
『それでしたらちょうど良かったです! わたくしは、ファーシャ様には蓮か月来香の香りがお似合いかと思っておりましたが、じつは他にも色々とお勧めしてみたい香があったのです! ファーシャ様、それでしたら、わたくしと色々な香りを試してみませんか? 似合う似合わないとか、お作法なんて特別な行事でもなければ気にしなくて平気でございます。ですから、これから毎日、色々な香を試してファーシャ様のお気に召す香りを一緒に探して参りましょう』
穏やかな声で言うと、フィーネの頭をそっと撫でてくれたのだった。
『では、ファーシャ様が今一番嗅いでみたい、もしくは身につけてみたい香りはございますか?』
彼女の気遣いに感謝し、フィーネは涙が出かけたが、目をきつく閉じて上を向いて堪えた。代わりに鼻水が出そうになったのでそちらはすすった。
『……ルラ殿、ありがとう。それなら、白檀をお願いしてもいいですか?』
『もちろんでございます。白檀は頭がすっきりしますし、心も落ち着かせてくださいます。良い香りだと思いますよ。それでは、準備して参りますので今しばらくお待ちくださいませ!』
ルラは柔らかな笑みを浮かべて目配せすると、相思鳥の間を出て行った。
それからしばらくして、円卓に置いた化粧箱の鏡を覗きながら頬杖をついて一度ため息をついたかと思うと、すぐにまたため息を漏らした。
「ファーシャ様、また殿下になにか言われたのですね」
「……ヒレナ」
顔を上げるとヒレナが扇を円卓に置いて近づいてきた。彼女は一言詫びてフィーネの顔を隠す布をめくり、眉を顰めた。
「目が腫れておりますね。……殿下と何かございましたか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……。陛下ったら一緒に沐浴してくれる女性を探すんだって。沐浴ってことは相手の人に裸を見られるんだよ?」
「……まあ、そうなりますね」
言葉を濁すように答えたヒレナをよそにフィーネはアウィルドの現在を頭の中に思い浮かべた。ぐへへと気色悪く笑いながら浴槽になみなみと張られた水の中で美女を侍らせて抱き寄せたり、浴槽の脇の長椅子で膝枕して耳掃除してもらっていたりする姿を思い浮かべると、鳩尾のあたりから脳天にかけて一気に怒りが突き抜けていった。
「違う……今わかった。見たいんだ。きっと今頃、綺麗な女の人の胸や脚を見て鼻の下でも伸ばしてるんだ。気持ち悪いどころの話じゃないじゃない! なんだか考えれば考えるほど無性に腹が立ってきた!」
「落ち着いてください! それ以上妙な想像力を働かせないで」
「――それで手をつないだり、いちゃついたり色々あれなことを……ってやっぱり腹が立つ! さっき締め殺そうとしてきた意味もわからないし、もう陛下なんて大っ嫌い!」
「え!? 締め……ってファーシャさま!? 何ですかそれ、聞いてませんよ!? もしやあの男に何かされたのですか!?」
「何もされてないよ。でも、もう最っ低! 陛下の馬鹿! 筋肉お化け! 絞め殺しの木! 変態! 女の敵!」
「……あの、恐れながらファーシャ様。ファーシャ様はスヴァロン殿下が国王陛下であると考えておられるのですか?」
「ええ。もちろん……ってルラ殿!? いつからそこに!? 今の話を聞いていた!?」
「はい。一緒に沐浴というくだりからばっちりと。白檀のお香をお持ちしましたのですが、いかがでしょうか?」
まさかそこから聞かれていたとは思わず、恥ずかしさのあまり顔が熱くなって俯いた。
フィーネがお願いすると、ルラは手早く香炉に白檀の香をくべてくれた。甘くも澄んだ、落ち着いた香りが立ち上り、すぐに室内は上品な雰囲気で包まれた。
「それで、ファーシャ様はどのようにお考えなのですか?」
先ほどの慈愛と気遣いはどこかに飛び去っていったようで、ルラは普段通りの好奇心に満ち満ちた目を輝かせて尋ねてきた。
「……ええと、スヴァロン殿下がアウィルドリーシャ陛下ご本人であることは間違いないと思います。けれど、本人を目の前に名前をお呼びしてはならないとレリファ=シシカ様に釘を刺されているのです」
「そうなのですね。ところで、あの方が、本当にそのようなふしだらなことを仰ったのですか?」
「ええ。……ってルラ殿、どうしたの? ちょっと近くない?」
いつの間にか彼女の顔が目の前に迫っていた。眉の毛穴がよく見えるほど近いが、彼女の肌はきめが細かく整っていた。
「ファーシャ様は誤解なさっています! あの方がいくら今はスヴァロン殿下だからって、そのような破廉恥なことを口にはなさっても、実際になさるような方ではありません! と申しますか、たいへん失礼ながら、あの方にそのような度胸がおありとは思えません! 女漁りや特定不特定問わず、女性と一緒に水浴びなんて一度たりともしていませんし、むしろ、侍女はもちろん、男の侍従でさえあの方の着替えはおろか、沐浴のお世話を共にすることはないのですよ! ですから、どうかあの方のことをふしだらだなんて誤解なさらないでください! 一応、規則により殿下とお呼びしなければならないため殿下で通させていただきますが、殿下はファーシャ様のことが大好きなはずです! ですから、ファーシャ様にそんな風に思われていたら殿下がお可哀想です!」
「ごめんなさい、ルラ殿。なにかちょっとおかしな話になってるような気が……」
「あ、申し訳ございません! 出過ぎた発言をお許し下さい」
「謝らないで、大丈夫だよ。でも、殿下は私のことなんて嫌っているはずです」
「そんなはずありません! 以前からわたくしたち侍従職の者や家臣一同の間で囁かれていた噂で、殿下には想い人がいて、その方との文の遣り取りをとても大切になさっているという話があったのです。よほど秘密にしておきたいのか、従者に任せず鳥を使って遣り取りするほどの徹底ぶりで、相当気を遣っておいでなのだと。文の内容は存じませんが、とにかく嬉しそうで、鍵付きの螺鈿の文箱に保管なさって本棚の上から三段目の左奥の隠し扉に潜ませていたそうです。誰が最初に見つけたのかはわたくしにもわかりませんが、今となっては侍従職のほぼ皆が知っている公然の秘密でございます。そして、殿下のファーシャ様への接し方を見て、わたくしども一同、ぴんと来ました。殿下の文のお相手はファーシャ様だったのではございませんか?」
「ルラ殿はそんな出鱈目な噂をいったいどこで聞いたの!?」
ルラが早口かつ長文で淀みなく話すため、途中から聞き取れるが意味を理解できなくなっていたフィーネはどん引きした。
「皆が申しているところでございますよ。あの、女人に対する無気力さで心配される殿下が、何故だかあなた様に対してだけは驚くほど積極的に行動なさっている。これは天地がひっくり返る前兆かもしれません」
「無気力って……いったい普段はどんな方なんですか」
彼女はフィーネから離れると、「そうですね……」と言って左上に視線を向けた。
「普段のあの方はとても気さくな方ではありますが、政務に身をやつすばかりで縁談話が上がっても困ったような微妙な笑みを浮かべてやんわりと断ってしまわれるのです。一度くらいお会いなさればよいものを、会うことすらせずの始末で……。皆、あの御方を心配しているのです。良い年なのにいまだにお妃を迎えられないばかりか、縁談をことごとく拒否なさってしまわれ、色恋沙汰の浮いた話もなく、ある一部の者たちからは、殿下は男色を好まれるのではないかとか、人に対して愛情を抱けず鳥がお好きなのではないか、などという噂すら立てられてしまう始末でございました。ところが、昨年の双子座の星祭りの少し前あたりの時期に、あの方が八区のエゼリアという簪屋に入っていくのを見た者がいたのです。エゼリアというのは、この国一番の腕を持つ簪職人が営むこの国一番のお店でございます。そこから包みを持って出てきた陛下は、とても愛おしげにそれを眺めておられたご様子だったそうです。おそらく、想い人への贈り物だったのでしょう!」
ふいにフィーネの脳裏にヒレナに預けている白金の簪の輝きがよぎった。
アウィルドらしからぬ贈り物だとは思っていたが、もしそれが仮にルラの知り合いが見た物と同一の物だったとしたら、と嫌な予感がした。
彼女の話通りなら、あの五弁花と月長石の繊細で美しい簪は、国一番の工房の国一番の職人に依頼した品であるということになる。本当にどうしてしまったのかいよいよ本気で心配になってきた。あの贅沢嫌いの倹約家の彼が、一個人への贈り物に国一番の職人の品を求めるなど、到底考えられなかった。
「ファーシャ様? 率直にお尋ねしますが、殿下から簪を受け取ってはおられませんか? そういえば、先日セイファン様がファーシャ様のご実家から取り寄せた簪が――」
「ルラ殿、私は簪なんて……」
「おや、お嬢さん方、仲良く何の話を?」
「ぎゃ、殿下!?」
突如として現れたラキアに、一同は驚きの声を上げた。
特にフィーネは、自分でも信じられないほど白鼻芯そっくりな『ぎゃ』が口から出たことに戸惑った。
「おのれ貴様、何しに来た?」
「ヒレナ殿、怖い顔するなよ。ファーシャ殿を迎えに来ただけだ」
彼は着替えを済ませており、髪も乾いていたが、相変わらず暑苦しい紺色の外套姿で現れた。一体何着外套を持っているのだろうか。
「出て行って! さっきから急に態度が変ですよ! いったい何なんですか!」
洗い立ての髪を見られた恥ずかしさから、フィーネは髪を手で隠し、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「いや、揶揄い甲斐があって面白いことに気づいただけだぜ? ファーシャ殿はすぐ顔が赤くなるから可愛いからなぁ……」
「何ですって……」
「……というのは冗談で、すまないが、三人ともよく聞いてほしい。先ほどファーシャ殿が何者かに狙われた」
「え!?」
話題の振れ幅の大きさに一体何の話をしているのかわからず、フィーネはラキアの顔をまじまじと見つめた。
彼は棘のような形の刃物を三本見せてきた。フィーネの手のひらほどの長さで、鋭く尖った先端が銀色に輝いている。
「これはピアオという飛道具だ。ネラワリエ王国でよく用いられる暗器で、音もなく飛ぶから近づいてきたことに気づきにくい。普通は即効性の毒を塗って使うんだが……」
「見えづらいですが確かに何らかの毒が塗られておりますね。ですが殿下、これはファーシャ様ではなくあなたを狙ったわけでは?」
ヒレナの問いに彼は首を横に振った。
「おそらく違うと思う。これを叩き落としておれが盾になったら向こうはさっさと武器を収めて退いた。そしてこれらは三発ともファーシャ殿の頭を目掛けて飛んできた」
フィーネは先ほど彼にいきなり抱き寄せられたことを思い出した。
「まさか、あの時、殿下は私を助けて下さったのですか? それならそうと言ってくだされば――」
「んあ? いやぁ、スヴァロン・ラウルガル・タイトとして不自然なく助けるには、やっぱり口説き文句のひとつくらい言って抱き寄せたりしねえとなぁ」
「……そういう問題ですか」
ヒレナは棘のある声で威嚇した。
「生憎と、今の俺はスヴァロンだからな。……ファーシャ殿には、無理矢理かつ不快な思いをさせたな。すまなかった」
彼は深々と頭を下げた。まさか先ほどのあれやこれやは彼がスヴァロンとして振る舞いながらフィーネを守るための演技だったとは思いもよらなかった。だが、それとこれとは話が違う。
「……へえ、そうですか。あなたにはちゃんとした事情があったのですね。ええ、わかりましたとも」
フィーネは今すぐこの馬鹿変態王の後頭部を叩きたいという衝動に駆られた。今ならちょうどフィーネでも手が届く。先ほどの彼の言葉はフィーネの心に少なからず傷を付けたのだ。ちょっとした制裁くらい与えても罰は当たらないだろう、という誘惑がフィーネの中に浮かんだ。
だが、そんなことはしてはいけないのだと理性が押し留めた。こちらが傷つけられたからと言って、一応は謝っている相手を傷つけ返していいはずがないのだ。それではまた、同じように傷つけ合うことを繰り返すだけだ。腹立たしいが、ここは我慢が肝要だ。
だが、言っていいこととやっていいことというものがあるだろう、とはっきり言いたかった。
フィーネは苛立ちを抑えるために深呼吸した。ルラが白檀を焚いていてくれて良かった、と安堵した。
「頭を上げてください、殿下。今は先ほどの話をしている場合ではございません。つまり、何者かはわかりませんが、刺客はヘーシャ殿の次に私を狙っているということなのですか?」
ラキアは頭を上げると眉尻を下げたままフィーネを見つめた。足首まで丈のある長い外套を握り締めて口を引き結んだ。
「……連中は治癒の力を見てファーシャ殿が邪魔だと判断したようだ」
「邪魔って言われても困ります。賊の目的はいったい何なのでしょうか」
「そりゃ勿論、片翼候補の抹殺だ」
「やっぱりそうなりますか……」
口ではそう言えたが背筋に嫌な汗が伝う感覚がした。フィーネが偽片翼候補として王宮に入った意味がいよいよ目の前に迫ってきている。たとえ命を狙われたとしても、大人しく命を差し出すつもりはないが、どうしたらよいのだろうか。
ラキアはフィーネ、ヒレナ、ルラの順に視線を合わせると、静かに言った。
「すまないが、ファーシャ殿の髪が乾いたら三人で一緒に緑水宮まで戻ってくれ。ディムに護衛させる。部屋についたら、ファーシャ殿は少なくとも今日明日のところはセイファンの許可なく部屋の外に出ないでほしい」
彼は一瞬だけ目を戸口の方に動かすと正面に視線を戻した。
「特にファーシャ殿。他の者から治癒の力で助けてほしいとか今すぐ来てほしいと言われても絶対に断って、その時は必ず誰かに頼んでセイファンに話を通してからにするんだ。沐浴については……清泉舎との往来はできるだけ控えてほしい。ファーシャ殿の部屋の続き部屋になっている鳩の間に備え付けの浴槽があるからそれを使ってくれ。水道を使えるようにしておくから」
すかさずルラが前に出るように声を出して尋ねた。
「お言葉を返すようでたいへん申し訳ございませんが殿下。本当にファーシャ様にあの部屋を使わせて大丈夫なのですか? 鳩の間は元々日常使いを想定されておりません。念のため、いつでも使用できるように手入れは怠っておりませんが、かなり狭いです。しかも設備も古いので水温の調節が難しいです。それに、寝室に湿気が流れてかなり蒸し暑くなってしまうおそれがございます。鷦鷯宮の一室をお借りすることはできませんか?」
「そうだな……。ドヌープ殿の言う通り、鷦鷯宮に空き部屋はなくはないが、湿気を差し引いても緑水宮の方が風通しが良くて明らかに涼しい。あそこは元々、避暑のために使われていた離宮の建物を参考に作られているんだ。それに比べて、鷦鷯宮は見た目ばかりの建物で、部屋も入り組んでいて、風通しが悪くてとにかく暑い。暑さ慣れしていないファーシャ殿をあんな所に置いたら煮えてしまう」
「蒸されるか煮られるか、二者択一ということですね。それは困りました」
ルラは真面目にため息をつくとラキアは笑った。
「ドヌープ殿。ファーシャ殿が過ごす場所としてあんたならどっちがいいと思う?」
「それはもちろん、鷦鷯宮だと思います。ファーシャ様の身の安全を考えれば、それ以外の選択はないかと考えます。ですが、やはりあそこは日当たりが良すぎる欠点があるとも思います」
ヒレナは首を傾げた。
「北向きのお部屋は空いていないのですか?」
「そっちは全部侍従達の部屋にしてるから空きはない」
「どうして陛下はいつもそうなんでしょうね! お人好しを通り越して真性の馬鹿なのではありませんか!?」
ヒレナの指摘にラキアはばつの悪そうな顔で視線を泳がせた。
「……侍従が煮えてしまったら困るだろう」
「まあ、あなたが良ければ構いませんが。では、東向きは?」
「セイファンがいる。あの魔窟とも混沌ともつかない部屋はそう易々と動かせない。西向きは論外だし残るは……」
「南向きでは暑いですね……」
三人の会話を聞いていてフィーネは気になった。
「あの、殿下や陛下のお部屋は北向きではないのですか?」
「おれたちの部屋は南向きだ。と言っても、鷦鷯宮は穴のあいた枡みたいな形になっていて、寝室自体は中庭のほうに向いているから実質北向きみたいなものだから幾分ましだが……緑水宮の方がずっといい」
フィーネは朝夕の食事の場である雀の間の、籠もるような熱気を思い返して納得した。
「そういえば、王宮内では所々で変わった風車が置いてありますよね。ここに来て初めて見ましたが、涼しくて良いですし、あれは使えないのですか?」
ラキアの代わりにルラが答えた。
「送風機ですね。まだ試作品ではありますが、ぜんまいばね、という西方の発明品を用いて自動で風を送るように出来ているんですよ。昨年の酷暑の折り、トーンナム・リドア殿という発明家が暑さで怒り狂って三日掛けて組み上げられた品で、今は王宮内で耐久性の実用試験をしている最中です」
「あれはカチカチやかましく鳴り続けるし途中で巻き直さないといけないから寝る時にはあまりむかないぞ」
「左様でございますね。ではやはり、殿下が勧められる通り、ファーシャ様は緑水宮で過ごされたほうが良いということですね」
「すまないが、ひとまずはそうしてもらえるとありがたい。ファーシャ殿、できる限り早く賊を探すから我慢してほしい」
ルラとラキアが和やかに話していたが、ヒレナは一歩前に出てラキアを睨みつけた。
「お待ちください。あなたのお話には不可解な点がいくつかあると思えてなりません。何故『今』なのです? もしかすると、馬鹿祭り最終日までの時間稼ぎにわざとファーシャ様を襲わせたふりをなさっているのではありませんか?」
その瞬間、彼の目が据わった。
「ヒレナ、なんてことを!」
「……本気で言ってるのか?」
ラキアはヒレナを見下ろした。ヒレナは女性としてとても背が高いが、それでも背丈はラキアの顎くらいだ。彼の威圧感は凄まじく、殺気すら感じるほどだ。
だが、ヒレナは臆することなく続けた。
「わたくしの務めは、ファーシャ様をお守りすることにございます。そのためならば、いくらあなた様であろうと、少しでも疑わしく思える事柄を易々と信じることは出来かねます」
「……おれが信用ならぬか」
「もちろんでございます。あなたが襲わせた証拠がないとは言い切れません」
「ヒレナ、いくらなんでも――」
「あなたはお黙りくださいませ」
「だけどヒレナ、そんなことするはず――」
ラキアは不機嫌を通り越して明らかに目に怒りが宿っていた。さらにヒレナを怒鳴りつけかけたのか、彼は一度唇を引き結んだ。だが、眉根を寄せるようにきつく目を閉じ、二、三度深く呼吸すると静かにヒレナを見据えた。
「……おれはあんたの主に対して危害を加える意思は全くない。約束しよう。だが、口で言っても証拠がないのも事実だ」
彼はフィーネに視線を向けると不機嫌な顔つきのまま口を開いた。
「ファーシャ殿、任命書を出せ」
「え? 何ですって?」
「任命書だ。まさか持ち歩いていないなどとは言うまいな」
「え、ですが……」
戸惑いつつも化粧箱の横に置いていた巾着袋の中から任命書の入った黒い筒を取り出した。ラキアは有無を言わさず、震えるフィーネの手からそれを強奪すると、机上に中身を広げた。帯に吊していた袋から矢立を取り出すと、墨と筆でさらさらと何か書き込んだ。
「これで文句はないな」
ラキアは任命書をヒレナに突きつけた。ヒレナは目を見開いたままぎこちない動きでそれを受け取った。
「……どういうおつもりですか」
「悪いが賭けなんてやめだ。くだらない意地を張ってファーシャ殿に死なれでもしたら、それこそ取り返しがつかない」
「ちょっ……と、ラキアさ……殿下? 一体どういうことですか」
何が起こっているのか理解が追いつかないフィーネにラキアは振り返ると、穏やかに微笑んだ。
「ファーシャ殿、セイファンとの賭けはおれの負けだ」
* * *
フィーネは自室で夕食を食べ終えると、居心地の悪さからか胃がしくしくと痛んだ。
あの後すぐ、ラキアは何も言わずに部屋を出ていった。彼に心変わりの理由を尋ねる間すらなかった。
ラキアが書き込んだのはスヴァロンでもラキアでもなく、国王アウィルドリーシャの署名であった。書の達人も喜びそうなほど美しい筆跡は今までやりとりしてきた手紙でも見慣れたものであり、間違いなく本物であった。
ヒレナから話を聞いたセイファンが緑水宮に飛んできたかと思えば、彼はフィーネの両手を握り締めて感謝の言葉を述べ、涙を流した。
だが、フィーネはなりゆきで賭けに勝ってしまったことに今ひとつ納得がいかなかった。ヒレナの問いに対して誠意で応じようとしたのかもしれないが、どうにもそれだけでは説明がつかない。
そして、何故かはわからないがはしゃいだ者がいた。ルラだ。
「ファーシャ様っ、どのような事情かは存じ上げませんが、とにかくおめでとうございます! やはり、殿下はファーシャ様のことを大切に思ってくださっているのですよ!」
事情を知らない彼女はセイファンとアウィルドの賭けについて深入りしてくることはなかったが、雰囲気でなにやら目出度いことだと気づいたようで、嬉しそうに箒を手にくるくると踊ったのだった。
「ファーシャ様、朗報でございます!」
ルラが駆け込んできた。
「昼間にファーシャ様を狙った賊が捕らえられたようです」
「もう!?」
「はいっ。あの後すぐ――嵐が来る前に、陛下が鳥で探って厩舎の藁置き場に潜んでいた男を捕らえたそうで、今は取り調べを受けているようです」
「そんな……」
こんな僅かな時間で広く建物も多い王宮の中から賊の居場所を特定するなんて、いくらなんでも仕事が早すぎる気がした。
「本当に良かったです。いつも思いますが、鳥達にはただただ感謝の念に堪えません。おかげで陛下の索敵能力は文字通り、『神懸かって』おりますからね。あとはヘーシャ殿を襲撃した犯人さえ見つかれば一安心でございますよ」
確かに、アウィルド自身は、刺客の存在を察知する勘も鋭かった。それに、鳥の助けを得て彼は遠くの出来事も近くの世間話も知ることができる。
無数に広がった鳥の監視網と、持ち前の勘に加え、空間把握能力にも優れ、推論を組み立てる能力も高いアウィルドなら、たとえ王宮のどこかに何の脈絡もなく置かれた印付きの豆粒を探し出すことも容易いのだろう。
けれども、フィーネは感嘆すると同時に、何故か形のない不安と寒気を抱いた。
アウィルドと鳥の協力をもってしても、ヘーシャを襲った犯人はいまだに見つかっていない。
また、仮に、アウィルドの索敵能力について、鳥の目の助けを必要とする部分が大きいのなら、天候の影響を受けたりすることはないのだろうか。
フィーネは窓の雨戸を強く叩く水音に耳を澄ませた。
例えば、先ほどから激しく降り始めたこの雨のように――。




