五章 秘密を抱える者 (14) 怪しい転倒者
ヒレナから諭され、ひとまず緑水宮に戻ろうとしたフィーネは清泉舎の出入口の階段を下りた。
すっかり日も短くなり、西の空の残照が遠い山並みの影を浮かび上がらせていた。
ヒレナは手持ちの夜明真珠のランタンで足元を照らしてくれた。
「暗くなってきましたからお気をつけて」
「ありがとう」
しばらく渡り廊下を歩いていると急にヒレナが足を止めてフィーネを手で制した。
「どうしたの?」
「闇に紛れてなにか不審な気配がします。すぐにわたくしの右に回ってください」
フィーネは頷き、指示に従った。ヒレナは隠し武器を仕込んである髪の簪を抜くと、右手に構えた。
ざくざくざくと、何かが茂みを踏み分ける音が近づいてきた。怪しげかつ、妙に素早い足音だなと思った次の瞬間、向かって左側の茂みの方から
「うわぁ!」
という男性の叫び声が聞こえてきて二人はぎょっとした。
咄嗟にヒレナがランタンを向けると、茂みの前で文官が一人ひっくり返っていた。青色の下級官吏の服装を纏った二十歳ほどの年頃の青年は、右手首が不自然な方向に曲がった状態で呻きながら虚しく夜空を仰いでいた。
ヒレナは簪を構えたままフィーネを背に庇ってくれていたが、フィーネはさっさとヒレナの後ろから出て青年に歩み寄った。
「どうかなさったのですか?」
「それが……」
彼は転倒した際に手首を変な方向に捻ってしまったようで、起き上がろうと右手を地面についた途端に悲鳴を上げた。
彼を起こそうとしたがヒレナに退かされ、彼女が青年の左腕をやや乱暴に引いて起こす様子を見守った。ヒレナは簪を髪に挿し直すと、やれやれとため息をついた。その脇から滑り込むように近づいたフィーネは青年の右手首の具合を確かめようとそっと指先で触れた。
「いたたたたたたっ」
「すみません!」
フィーネは手を離したが、彼は目を細めて涙を浮かべていた。
「どうしてこんなところで転んでおられたのですか?」
「それが……」
彼には意中の女官がおり、祭りの期間を利用してどうにか好意を伝えたいと考えていたという。その相手は、清泉舎の管理をしている女官のうちの一人とのことで、彼はこっそり覗き見していたという。
「下女襲撃事件の直後というのに恋だの愛だのうつつをぬかすばかりか待ち伏せとは、なんと愚かなことでしょうか」
「ヒレナ!」とフィーネは小声で窘めた。
「ファーシャ様、もしかするとこの男が犯人かもしれませんよ」
「え!? ぼくですか!?」
「ちょっとヒレナ! それは言い過ぎだよ」
「ええ。ですが、この者の軽率な行動は、そのように見做されても言い逃れ出来ないような不審さがございます。清泉舎は陛下やファーシャ様、セイファン様のような王宮でも最高位の方々が利用なさる沐浴施設でございます。その周囲を、しかも闇に紛れてうろつくような殿方は信用なりません。衛兵に引き渡しましょう」
「そんなぁ……」
ヒレナの冷たい態度に青年は今にも泣き出しそうな顔で地面にへたり込んでしまった。
「待って。ねえヒレナ。確かに彼の行動はものすごく不審きわまりないかもしれないけれど、確か馬鹿祭りというのは無礼講というのか、普段より身分や所属による隔たりが緩むから愛の告白をするにはうってつけの期間だって、サラーから聞いたよ」
「それは、官吏で協力して徽章を集める時の話です。この者の異常さは事件の調査が行われている現在においてこそこそと物陰に潜んでいるところです」
「確かに彼の行動は褒められたものじゃないかもしれないけれど、いきなり衛兵に突き出さなくても……」
青年はフィーネに縋るような目を向けた。
「それに、うっかりぬかるみに足を取られて転ぶなんて、犯人にしては……その、失礼だと思うけど間抜けすぎる気がする」
「間抜け……」
「すみません! 言い過ぎました」
「いえ。……事実でございますので」
青年はただでさえ細い目を糸のようになるほど細めて肩を落としてうなだれた。
「あなたはお人好しが過ぎますよ。この間抜けな態度すら、こちらの警戒心を解かせるための演技の可能性もございます」
「でも、もし仮に彼が何かよからぬことを考えていたらどうなさるおつもりですか」
ヒレナはなおも青年を警戒し、鋭い視線で見下ろしていた。
仕方ない、とフィーネは苦笑し、膝を曲げて縮み込む青年と目を合わせた。
「あの、差し支えなければあなたのお名前を伺えますか? それと、あなたが想いを伝えたかったという女官についても教えてくださいますか?」
「……ぼくは宮廷財務局所属、下級文官のプンポ・カムと申します。そして、相手は……」
彼は顔を赤くして、もじもじし始めた。当然のようにヒレナは鷲のような鋭い一睨みを放ち、カムは「ひっ」と恐怖の声を漏らし、慌てて女官の名を告げた。
「全く、近頃の若い者はろくでもありませんね」
「ヒレナ……あなたも若いよ」
思わずつっこみを入れながら、フィーネはプンポの手を取った。少しずつ腫れてきている手首は痛むようで彼は反射的にフィーネの手から逃れるために手を引っ込めようとしたがフィーネも負けじと手に力を込めて動きを封じた。
「ヒレナ、彼が怪しいかどうかは腕輪で治療すれば簡単にわかるよ。記憶が見えるんだから」
ヒレナが問い返す間もなくフィーネは腕輪の治癒の力の呪文を唱え、いつものように左手の人差し指の先に灯った小さな光を手首にそっとあてがった。プンポは自身の身体が光り始めたことに戸惑い、ヒレナに視線で助けを求めた。
次の瞬間、フィーネの右手首に黒い痣が生じ、フィーネは押し殺した悲鳴を漏らした。
ヒレナの焦る声がすると同時にフィーネはプンポがこの渡り廊下の脇の茂みまで来てぬかるみに足をとられて真後ろに転倒するまでの一連の記憶を見た。
「ファーシャ様、お加減は?」
「今回は大丈夫だよ。それより、カム殿は嘘は言ってなかったよ」
ただ、彼の視界は全体的にひどくぼやけていたのが気がかりだった。
「ファーシャ様、あの……。ぼくの手の痛みがすっかり無くなったのですが……」
「あなたの傷は私が貰いました。手首の損傷は治っています。だからもう普通に動かして大丈夫ですよ」
「そんな!? ファーシャ様!? ……ぼく、わたくしの傷を治してくださったのですか?」
「あのままだと腫れそうだったし、あなたは文官ですから、右手が使えないと不便でしょう?」
「……ありがとうございます。わたくしの不注意であるにもかかわらず、このような恩寵を賜り、恐悦至極に存じます。片翼様の尊き御力によって、この通り傷も癒えました。この御恩、生涯忘れません」
生涯とは大袈裟な、と苦笑を浮かべそうになったが耐えた。しかし、顔を隠す布を垂らしているのでどのみち無意味な努力なのだが、見えずとも何となく雰囲気というものは相手に伝わるものだ。
「もう痛みがないなら良かったです。ところでカム殿は目は――」
あることを確認しようとしたのだが、背後から女性の声がして遮られてしまった。
「プンポ?」
「マリーシャ殿!」
清泉舎の女官であるマリーシャ・ロクサは大きく丸い目をさらに丸く見開いていた。
「ファーシャ様!? 先ほど緑水宮へお戻りになったはずでは……」
「ロクサ殿、お二人はお知り合いだったのですか?」
「はい。ですがあの、わたくしには今ひとつ事情が把握できないのですが……」
戸惑いのため、マリーシャの妙齢の女性らしい花の容がやや曇っていた。
「ええと、ロクサ殿? カム殿があなたに話があったそうで、ここで待つつもりだったようですが、うっかりぬかるみで滑って転んでしまったようなのです」
マリーシャは目を見開くとプンポに詰め寄った。
「だからいつも言ってるでしょう! あなた、目が悪いんだからハクセキレイみたいなトコトコとした歩き方じゃなくてちゃんと足の裏全体で地面を踏みしめてって。それに、前かけてた眼鏡はどうしてしまったの!」
「だってマリーシャ……眼鏡なんてかけたらぼくのこの醜い顔がさらに醜くなってしまうよ」
「だからって目を細めて歩いている方が醜いわよ! あなた、眼鏡をかけているほうが百倍素敵だわ」
「マリーシャ……」
二人のやり取りに完全に置いてけぼりを食らったフィーネとヒレナは呆れながら顔を見合わせた。先ほどまで怪しい人物として疑ってしまったことが申し訳なくなるほど、というよりも馬鹿馬鹿しく思えるほど微笑ましい様子を邪魔するのも良くないと思い、黙ってその場を立ち去ろうかと考えた。
「お待ちください、ファーシャ様」
マリーシャに呼び止められ、やれやれと振り返った。
「ファーシャ様、右手首の痣はどうなさったのですか?」
「これですか? カム殿の怪我を治した時にできたものです」
「申し訳ございません! この愚か者にはわたくしから重々注意いたします。ですからどうか、お許し願いたく存じます」
「すぐ消えてしまうから気にしないで。それよりも、頭を上げて」
「ですが……お肌にそのような……」
「大丈夫。カム殿の怪我を治すことができて嬉しいんですよ。だから気にしないで」
「ファーシャ様……」
「カム殿が眼鏡を掛けなかったことは好ましくない行いだったと思うけど、彼なりに色々と悩んでいるようだから、あまり責めないでもらえると嬉しいな。それと、もしかしてこの後二人で一緒に夕食を食べる予定だったのでは?」
二人は無言で顔を見合わせると互いに別の方向へ目を逸らした。
「さあ、早く夕食をいただきましょう! ということで、私とヒレナは先に帰らせてもらいますね」
どうにか話を切り上げられたぞ、とフィーネは喜んだ。先ほどまで腹の中で燻っていた炎はなりを潜め、今はとてもぺこぺこな状態で緑水宮に急いで戻ったのだった。
フィーネが借りている治癒の腕輪の力ですが、こういうちょっとした怪我を治すのには便利ですよね。
ですが、一人治したらおそらく、他にも治してほしいという人が現れるはずです。
「塵も積もれば山となる」ではありませんが収拾がつかなくなったら彼女はどうするつもりなのでしょうね。




