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六章 赤い闇 (3) 蓮の香は二度と使うものか!

 それから中庭を後にすると、フィーネはラキアに抱え上げられたまま渡り廊下を進んでいた。


「……いつまで持ってるつもりですか」

 フィーネの問いにラキアは答えず無言で歩き続けた。足取りはかなり早く、フィーネが五分程度かかる距離を半分以下の時間で進んでゆく。

「……無視ですか」

 彼はフィーネを完全に無視していた。

 何故こんなことになっているのだろうか、とフィーネは頭を抱えたくなった。しかし、ラキアに強く抱きかかえられているため腕の自由がきかなかったので代わりにため息をついた。

「ちょっと、ラキア様? 何か一言くらい答えてくださっても良いではありませんか!」

「……静かにしてくれ」

「静かにってそういう状況じゃないでしょう! 例の噂の件もですが、これではまた変な話になるのではありませんか?」

「……別に構わない。片翼とそれなりの仲だと思われてるなら余計な考えを持つ者もなりを潜めるだろうからそれはそれで都合が良い」

 さらりした返事にフィーネはどういう意味だ、と眉をひそめた。この状況はじつによろしくない。恋人でもない男女がこのようなくっつき方をするなど絶対に良くない。ましてや彼にこれ以上の妙な醜聞を増やすわけにはいかない。彼は第三王子のふりをした国王だ。将来的に名家から素晴らしい妃を迎える権利と義務がある。それなのに、どこの馬の骨ともわからぬ、仮にも性別が女である偽片翼候補など抱きかかえている姿など誰かに見られでもしたら、彼の後々の縁談に差し障りが生じるかもしれない。

 フィーネはどうにか下りるために彼の胸に右手を突いて全力で体を左に捻った。

「おい、動くな、落とすだろ!」

 前方に体重を掛けられたラキアは一瞬ふらつきながらも咄嗟にフィーネを抱える手に力を込めて引き寄せた。先ほどよりさらにすっぽりと抱きしめられた形となり、頬に触れた彼の胸の感触にフィーネは大慌てした。温かい体温と服に焚きしめられた『至尊に捧ぐ万花の風《ファルラウレリヤカーアハルーン》』の香と彼の良い匂いに包まれてふわふわとした心地よさを感じ、もっと嗅いでいたい――などと言っている場合ではない。却って状況は悪化したではないか、と目を白黒させた。

「下ろして!」

「嫌だね」

 彼は足の速さを弛めることなく歩き続けた。



 結局、彼は清泉舎の手前の渡り廊下に着くまでフィーネを抱きかかえたままだった。

「いい加減下ろしてください!」

「わかった。そんなに嫌なら言うとおりにするから暴れるな!」

 無理やり抱き上げられた時とは異なり、丁重に下ろされたことに驚きつつも、フィーネは尋常ではないほど恥ずかしさで頭がいっぱいになっていた。

「揶揄いも大概にしてください!」

「さてと、清泉舎に行くぞ」

「何でですか!?」

「何でって言われても、現に、いまのおれたちの身なりはすごいことになってるだろ」

「確かに、そうですけど……」

 服に泥汚れがべったりとついており、洗濯が大変そうだ。高価な衣をよくもまあ、汚してくれたなと洗濯係の下女達から恨み言の一つ二つももらえそうなほどだ。ラキアの暑苦しそうな長袖長丈の外套も泥や葉の汁であちこち汚れていた。

 フィーネがゼムに手伝いを申し出た時の『ゼムは怒られないがフィーネとラキアは怒られる』とラキアが言ったのはこのことだったのか、と今更になって気がついた。

「んじゃ決まりだ。清泉舎に向かうとしよう。……向かうついでに、一緒に水浴みしてくれる美女でも探すかなぁ」

「なんですって……」

「なんだ、そんなに殺気立てて」

「知りません!」

 フィーネは彼に背を向けた。


 かつての王宮には後宮があり、国内外から集められた美女たちが千人も万人も大勢、国王に侍っていたと聞く。彼女たちはすべて国王の私物であり、寝食のみならずありとあらゆる世話をしていたらしい。だが、星見の乱を経た現在では、その制度は解体されている。アウィルドが後宮を嫌ったからだ。だが今、目の前の彼を見ているとお世辞にも誠実そうには見えない。いや、欠片すらない。


 この自称第三王子の国王は、その辺を歩いている女性を捕まえて沐浴に連れ込もうとしているのだ。そんな冗談を本気で口にするこの男が、ひどく厭らしく思えて腹が立ってきた。

「待て、濡れた石畳をあまり早足で歩くんじゃない。滑るぞ」

「余計なお世話です!」

 なぜ床が濡れているのだ、とさらなる怒り任せに答えた瞬間、ずるっと足を滑らせて後ろ向きに倒れかけた。ラキアが咄嗟に後ろからフィーネを支えてくれた。

「ほら、言わないことではないだろう」

 フィーネは無言でラキアを突き飛ばした。

「なっ……」

「馬鹿にしないで!」

 腹は立つが頭を打たずに済んだことは事実だ、と怒りを鎮めようと試みながらも、フィーネはラキアに向かって言った。

「今し方助けてくださったことにはお礼申し上げます。ですが、その行いすら、今の私にとっては馬鹿にされた気分になるんです。あなたの不誠実さに呆れました」

「……何を怒ってるんだ?」

「そんなに女性がお好きならご自由になさってください! 気の済むまでずーっといちゃつけばよろしいでしょう。止めたりはしません。ただし、一々私の前でだけ女漁りをする芝居をするのはやめていただけますか。不愉快です」

「おい!?」

 腹立たしさで自分でも何を言っているのかわからない。というよりも、フィーネはアウィルドの交友関係に口出しする権利などないのに、どうしてこんなに腹立たしくなってしまうのだろうか。

「っていうかなんであんたが怒るんだよ」

「悪いですか?」

「あと、いつおれがあんたの前で女漁りをしたんだよ」

「そんなこと知りません!」

 力の限り叫んだフィーネを見下ろしながら、彼は合点がいったとばかりに厭らしい笑みを浮かべた。

「ははぁん、わかった。あんた、妬(や)いてるんだ?」

 どういう意味だ、と反論したいのに急に顔が熱くなった。

「妬くわけないでしょ!? 自惚れるんじゃないわよ! あなたなんて大嫌い!」

「そうか、大嫌いか! そりゃけっこうなことで」

 そう言うと彼はフィーネの腰に手を回し、強引に引き寄せた。驚く間もなくフィーネは抱き寄せられた。

「な!? なにするんですか!?」

「悪い悪い。けどさ、あんまり激しく怒ると暑さで参るぞ」

 先ほどから彼はどうしてしまったのだろうか。態度の急変にフィーネは身の危険を感じた。

「放してください」

「駄目だ」

「じゃあ、くすぐったくて不愉快なので腰から手を退けてください!」

「嫌だね」

 フィーネが抗議すると、今度は身体の向きを変え、右腕で胸元へ抱き込んだ。

「ちょっ……苦しい」

 顔が彼の胸に埋まり、腕の力もそれなりにあるので締め上げられているようで息が出来ない。だが、『至尊に捧ぐ万花の風《ファルラウレリヤカーアハルーン》』の香りはやはりいくら嗅いでも良い香り――ではない。

 このままでは締め殺される、とフィーネはもがいた。

 さらに彼はフィーネの耳元に顔を近づけた。温かな息が右耳の裏に当たり、鳥肌が立った。

「……蓮の香か。清らかでとてもいい香りだが、月来香の方が似合いそうだな」

 その瞬間、数日前に鷦鷯宮の中庭で、アウィルドの母方の叔父から言われた言葉と恥ずかしさを思い出した。あの叔父にしてこの甥ありか、と血のつながりを感じて呆れた。

 そして、勧めてくれたルラには悪いが、もう二度と蓮の香は使うまいと心に決めた。また、月来香も同様だ。

「……すまないが、しばらくこのまま我慢してくれ」

「え?」

 何を言っているのだ、と思ったのだが、何か金属が擦れるような音がフィーネの左側から聞こえた。普段であれば何の音だろうかと疑問を抱いてすぐ確認しようとするはずだったのだが、締め殺されそうになってもがいている今のフィーネは、どうやって呼吸を確保すべきかという方に全意識を持って行かれていた。だから、彼が左手で何かしていたことも、金属音が三度、立て続けに響いたことも、フィーネは知る由もなかった。

 その後もしばらくの間、フィーネは彼に抱き続けられた。


 どれほどの時間が経っただろうか。ややあって、彼の腕や胸から急に力が抜けたかと思うと、フィーネはあっさりと解放された。

 新鮮な空気を求めて息を切らせながらも、今し方の仕打ちに納得いかず、フィーネは大声で彼を怒鳴った。

「何するんですか!」

「何って気が変わっただけだぜ。ファーシャ殿に嫌がらせをするには無視や雑言よりも、気持ち悪くつきまとうやり方のほうが効き目がありそうだと思ったんだが、どうやら正解だったらしいな」

「何なんですかそれ!」

 彼はフィーネの反応を観察するような目を向けた。

「ファーシャ殿はさっき女漁りが腹立つ的なことを言っていたけどさ、よければこれから一緒に水浴みでもどうだ?」

「するわけないでしょう!! 本当にさっきから何なんですか! 頭沸いてるんですか!?」

「心外だな。先に今日一日一緒に過ごしたいと言ったのはあんたの方だろう?」

「ほ、本気で言ってるの!?」

「本気かそうでないか問われてもな……あんたはどう思う?」

「質問を質問で返さないでもらえますか?」

 ラキアが返した馬鹿馬鹿しい問いを聞いて、今し方まで慌てて我を忘れかけていたフィーネだったが、急に頭が冷えて落ち着きを取り戻してきた。

「そうだな……あんたが良ければ一緒に入りたいくらいにしておこうかな」

「勘弁してよ……」

 庭仕事を手伝っていただけのはずがどうしてこうなったのか。今朝の言動を思い返し、あの時の自分を殴りに戻りたい、とフィーネは本気で思った。

「あなた、私のことは好みじゃないって言っていたじゃないですか」

「よく覚えてたな。そうだぜ。おれは……片翼候補様なんか、全く好みじゃない。……だから今の誘いは忘れてくれ」


 揶揄いが成功したことが嬉しかったのか彼はげらげらといかにも品のない笑い声を上げた。舌を出して馬鹿にしてくるラキアの顔を見て、はらわたが煮えくり返るのを我慢しながらも、フィーネの目の前は涙で滲んだのだった。

 





補足です。

今回のアウィルド(ラキア)は、かなりひどいことをフィーネに対して言っていますが、彼は今、馬鹿祭りの規則で『好色男のスヴァロン・ラウルガル・タイト』を演じています。また、彼が着ている暑苦しそうな外套は、龍鱗糸(神殺しの毒以外なら刃も毒も火も通さない)の鎧なので、立派な盾になっています。

そして、『片翼候補が好みではない』という台詞も、『片翼候補』に限定しているので裏を返せば……。

天の邪鬼となっております。

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