五章 秘密を抱える者 (17) 謝りたくとも謝れない
その後、フィーネは雀の間で夕食を摂った。
先ほどのことを謝りたいと決意してヒレナにここまで背負ってもらい、下ろしてもらった後は頑張って平静を装った。
だが、入室した瞬間、ラキアはフィーネと目が合うと、あからさまに不機嫌そうな顔つきで睨んでから顔を背けた。食事中も一言も喋らなかった。彼は普段と異なり、匙と箸を使って普通に料理を食べた。その間、こちらを一瞥もせずに、まるでいないかのように無視をし続けた。
そっけなくされて胸が痛んだが、彼の態度はフィーネにとって、反省や罪悪感を薄れさせるばかりか、腹立たしさに拍車をかけた。
これではまるで、フィーネだけが悪かったと言わんばかりではないか。
そう思うと先ほどまで謝ろうとしていた決意は急速に萎んでしまった。
あれほど悩んで反省していたことがばかばかしく思えてきて、フィーネもついに彼を無視し返しすることにした。
料理長や調理の者たちには申し訳なかったが、折角の海老の餡掛け焼そばも、揚げバナナも全く味を感じられなかった。
セイファンが気を揉んで軽い世間話を投げかけてくれたが、結局、二人は一言も言葉を交わすことなくフィーネは自室に戻ることとなった。
部屋に戻って夜着に着替えたフィーネは深いため息をついた。
ようやく一日が終わった。
「まったく、今日は散々な一日だったな」
「そうですね。機嫌が悪いと無言になる質の殿方というのは面倒くさいですね。まあ、ああいう御方は勝手に頭の中で悶々と考えていて、じきに沸騰した怒りが冷めていくものです。しばらく距離を置いて様子を見ても良いと思いますよ。おやすみ前に冷茶でもいかがでしょうか?」
ありがとう、とヒレナから受け取ろうとした瞬間、突如としてフィーネは焼けるような熱を腹に感じて寝台に突っ伏した。
「ファーシャさま!?」
ヒレナに抱えられながらフィーネは腹を押さえた。腹を十字に割かれ、火箸で腸を掻き回されるように痛い。
「うつしみ……うつせみ……っ」
息も絶え絶えになりながらフィーネはまじないを唱えた。すると、痛みが遠のいていった。ひとまず安堵し、座り直して姿勢を落ち着かせると、腹をさすった。
「……まったく、これは本当に空気を読まないんだな。いい加減にしてほしいよ」
「お加減は大丈夫ですか」
「もう平気だよ。ありがとう、ヒレナ。それと、そんな顔しないで。いつものことなんだから」
ヒレナの蒼白な顔を見てフィーネは笑った。彼女に心配をかけたくないから笑みを浮かべたが、激痛から出た涙で視界が歪んでいた。
その晩も、フィーネはなかなか眠れなかった。
――フィーネ
誰かが呼んでいる。女の声だ。ヒレナではないがどこかで聞いたことのあるような。もっとか細く高い声だ。
――気づいて。わたしは、ここにいるの。風の力を……渡してはならないわ。杖を、杖の飾りを壊して。私で出来た杖はあの人から風を奪ってしまうの。
フィーネの目の前には深い闇が広がっている。どれほどの奥行きがあるのか全く見えないが、急に目の前にぬっと白い手が浮かび上がった。
誰の手かはわからないが、その手は奇妙な杖を持っていた。柄は青銅の蔦を象った古ぼけた意匠。それを取り巻くように緑金色の髪の毛のような三つ編みの飾りが巻きつけられており、杖の先には手のような形の枠と爪で掲げるように不思議な色合いの宝玉が嵌められている。
フィーネはこの杖に見覚えがあった。
ヘーシャを襲った黒外套が持っていたものと意匠が酷似している。
突如として、杖はぐにゃぐにゃと形を変えて、白い骨に変化した。宝玉は小振りな頭蓋骨に変わり、柄の側面には頭蓋骨とは別の、女性と思しき生首がぶら下がっていた。頭蓋骨にはぎょろりとした水色の虹彩の目玉が二つ、腐ることなく眼窩に残り、真正面にフィーネを見ると、歯をかちかちと鳴らして笑った。
「ヤマザルハコロシテヤル」
心臓を握りつぶされたような動悸と恐怖からフィーネは叫び、目を覚ました。びっしょりと汗をかいていた。綿の夜着を濡らし、寒気がする。手足が痺れたようにだるく、目がぐるぐると回り、吐き気を覚えた。
昨日は色々あった。怪我を治しすぎたのか、それとも奇病の発作が出たためか、気が興奮していたからなのかはわからないが、妙な夢を見てしまった。喉が渇いていたため、手探りで暗闇の中の袖机の上に置かれた水差しを探した。だが、すぐに悲鳴を聞きつけて灯りを手にしたヒレナが部屋に駆け込んできてくれたおかげで、手間取ることなく水を飲むことができた。
夜中に大声を上げてヒレナを起こしてしまったことを詫びて、フィーネは彼女を控えの間に下がらせた。彼女は朝まで一緒にいてくれると申し出てくれたが、それではヒレナの身体が休まらないからちゃんと眠ってほしい、と言いくるめた。
ヒレナはしぶしぶ隣の部屋に戻っていったが、何かあるといけませんから、と言って彼女はランプを残していった。
夜明真珠を使ったランプは、磨り硝子で造られた覆いの中で輝き、淡い光を室内に放っている。
フィーネは両手で近くに寄せて、外側の乳白色の覆いを慎重に外した。
覆いを外すと、白く眩しい光が室内に満ちた。
強い輝きを眺めながら、この夜明真珠は『四等』に位置付けられるな、とフィーネは思った。
以前、伯父が見せてくれた夜明真珠の標本でフィーネは格付けの方法を学んだ。
夜明真珠は美しさ、大きさ、色、真円さ、輝きの強さなどで格付けされる。最上級の一等、二等をはじめとして、十三等までのものが公の取引に通常は用いられる。それ以下の末等のものは非公式の商いで売買されたり神殿の御守りに用いられるが、それでも大抵の庶民には簡単には手を出すことのできないほどの高値がついている。
一等ともなれば、小指の爪の半分ほどの大きさでさえ、一粒で貿易用の大金貨千枚分、千人の一年分の食事をまかなうことができる。
あまり思い出したくはないが、先ほどの夢に出てきた杖にも光る玉がついていた。それも、親指と人差し指をつないで輪を作った時の穴ほども大きいものだ。
あそこまで立派な夜明真珠は見たことがないな、と表情を弛めかけたフィーネは思いがけず顔をこわばらせた。
違う。見たことがないわけではない。フィーネはあの夜明真珠にとてもよく似た宝玉を知っていた。
あの宝玉はアウィルドリーシャの立太子の儀の際に先王リルダムが諸侯の前で披露した国宝の『風玉輪』によく似ていた。
今から七年前の九の月におこなわれた立太子の儀は、先王の命令で、主だった諸侯の子女が、本家も分家も問わず招集された。だから本家の従兄弟たちはもちろん、分家のフィーネも王宮に入ることが許されたのだった。生まれて初めて目にする王宮ではとても素晴らしい経験を得ることができたが、その話は置いておく。
金細工の豪奢な台の上の、白絹の敷布に安置された風玉輪はとても美しかった。蒼天を閉じこめたように眩く輝き、ゆらめく光の帯はたなびく雲のごとく、ほの暗い深みのある光も内包したそれはまるで小さな世界そのものだった。
皆の前に現れた先王リルダムは、長く絹糸のような金の髪がとても美しい人物だった。彼はタイト家の血筋の先祖返りで、紫の瞳に魅了の力を宿していた。その力は普段は封じられているが、相手を無条件で服従させてしまうため、万が一、力が発動してしまうと危険だったため、鶏の仮面をつけて顔を完全に隠していた。
彼はとても美しい深みのある声で厳かにその場にいる全員に告げた。
――この宝玉は風玉輪といい、片翼を示すもの。片翼となるべき者が触れれば、たちまちそれは封印が解けて腕輪になるであろう。
そのように説明を受けて、参列者達はひとりひとり、風玉輪に触れさせられた。
だが、残念なことにフィーネを含めた誰ひとりとして、封印を解くことができた者はいなかった。
先王の落胆は凄まじいものだった。
フィーネはあの時の様子を思い出すと、今でもあの頃のリルダムとアウィルドリーシャがとても気の毒で胸が締め付けられそうな思いになるのだった。
『わたしに片翼がいないことについて辛くはないのかって? フィーネ殿、わたしはこれで良かったと思うのだ。確かにわたしは寂しい。けれども、翼王のために一生を台無しにしなければならないなんて、その者が気の毒だし、わたしも辛い』
『ですが、片翼さまがいらっしゃれば、アウィルドさまは風の力を使えるようになるのでしょう?』
『片翼は力を使うための道具じゃない。笑いもすれば泣きもする、血の通った人間なんだ。その人だけの人生を生きるべきだとわたしは考えている。……フィーネ殿はもし、ある日突然、片翼になれと命令されたらどう思う? わたしなら絶対に嫌だ』
『そうでしょうか。アウィルドさまの片翼だったら喜んでなるけどなぁ。そうしたら、いつもずっと一緒にいられるのでしょう?』
フィーネの答えに、アウィルドは目を丸くして口を引き結んだ。何かもの言いたげな様子でフィーネを見つめると、すぐに俯いた。
『アウィルドさま? 私、もしかしてアウィルドさまを怒らせるようなことを言ってしまったのでしょうか』
『……っ』
『アウィルドさま、あれ、どうしたんですか! 耳が赤いじゃないですか! もしかすると体調がすぐれないのではありませんか!?』
『う、うるさいな! そなたみたいな変な奴なんか絶対にごめんだ!』
『そんな、ひどい!』
『ひどくなんかない! わたしはそなたが片翼じゃなくて本当に良かったと清々してるんだ!』
『……っ、アウィルドさまの意地悪! 馬鹿! 頓珍漢の冷血漢!』
『なんだって! もう一回言ってみろ!』
あの後のことを思い返してフィーネはくすくすと笑った。
「……今思うとあの後の喧嘩は本当に意味不明だったな」
ぽつりと呟いてふと顔を上げると、いつの間にか、空が白みはじめていた。漆黒の闇は蒼くうすぼんやりとした光を帯び、空気そのものが輝いているようで綺麗だ。
もうじき王宮内の者は目を覚まして動き出すことだろう。それなのに、自分は夜を明かし、日の出を迎えてしまうところだ。
昼間の熱気は容赦なく体力を奪いにくるので、日がなく涼しいうちに身体を横たえて少しでも休んでおかなければならない。しかし、目が冴えてしまって思うように眠気が訪れてくれないのだ。
ふと、どこからか鳥が鳴く声が聞こえた。ちりちりと小刻みに調子をとる音色は規則正しくて愛らしい。
しばらくその声に耳を傾けて目を閉じていたが、どうにも落ち着かない気分だったので、フィーネは寝台の下のサンダルを履いて窓に近寄り、外の景色を見た。
王都の東側の高台に位置する白鴎宮からは、遠くに海が見える。夜明けの白い空と、海の境にきらきらと金色の輝きが見え始めていた。もうすぐ日が昇ってくる。
しばらくの間、感傷に浸るように眺めていたが、どこからか何かを引きずるような音がしたため、視線を階下に向けた。すると、二人の男が前後に並んで歩いているのが見えた。
どちらの男もフィーネにとっては見覚えがある人物だった。
一人は、背の高い自称第三王子――実際には国王だ。彼は変わった杖を持っていた。祭祀用の金色の長い杖で、細長い白の布が五枚くくりつけられており、風になびいた。
もう一人は、最高神官長。フィーネに対して何らかの嘘をついていることは確実な謎多き信用してはならない人物だ。
二人とも何をしているのだろうか、とフィーネはその動きを目で追った。
ラキアは最高神官長を引き連れて歩いていた。右手に持った杖で地面の土をひっかき、線を描く。三歩進むと杖を持ち上げ、柄を地面に突き立てる。レリファ=シシカは手桶から柄杓で杖の軌跡に水を撒く。その動作をひたすら繰り返しながらそのまま二人はどこかへ向かっていってしまった。
毎朝聞こえていた何かを引きずるような音と、昼間散策していた時に見つけた建物の周囲に描かれた謎のひとつながりの線の正体はこれだったのか、と馬鹿祭り八日目にして、ようやく理由を知ることができた。フィーネは少しだけすっきりとした気分になった。
どうやら二人は何らかの儀式をしているようだ。
「日の出前からご苦労なことだな」
ひとりごちながら、フィーネは昨日ラキアに怒鳴られたことや、夕食の席で無視されたことを思い返した。
結局彼には謝っていない。だが、謝るつもりもない。あんな分からず屋、どうにでもなれというものだ。
だが、いくら強がってみても、アウィルドの冷たい態度を思い出す度に胸が痛み、目頭が熱くなった。
朝焼けを眺めながら、しばらく声を殺して泣いていたフィーネだったが、急に頭に痛みを覚えてその場にうずくまった。
目の前がくらくらして世界が回り、吐き気に似た気持ち悪さを感じながら這うように寝台に戻った。寝台に上がる気力もなく、しがみつくような体勢のまま、目を閉じるまでもなく、フィーネの意識は遠退いていった。
ふいに歌が聞こえたような気がして意識を取り戻すと、傍らでヒレナが刺繡をしていた。
「お目覚めですか?」
「私は……」
「昨日はお疲れだったのでしょう。上半身だけ寝台に伏せた状態で眠っておられましたよ」
無様なところを見せてしまったな、とフィーネは反省した。目元に腫れぼったい熱が残っているが、額を冷やしてくれる濡れ手拭いの心地よさのおかげでだいぶ楽になった気がする。
「……ヒレナ、いまは何時?」
「十一時です。お身体の調子はいかがですか?」
「……良くなったよ。遅くなってしまったけど、今からラキア様を尾行しに行ってもいいかな?」
ヒレナは眉尻を下げてフィーネの額の手拭いを手に取ると、桶の水にくぐらせて絞った。そしてそのままフィーネの目の上にべちゃ、と乗せてきた。
「ちょっと……ヒレナ!?」
「いけません。あなたはどうせ顔に薄布を被るからべつに構わないと仰るかもしれませんが、今はこのまま目を冷やしてお休みください」
「でも、今日でもう八日目だし、折り返しなんだよ。それなのに、私はまだ何もできてない。それどころかラキア様と喧嘩したままなんだ。このまま寝込んだらあの人の言い分の方が正しかったと認めざるを得なくなる。そんなの悔しいし、負けたくない」
「……ファーシャ様。それでもどうかお身体を休ませてください。今のあなたはとても傷ついておられます」
「傷って……痣ならもう痛くないし、ゆっくり眠らせてもらったからもう元気だよ」
「女侍医のスニーシャ様が診てくださいましたがあなたは今横になっているから症状があまり出ていないだけです。身体を起こせば眩暈がしてくるはずです」
「そんなことないよ。だって私は医師だもの。自分の体調くらい管理できないなんてへまはしないし見誤ったりもしない」
ヒレナはしばらく返事をしてくれなかった。ただ、瞼を冷やしてくれる濡れ手拭いはひんやりとして浮腫んだ瞼の熱を取り去って心地が良いのも事実だった。
「……ファーシャ様。今のあなたは、軽い暍病を患っておられます」
「そんなはずないよ」
と反論してフィーネは勢いよく上半身を起こした。だが、視界が回り、鳩尾に気持ち悪さを覚えて口を手で押さえた。
すぐにヒレナが身体を支えてくれて、元のように仰向けに横たわった。
「どうして……」
「ご無理が祟ったのでしょう。そもそも、元々過労状態だったところに奇病の発作が重なり、暍病に悪化したのでしょう。おそらくもう限界かと」
「限界って言われても……私は……」
「ファーシャ様。ここに来てからのあなたは殿下の雑言に耐えたり、片翼としての重責からか、いつも落ち着かない様子で常に動き回ったり、普段はそれほどご自分からは積極的に見知らぬ相手に話し掛けたりなさらなかったのに王宮内の者と積極的に関わりを持とうと毎日とても頑張っておられたのをお側で見ておりました。最近では殿下とお喋り悪魔の木狩りに挑まれてとても楽しそうなご様子で安堵しておりました。ですが、奇病の発作と毎晩の悪夢に蝕まれてあまりお休みにはなられていなかったでしょう?」
「……奇病も悪夢もしょっちゅうだし、そんなくだらない理由でお役目をさぼるわけにはいかないしそうしたくないんだ。だから――」
「アウィルドリーシャを助けることがそんなに大事ですか?」
「え?」
「あなたにとって、あの男は何ですか? どうしてあなたが傷ついてまで……目を腫らすほど泣いてしまうほどあなたを悲しませるような、不誠実かつ陰険な屑を助けなければならないのですか!?」
「……ヒレナ?」
「あなたはまだ十五歳です。年齢で成年の儀を済ませてはおりますが、あなたはまだ初花も迎えていない子供です。それなのに、あなたは理不尽な理由で無理やり大変な役目を押し付けられ、この国のため、幼い日の恩人のため、と引き受けておられる」
「それはだって……」
「一昨日と昨日の件もです。昨日はお側を離れてしまったわたくしにも非はございます。ですが、どうしてあなたが他人の傷を引き受けて治さなければならないのですか!? 聞いた話ではヘーシャ殿のような緊急性はなく、どうせ何日かすれば勝手に治るような傷ばかりだったではございませんか! あんなわがままなんて無視してしまえば良かったのです!」
「ヒレナやめて!」
フィーネは懇願するような声で叫んだ。
「お願いだから、ヒレナまでそんなこと言わないで……」
フィーネは目の前の視界がゆらゆらとしてきた。鼻が詰まり息が詰まり、頭が痛む。せっかく泣き止んだというのにまた涙が出てきてしまったではないか。
「……申し訳ございません。泣かせてしまうなんてわたくしは侍女としてあるまじき態度をとってしまいました」
「……ごめん、ヒレナ。しばらくひとりにして」
「ファーシャ様?」
「ヒレナは悪くない。私を心配して言ってくれたことだとわかってるよ。でも、ヒレナにまでそんなこと言われたら私がしたことは良くないことだったんだ、と突きつけられてるようで虚しくなる」
「いいえ、ファーシャ様! わたくしはあなたに傷ついてほしくなくて――」
「私のすることを全肯定してほしいわけじゃないし、むしろ無茶なことをしたら止めてほしいんだ。でも、今はそんな言葉聞きたくなかった」
フィーネは掛け布を頭まで被ると耳を塞いだ。ヒレナは何か言っていたが、しばらくすると諦めたらしく、何も言わなくなった。
彼女はそっとフィーネの頭を撫でてから、部屋から出ていった。




