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六章 赤い闇 (1) そんなに楽しそうに見えるか?

「……眩しい」


 フィーネが目を開けると、すでに日が昇っており、寝室は明るかった。


 朝日が燦々と窓から差し込み、目に少し痛みを覚えて涙がこぼれた。フィーネは大きく伸びをすると、寝具から抜け出した。

 ヒレナを呼ぶために最低限の支度をしようと乱れた夜着の襟元を直しながらフィーネは今し方まで見ていた妙な夢について考えていた。


 また、いつもの男の声だった。


 やはりフィーネはあの声の主に心当たりがなかった。

 だが、理由はわからないが、あの涼風のような声を聴くと、どこか胸の奥底から懐かしいという感情が湧き上がる。

 それはまるで、遠い昔からよく知った人物に向けるような、穏やかな感情だった。けれども同時に、誰とも知れぬ彼に対して、『会いたい』という、恋い焦がれるような強い衝動が体の隅々まで広がり、いてもたってもいられないような、焦りに似た不思議な感覚に支配された。

 彼は誰なのか。それに、天の主神(ナハートアム)は何を認めたのだろうか。彼に尋ね、話をすることさえ可能であれば、フィーネが幼い日からずっと疑問に思ってきた、何故フィーネの夢に現れるのかということの答えがわかるのではないかと期待した。ところが、今朝の夢は今までと異なる展開を辿ろうとした。

 フィーネはあの夢の中で動いたり喋ったりすることができたし、男は『エリーシャ』という名をはっきりと口にした。


 エリーシャといえば、数日前の午睡の時に見た夢でフィーネに『鳥の渡り』という魔術を教えてくれた少女と同じ名前だ。彼女は『アウィルド』と知り合いだと言っていた。

 謎の声の主はエリーシャに『来るな』と忠告した。そして、フィーネなのか、誰か別人に対してかは不明だが、『かつてエリーシャだった某(なにがし)か』と、意味深な発言をした。

 片翼になってはいけないと言われても、フィーネは本物の片翼ではない。本物は現在、神殿に匿われているはずだ。

 フィーネには、単なる身代わりなのだ。

 アシュハドは別だが他の鳥の言葉を理解することも出来ないし、最高神官長(レリファ=シシカ)から貸してもらった金の腕輪がなければ治癒の力を使うことすらできないのだ。

 もしかすると、声の主はフィーネがアウィルドリーシャを助けたいと思っていることについて言及したのだろうか。

 寝台の上で立て膝の姿勢のまましばらく考え込んでいたが、いつまでも考えるのも仕方のないことと頭を左右に振って邪念を追い出した。


 西方の国の学者による、夢に関する研究をまとめた書物によると、夢というものはあくまでも己の内の幻であり、願望や悩み事を原料に無意識のうちにつくられた虚構であるという。


 エリーシャについての夢だって、ここ数日のフィーネが、片翼について考え続けていたためにひねり出された虚像にすぎず、それについていくら考えてみても現実には何の影響力も持ち合わせてはいないはずなのだ。


 幼い頃から繰り返し見る夢であることは引っかかるが、そう納得するしかない。

 エリーシャの件は、もしかすると彼女が三百年前の片翼かもしれないため、偽の片翼候補であるフィーネに何か助言をしてくれたのかもしれない。そう理解することにした。


 戸を軽く三度叩く音が聞こえ、いつも通りにどうぞ、と返すとヒレナが入ってきた。


「おはようございます。朝の支度を……」

 彼女はにこやかな笑顔で現れたが、フィーネと目が合うと言葉を切って眉根を寄せた。

「おはよう。どうしたの、ヒレナ?」

「いえ、その……。なにかお辛いことでもございましたか?」

「ええと、特に変わったことは何もないけど……」

 フィーネは夢のことだ、と割り切っていた。早朝から彼女に気を使わせてはならない。だがヒレナは、そんなフィーネの心中を気にしているのか、力なく笑った。

「そうでございましたか。それならよいのですが、あまりおひとりで抱え込まれたり、ご無理はなさらないでくださいね」

「ありがとう。私はいつも通り元気だよ」

「わたくしの気のせいであれば良いのですが、今朝はいつになくとても悲しげなご様子でしたので。なにかお辛(つら)いことがあるのではないかと気になったのです。王宮に来てもう結構な日が経ちますが、陛下はお出ましになられず、毎日のようにスヴァロン殿下はあなたに対して無礼を働きますし、体調も崩されましたし、色々とお心を痛めておられるのではないかと心配になったのです。何か悩んでおられることはありませんか? よろしければこのヒレナめにお話しくださりませんか?」 

「ありがとう。心配かけてごめんね。本当に何でもないから安心して。ただ、ちょっといつもの夢だけどいつもと違う変な夢を見たもので感傷的になってただけなんだ」

「普段と異なっていたというのは、気になりますね。差し支えなければどのような内容だったのか教えていただけませんか?」

「うん。……そうだな。私もよくわからないんだけど……。ええとね、子供の頃からよく見る変な夢があるって話はかなり前に話したと思うんだけど……」

「知らない殿方に呼ばれるのですよね」

「うん。顔も年の頃もわからないんだけど、その人はいつもとても悲しそうなんだ。なんで悲しそうなのがわかるかって言うと、いつも泣いているような声だからなんだ。でも、今朝の夢はいつもと違って続きがあったんだ。そこでその人はエリーシャの名を呼んだり、お前はもう自由なんだ、とか、天の主神は認めてくださった、とか意味不明なことを言ってた。ここ最近、片翼についてばかり考えているせいなんだろうけど、こんな夢を見てしまうなんて馬鹿みたいだよね」

「そのようなことはございません。夢というのは、起きている時には表面化されない心の中の願望や不安が、就寝中に自分だけの世界で解き放たれたものだという話があります。別の言い伝えでは、自分のことを恋しく思ってくださっている方が、逢いたいという想いを募らせたあまり、夢の通い路に現れる、という甘美で情緒的な説もありますけれど」

「夢の通い路か。運命の人にそう思ってもらえるならとても嬉しいだろうな。でも、夢でなければ逢えないっていうのは少し寂しいね」

 ヒレナは眉尻を下げた。

「そうですね。ですが、いつも同じ声というのも気になりますね」

「うん…………」

 フィーネは俯くと、胸に手を当てた。彼の声を思い出すと心臓がぎゅっと締め付けられるような心地がするのは何故なのだろうか。

「どなたか心当たりはございませんか?」

「無いよ」

「もしかすると、慣れない環境のせいで少しお疲れなのかもしれませんね」

「そうかもしれない。でも――」

 ここに来て、フィーネは不安になった。

 馬鹿祭り十日目。残る日はもう五日しかない。それなのにフィーネはいまだにアウィルドから任命書に署名をもらうどころか、彼がフィーネに対して張っている見えない壁の内側にすら入ることが出来ていなかった。

 アウィルド――いや、ラキアとセイファンの賭けは、セイファンに選ばれたフィーネが国王の任命書への署名を得られれば、ラキアが王殺しを諦めるというものだった。失敗すれば、ラキアは自分で自分を殺す。

 つまり、賭けに負ければアウィルドが自分で自分を殺してしまうのだ。

 


 首を強く横に振り、頭に貼りついた邪念を振り払うと、フィーネは口元を上げてヒレナに笑いかけた。

「なんでもない。それより、早く準備しないとね。今朝は寝坊してしまったけど今回こそは見失いたくない」

「ええ。足が速いですし、逃げられたら捜すのがとても面倒ですからね」

「今日も朝食が終わったらノルン殿にもお願いしようと思うんだ」

 フィーネはアウィルドことラキアを尾行することにしていた。先日は途中で逃げられたり、体調不良で寝込んでしまったが今日から再開だ。

 どこか悪巧みをしているような高揚感をおぼえつつ二人は顔を見合わせて笑った。


 フィーネは緑水宮(りょくすいきゅう)から出ると、南側の植え込みの前の地面に引かれた線を見つめた。その線は毎日夜明け前にアウィルドが最高神官長(レリファ=シシカ)と一緒に王宮を歩いて引いている謎の儀式によるもので、雨などで乱れてはいるが、沢山の線が重なっているのがわかった。



 ヒレナやノルンから教えてもらった話と実際にフィーネが王宮で過ごしたり尾行している時に見たことを合わせると、馬鹿祭り中のアウィルドの一日は日の出前の暗い時間からこの線を書くことから始まるらしい。

 神殿で儀式を行い、レリファ=シシカとともに鉄杖を手に王宮内を回るのだが、その歩みは独特なものだった。杖を引きずりながら二歩進み、三歩目で杖を地面に突き立てて先端に吊り下げられた鈴飾りを鳴らす。杖の頭部は輪になっており、ざっと数えて少なくとも十二個はあるだろう小さな鈴がついている。がりがりと土を削る金属音としゃん、と清浄な音を響かせる鈴の音は規則正しく一時も乱れることはなくつながり時を刻み、気の流れを生むのだ。

 それから、宮殿の内郭門で外から馬で到着した神官から海水の入った壺を受け取り、潮花香を作るために神殿に運び込む。馬鹿祭りの監督役は、潮花香という、海水に香油を混ぜた水を撒くことが務めらしい。塩と花の香り霊力で城内の穢れを祓い清めるのだという。

 その後は鷦鷯宮(しょうりょうきゅう)の中庭の花に水やりをしてから清泉舎で沐浴をする。

 それが終わる頃には朝日が白鴎宮の白壁を金色に染めているので朝食まで執務室で仕事をするらしい。

 朝食を終えると、鷦鷯宮の執務室に籠もり、数時間は出て来ない。朝の議会が終わる頃になると鷦鷯宮から現れ、花の香りのついた海水をばら撒きに出かける。昼が過ぎて午睡の時間になると、彼は午睡をすることなく王宮内をぶらぶらと歩き回り、様々な雑務をこなした。時に、困っている者がいれば手伝いをした。廊下掃除や池のごみ拾いなど、王族としてはする必要のないささいな仕事をしている姿に驚かされたが、アウィルドらしい行動かもしれないと、フィーネは微笑ましく思った。

 さらに、暇を見つけると中庭でひとりで剣の稽古をしたり、厨房に入っていったりすることもあり、とにかく多忙である様子だった。

 夕刻の議会の時刻になると、再び鷦鷯宮の部屋に籠もり、日が暮れると雀の間に現れてフィーネ達と一緒に夕食をとる。

 その後の行動はノルンとヒレナに止められてしまい、調べることができなかったが、清泉舎で湯浴みや執務をしているらしいと教えてもらった。


 彼の行動を見ていてフィーネは、彼が王宮内の者たちからかなり慕われていることに気づいた。

 彼らが困っていると手助けをしている姿が多く見られることはもちろん、蜘蛛の巣払いを手伝ったり、百足(むかで)退治の騒動に助太刀に入ったり、洗濯物を干す女官のために縄を高い木にかけるのを手伝ったり、王族でありながらもどこか親しみやすさを感じさせたし、仕えている者達も彼に対して信頼と親近感を抱いている様子だった。

 フィーネに接する時と異なり、他の者と接するときの彼はとても気さくによく話す。そして、よく笑うのだ。それは、第三王子というよりも、フィーネがよく知るアウィルドの表の顔だった。

 おかげでフィーネはラキアという人物についてよくわからなくなったのだった。



*   *   *



 雀の間での朝食を終えてさっそく尾行開始だと意気込んでいると、セイファンが声を掛けてきた。

「ファーシャ様、唐突なお願いとなってしまい、たいへん申し訳ございませんが、本日は午睡前まで、ヒレナ殿とノルン殿をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「ええと……構いませんがどういったご用件でしょうか?」

「新たな賊の侵入が確認され、王宮内の警備体制に変更が生じることとなったため、その部分について急ぎ、話し合わなければならないことがあるのです」

「そうなのですね。わかりました」

「つきましては、ファーシャ様の護衛の件ですが、ファーシャ様は本日はいかがお過ごしになられるおつもりですか?」

「ええと、できれば今日はラキア様を尾行しようかと思っていたのですが、いけませんか?」

 セイファンは薄く形の良い唇の端をにっと上げて微笑んだ。

「とんでもない。それなら安心です。本日の護衛は殿下にお任せすることとしましょう」

 良かった良かった、と彼はどこか楽しげというより愉しげという言葉が似合うような不気味な笑みを浮かべていた。

「……ところでセイファン様。賭けの件はどうすればよろしいのでしょうか。馬鹿祭りも十日目になりますが、ラキア様は絶対に署名を書いてはくださらないでしょうし、もう日にちがありません」

「その件ですが、あの方が署名しないというのは想定内ですのでご安心を」

「へ?」

「仮に我々が賭けに負けた場合でも、最高神官長(レリファ=シシカ)が人格解除の儀を行わなければ、あの方は白鴎宮から一歩も出られませんからね。猶予は多少ございます。その間にファーシャ様、あなたが色仕掛けでも偽の恋の告白でもしてくだされば、考えを変えてくださるかもしれません」

「え!? 無理無理無理です! 私じゃ無理です!」

「物は試しと申しましょう。こうなれば拇印でも良いでしょう。賭けの証拠として、どうにか陛下を騙して指紋を頂戴することといたしましょう」

「わかりました。もしもの時はその方向でいってみようと思います」

 セイファンは頷くとフィーネに一礼した。

「どうか、あの方をお願いいたします」

 彼の明るい茶色の髪、まっすぐこちらを見つめる鳶色の瞳を見つめながらフィーネは頷いたのだった。



*   *   *



 それからフィーネはラキアを尾行した。彼は自室に戻るとしばらく出てこなかった。朝の議会が終わったことを告げる鐘の音が響いてからしばらくすると、彼は出てきた。だが、前回見た時とは異なり、桶や柄杓を持たずに手ぶらだった。

 それから彼はどこかに向かって歩き始めたので柱の影を伝いながらフィーネは追い掛けた。彼は長身で足が長い上に早足なため、背が低いフィーネは置いて行かれないように走りながらこっそりついて行った。


 それからしばらくして、鴛鴦宮(えんおうきゅう)の渡り廊下に差し掛かると彼は足を止めた。フィーネは渡り廊下の大木のような柱にしがみつきながらそっと顔を出して彼の様子を伺った。

 彼は中庭を見つめていた。

 風が吹いて前髪を揺らす。弧を描くような横顔は静けさを湛え、長い睫毛が影を落として寂しげな印象を覚えた。

 何を見つめているのだろう。視線を追うも、柱が並んでいるばかりで特に変わった物は見当たらなかった。徒労に終わったかと思ったのだが、次の瞬間、振り返ったラキアと真正面から目が合った。

「こそこそしていないでいい加減、出てきたらどうだ、ファーシャ殿!」

 名指しされ、フィーネは飛び上がった。気づかれていたのだ。仕方なくフィーネは柱の影からそろそろと出ると、彼は腕組みをして怪訝そうな目でこちらを見た。左目は大きく右目は細く、開き方が異なる辺りが彼の不機嫌さを物語っていた。

「どうして私が尾行しているとわかったのですか?」

「どうしてって言われてもなぁ、もしかして本気で気づかれてねえと思ってたのかよ? ヒレナ殿はともかく、あんたは気配を隠しきれていねえし、王宮じゅうの奴らがおれの背後を見て笑ったり指笛を吹いたりするし、これで気づかない方が無理だろ」

 ため息をつきながらの呆れたような彼の言葉にもっともだと思い、フィーネは苦笑した。

「……やはり、そうだったんですね。途中からどことなく気づかれてるような気はしてたんですが……。それなら、そうと早く言ってください」

 力なく笑うフィーネを見遣るとラキアは再びため息をついた。

「放っておけば諦めると思ったんだ。懲りずによく飽きねえな。そんなにおれは観察しがいがあるか?」

「そうですね。……どちらかといえば『ある』、とだけお答えしておきます」

「ふーん、よくわからないけどあんたはものすごーく暇人なんだな」

「あなたほどじゃないですがね」

 言い返したフィーネを一瞥して彼はわざとらしく大きなため息をついた。

「……付き合わされるヒレナ殿とノルンが気の毒だな」

「二人には申し訳ないと思いますが、あなたに暇人呼ばわりされるとなんとなく癪に障るんですが」

 率直な感想を述べたフィーネにラキアはあからさまに顔をしかめた。

「で、あんたはおれの後を付け回して何がしたいんだ?」

「別にどうしたいということもないのですが、強いて言うなら、あなたが陛下に悪さしないように見張っていただけです」

 こちらを見下ろすラキアの顔を見上げながらよく観察した。

 夜の水面のように深く吸い込まれそうな瞳は光に溢れ、意志の強さをうかがわせる。左右均整に流れるような頬の輪郭は、滑らかな線を描いて顎で交わる。不機嫌そうに下がった口角とともにつられてすこしだけ膨らんだ首の筋すら整っていてやはり見惚れそうになる。と、そこまで考えたところで我に返り、何を考えているんだ、と自分に言い聞かせるように首を振った。

「それはお忙しいことで。ところで、今朝はなんでひとりなんだ? 二人は一緒じゃねえのか?」

「はい。二人は先ほど、セイファン様に呼び出されてしまいまして……」

 へへへ、と笑ってごまかそうとしたところ、彼は声には出さないが、セイファンめ……。と、苦々しい表情が語った。

「一人で王宮内を出歩くなというあなたの言葉は覚えていたのですが、あなたのそばにいれば大丈夫、とセイファン様が許可してくださったのです」

 ふいに彼の顔色が変わった。少し怒っているような、険しい目つきでフィーネを見下ろした。

「そうか。それなら絶対にひとりでうろつくんじゃねえぞ。馬鹿祭の陽気に誘われて間者や暗殺者も紛れ込んでいるんだからな」

 自分だって王殺しを公言している以上、賊と似たようなものなのに、それを棚に上げていることが不当に思えてフィーネは反論したくなった。だが、それではまた不毛な言い争いになりかねない。何より、フィーネは一度ゆっくり『現在のアウィルドリーシャ』と直に話をしてみたいと願っていた。

 彼に一体何が起きたのか。様々な疑問の答えを見つけなければ彼の正体を言い当てたとしても事態は解決しないのではない。

 何はともあれ、せっかくやってきた二人きりになれる好機を逃すわけにはいかない。今日こそはっきり聞かなければ、と心に決めた。

「殿下、お願いがございます。今日は一日、私と一緒に陛下を探してくださいませんか?」

「はあ!? なんでそうなる?」

「だって、殿下はどうせお暇でしょう? もう宝物は全部集め終わりましたし、潮花香を撒く以外にはこれといったお仕事はなさっておられないようですし、本来ならファムと監督役は一緒に行動する慣わしになっているそうじゃないですか。それなら私に付き合ってくださっても何ら問題ないと思うのです」

 フィーネの申し出に彼はあからさまに嫌そうな顔をした。

「断る。誰があんたなんかと行くか。言っておくが、こう見えてもおれは暇じゃねえんだよ。この後やらなきゃならねえことがあるんだ」

「それなら、私もお手伝いします」

「余計なお世話だ」

 でも、と食い下がる様子を見せないフィーネに苛立ちを感じたラキアは頭をかきむしった。

「わからないやつだな。はっきり言わせてもらうけど、あんたはおれと一緒にいて妙な噂が立っていることを知らねえのか?」

 唐突に、思ってもみなかったことを言われてフィーネは驚いて身を退いた。

「み、妙な噂って何ですか!? 立ちませんよ、そんなもの!」

「……そう思っているのはあんただけだ。王宮にいる奴らはかなりの噂好きで、もうあれこれ根拠のねえ馬鹿話が出始めている」

「それってたとえばどんな……」

 嫌な予感がした瞬間、フィーネはなんとなく思い当たることを思い出した。

 昨日、通りすがりの女官が尾行中のフィーネを見てくすくすと笑った。すぐさまそれが無礼であると思い出したらしく、何事もなかった風を装って彼女たちはしずしずと足早に去っていった。

 今朝、朝食を運んできた女官も、庭師も訓練中の兵士も皆、フィーネのことを見て目配せしたりにこりと笑った。

 王都は『微笑みの都』とも呼ばれるほど気さくな性格の人が多いと聞いていたので愛想笑いでもしているのだろうと考えていたが、それにしては、こそばゆさというか、妙な雰囲気を感じたのは事実だ。マカー家とヨーケム家の令嬢からは、何故か冷たい視線を向けられた。

 あれはもしかすると、その噂とやらに関係しているということなのか。なんと自分は世間知らずののんき者だったことか。

 フィーネが考え込んでいると、ふいに中庭のほうからしわがれた男の声が二人を呼び止めた。

「おや、お二方。本日も朝からずいぶんとお熱いですね!」

 フィーネは庭師の言葉に本気で眉をひそめた。庭師は全身ににこやかな爽やかさを纏いながらこちらに近づいてくる。挨拶をするとさっそくフィーネは庭師に言葉の真意を確かめた。

「熱いというのは、どういう意味ですか?」

「またまた、とぼけなさって。片翼様は殿下に惚れていらっしゃって、殿下も満更ではないと、もっぱらの噂ですよ?」

「は? 幻でも見られたのではありませんか? 一体どなたが言い始めたことなのですか!?」

 日焼けと無数のしみと、笑い皺が印象的な老庭師は首を傾げた。

「はて、違うのですか? 毎日親を追う雛鳥のように熱心に殿下の後を追いかけていらっしゃって、とても可愛らしいのなんのそのって皆して微笑ましく拝見させていただいていたのですが……」

「違います! 誰がこんな変態を好きになるものですかっ。断じてお断りです!」

「おい、本人の前でさらりと言ってくれるな」

 ラキアを指差ししながら叫んだフィーネの言葉を頷きながら聞いた庭師はぽんと手のひらを拳で叩いた。

「変態ですか、そりゃ結構! こりゃ、殿下はこのわずかな期間で片翼様と一体どんなことをなさったことでしょうねぇ。こりゃご結婚や御子の誕生も近いとみて良いのですかな?」

「ば、馬鹿なことを言うなっ。何もしておら……してねえからな!」

 ふいに妙な口調で返したラキアにフィーネは眉をひそめた。今、一瞬だけだが彼の言葉遣いが変化した。普段の粗野な口調ではなく、王族らしい整った言葉遣いが一瞬だけ顔を覗かせた。

「どうなさったのですか、殿下?」

「どうもしねえよ! あんたは少し黙れ!」

 上から命令されてフィーネはむっとした。そんな言い方しなくてもいいじゃないか。と、フィーネは少し反感を覚えて頬を膨らませた。

「わかりました。お忙しいところお邪魔してしまい、申し訳ございませんでした。もういいです。今日こそはあなたと過ごしてみたいと楽しみにしておりましたが私はひとり(・・・)で部屋に戻ります」

 わざと『ひとり』という部分を強調して宣言した。本当に部屋に戻るつもりはないが、一度退いてみるというのも作戦としてはありだろう。


 押してだめなら引いてみろ。と、恋愛や交渉事では本来の意味とは異なる使われ方をするらしい言葉がある。

 だが、フィーネの生家ではこの言葉に続きがあるのだ。

 押してだめなら引いてみろ、引いてもだめなら横に動かせ。それでもだめなら張り倒せ、倒れぬならば根こそぎ掘り返せ、それでもだめなら壊してしまえ!

 というものだ。フィーネはこの局面を、父から教わった物騒な諺で乗り切ることにした。

 駄目なときでも諦めずに違う方法で試してみれば簡単にうまくいくこともある。そして、時に駆け引きにははったりも重要だ。なんとしてでも彼と一緒に今日は過ごすのだ、と心に決めた。


 わざわざ見せつけるように踵を返すと、背後から「待て」と、やはりフィーネの期待通りにラキアは呼びかけてきた。不機嫌を装いながらフィーネが振り返ると、彼は老庭師を顎で指し示した。

「部屋に戻るならこの庭師長、トンファ・ゼムに送ってもらえ」

 案の定、ラキアは先ほど言った『誰かしらと行動する』という決まりを守った。だが、あくまでもそれは他人任せのことで彼はつきあってはくれないらしい。フィーネは庭師長がラキアの命令を断ってくれることを期待した。

 庭師長はラキアには見えないように片目をつぶってフィーネに目配せした。

「申し訳ございません殿下。わたくしめをはじめとして、我々庭師は只今、たいへん忙しゅうございます。今夜は突発的な嵐が通り過ぎてゆくという気象官の急ぎの予想が立っておりますゆえに、本日中に王宮じゅうの庭の花の芽をすべて保護し、枝や木の実など危険な箇所がないか確認しないとならなりません」

 頭を深々とラキアに向けて下げながらとても申しわけなさそうに庭師長は言ったが、ラキアに見えないようフィーネには親指を立てて合図した。

 フィーネは助け船を出してくれたことに感謝をした。

「だから今からそれを手伝う約束だっただろう」

「せっかくのご厚意を無碍にするようでたいへん恐縮ではありますが、本日のところはファーシャ様と一緒に過ごしてみられるのも悪くないのではございませんか?」

「なんでそうなる!?」

「せっかくの馬鹿祭りでございますよ。ファムと一緒に楽しまなくて何が『祭り』でございますか。昨年や一昨年の監督役はとても和気藹々と楽しそうでしたのに、今年の監督役であるあなた様はファーシャ様を邪険になさっておられると小耳に挟みましたからね。残り五日間は一緒に過ごされるのも良いのではないかと、わたくしめは考えます。ですから、我々だけでも大丈夫でございますから、殿下の手助けはお気持ちだけ頂戴いたします」

「だが、何人も里下りしていて人手が足りないだろう」

「問題ございません」

 フィーネは考え至らずな自分を恥じた。まさか庭師が不足しているとは思いもしなかったのだ。

 ラキアは彼らの手伝いをする約束をしていたのか。

「あの、ゼム殿。何か私にお手伝いできることはありませんか?」

 庭仕事に関してまったくの素人の自分に出来ることはほとんどないだろうが、薬草なら育てていた。王都の気候風土はあまり詳しくないが、少しでも力になりたいと思ったのだ。その申し出に庭師はにっと歯をむき出しにして微笑んだ。日焼けして真っ黒な、太い皺が幾筋も浮かぶ顔はとても明るい表情に満ちていた。

「いやあ、ありがとうございます。昔語りに名高い片翼様にお手伝いしていただけるなんて、嬉しくてむずむずしますね。ですが、本当によろしいのですか?」

「もちろんです」

「待て、トンファ。おれも手伝うからな」

 割り込んできたラキアに庭師長――ゼムは首を傾げた。

「おや? 殿下、よろしいのですか?」

「当たり前だ。元々そういう約束だっただろう。少しでも人手は多いにこしたことはない」

 ラキアの提案にゼムは困惑を隠すように笑みを浮かべた。

「いやはや、片翼様と殿下をこき使ったとなればこりゃ大問題ですね」

「安心しろ。おれとファーシャ殿は怒られるが、お前が怒られることはないからな」

「ちょっと……」

 どういう意味だ、と布越しにラキアを睨みつけると、同じように睨み返された。

「こんな庭仕事をろくにしたことのない奴が手伝ってもたいした役には立てねえだろ。ま、低い灌木なんかの相手には向いてそうだけどな」

「見くびらないでください。庭は素人ですが畑仕事なら大得意ですよ。ですが、殿下のように背の高い方が手伝ってくださればきっと皆さんのお役に立つことでしょうね」

 ゼムはにっこりと微笑んで深々と一礼した。

「ありがとうございます。それでは、昼食前の沐浴のお時間までお手伝いをお願い申し上げます」

「ゼム、午後も手伝うから――」

「しかし、殿下もつれないお方だ。こんな可愛らしい娘さんを前にしてこんなにも素っ気なさすぎる対応をなさるとはじつに人がお悪い」

「……こいつのどこが、可愛い娘なんだ? だいたい顔も見えねえのによく言えたもんだな。単なるちんちくりんの間違いだろ」

「ちんちくりんで悪かったですね!」

「あ? ちんちくりん以外になんと言えと?」

 ゼムは腹を抱えて大笑いした。

「殿下、楽しそうで何よりでございますな。愛しの姫君に対してそこまで心にもないお言葉を仰りますか。こりゃますます怪しいですな」

 揶揄うような響きのゼムの言葉を受けてラキアは一瞬、呆気にとられた様子で黙り込んだ。眉尻が下がり、どこか悲しげに見えた。

「……そんなに楽しそうに見えるか」

「ええ。五歳ほどお若くなられたのでは?」

「……そうだろうか」

「ええ。そうですとも。せっかくの馬鹿祭りなのですからもっとはしゃいでもよろしいのですよ。ただし、ファーシャ様をあまり苛めてはなりませんよ」

 ラキアは下唇を噛んでしばらく俯いた。しかし、しばらくすると顔を上げてにやりとした笑顔を見せた。

「……っ、まったく、おまえはすぐそうやっておれを甘やかすんだからな! 頑張らないといけない気にさせられる。さてと、喋っている暇があるなら今すぐ庭師長殿のお役に立たなければな。そうとなればさっそく、指示をくれ」

 ふっと庭師長は笑みを浮かべた。


 畏まりました、とゼムは恭しく頭を下げると早速ラキアとフィーネに指示を出したのだった。

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