五章 秘密を抱える者 (13) 風玉輪の矛盾
午睡を終えた後、フィーネは午前中に約束した通り、侍医長のドウゴがいる医務室を改めて訪れた。
彼は鍋で器具を煮込んで消毒している最中だったが、すぐに作業を部下に引き継ぐと、フィーネを休憩室に案内した。
「こちらからお呼びしていたにも関わらず、慌ただしい様子で申し訳ありません」
「いいえ。こちらこそ、お忙しいなかお時間を取らせて申し訳ございません」
彼は麝香猫を模した『医師の仮面』を外した。大きく真っ赤な鼻と、八十歳近い年齢によって刻まれた皺に埋もれているが優しげな黒い瞳が印象的な老医師だった。
円卓にはフィーネとドウゴの二人のみ。他の者には外で待つよう、ドウゴが命令したのだ。
出された紅茶を一口飲み、いくらかの挨拶を済ませた。
ドウゴは居住まいを正すとさっそく本題を切り出した。
「改めて、わたくしがあなた様にお話ししたき事柄は、先日の下女襲撃の件についてでございます。ファーシャ様は、言い伝え通り、奇跡の力をお持ちなのですね」
フィーネは肯定とも否定ともつかない苦笑で応じた。
「どうでしょうか。奇跡というにはいささかおどろおどろしいことになっているのですが」
ははは、とわざとらしく笑うと彼は「いいえ」と首を横に振った。
「ファーシャ様も一目で理解なさっておられたようですが、ブム殿の傷の具合は死の一歩手前の状態でした。もはや痛み止めで眠らせて最期を待つことしか我々には出来なかったことでしょう。ですがあなたはたった一瞬で、傷を塞ぐどころか跡形もなくしてしまわれた。それはまさに、古から語り継がれてきた『片翼様』のお姿そのものであると、わたくしは感銘を受けました」
「……ありがとうござい、ます」
フィーネを本物の片翼だと信じ、やや興奮気味なのか早口かつ熱のこもった様子で語るドウゴの態度にフィーネは胸の奥に棘を刺されるような痛みを覚えた。
「あの後、ブム殿は奇妙なことを申したのです」
「奇妙なこと、ですか?」
「はい。ブム殿は、自分を襲った相手は剣を持っておらず、杖を持った人物がいたかと思ったら急に身体を斬られたのだそうです」
「杖ですか?」
「ええ。その杖が光った瞬間に、離れた場所にいたはずの彼女はあの状態になったと証言したのです。そして、ここからが本題となります。わたしは長年、王宮の侍医を任されており、様々な傷病者の治療に携わって参りました。その間に、わたしはとある人智を越えた傷に出会いました。ブム殿のあの傷に似た種類の傷について、よく見覚えがございます。あれは人ならざる者による力、風による傷なのです」
「え!?」
突拍子もない一言に驚くフィーネを見て、ドウゴも驚いた様子を見せた。
「ファーシャ様は片翼の心得として、最高神官長様かどなたかから、風の聖霊の話を伺いましたか?」
「はい。セイファン様から少しだけですが教えていただきました」
「では、具体的に風の聖霊がこれまで何をしてきた存在であったのかも、聞かされましたか?」
「片翼がいない翼王は風の聖霊の力をうまく扱えないこと、故意に危害を与えようとした者の命を容赦なく奪おうとすることと、ここ最近は暴走がひどくなっているということは伺っております」
「宰相殿はそこまであなた様にお伝えしておられるのですね。では、はっきりお伝えしますが、ブム殿の傷は、風の聖霊がもたらす傷と酷似しているのでございます。そして、仮にその通りだとすると、困ったことになります。本来、陛下しか扱えぬはずの力をなぜその黒外套が使えたのか。黒外套の正体は一体誰であったのか。……もちろん、陛下でないことは確かでございます。ですが、もしかすると、杖についていた玉飾りというのは『風玉輪』ではないかと、にわかには信じがたいながらもそう思わずにはいられないのです」
彼の説明によると、彼が知る限りでは、風玉輪は片翼の選定に用いられる王国の秘宝であり、元々は風の女神が天の主神から賜った金の腕輪を飾っていた宝玉だという。風の力を宿しており、片翼が触れれば金の腕輪の姿を取り戻し、片翼が一生を終えると王宮内の星見の間という最重要の神殿に安置されて、常に風を吹かせて気候を安定させたり、王都の極度な気温上昇を抑えたりして次代の片翼が現れるまで王国を守護してくれるという。
――あれ?
ドウゴの話を聞いているうちにフィーネは違和感を抱いた。
彼の話によれば、風玉輪とは普段は宝玉の姿で神殿に存在していることになる。では、今フィーネの左手を飾っているこの金の腕輪は一体何なのだろうか。
ユリフェ邸で最高神官長は、魂と魄という魂魄を構成する要素を用いてこの腕輪の存在理由を説明してくれた。初代片翼かつ初代国王のオルレガが一生を終えた際に、彼は風玉輪の力の大半を彼の精神とともに死後の世界に持ってゆき、残滓として半身がこの世に留まったものだと話していた。
侍医長の話と最高神官長の話。この二つは矛盾しているのではないか。
「ファーシャ様? なにか考え事でございますか?」
「え!? いいえ」
フィーネはうっかり口から出そうになった問いを喉の奥に飲み込んだ。ドウゴはフィーネを『本物の片翼』だと思っているのだ。今し方浮かび上がってきた疑問を彼に問うことはできない。
それに、フィーネも一度だけだが、かつて風玉輪を間近で見るどころか、触れたことがあるのだ。フィーネだけではない。立太子の儀で招かれた諸侯の親族である同年代の少年少女達も同じように先王に促されるまま触っていた。だからこそ、風玉輪が王宮の神殿で保管されているというドウゴの話が偽りとは考えづらい。
それなら、この腕輪は一体何なのだ。それに、今更になってフィーネはすっかり見落としていたあることを思い出した。
――風玉輪は十五年前に失われている。
確か、セイファンや、『鳥の渡り』と思しき夢の中でアウィルド本人がそう語っていなかったか。
ならば、立太子の儀で皆が触った風玉輪は何だったのだ。そして、フィーネの左手首に重責と重罪とともに巻き付いているこの腕輪は一体――。
何故気づかなかったのだろうか、とフィーネは後悔した。仮の推測でしかないのだが、立太子の儀で披露された風玉輪は本物ではなかったのではないだろうか。そして、昨晩のセイファンとアウィルドが何故か取り乱していた理由もおおよそ察しがついた。
「ファーシャリーシャ様」
彼は囁くほど小さな声で言った。
「じつのところ打ち明けますと、わたくしは陛下よりあなた様の本当の事情を知らされております」
張り手で打たれたような衝撃が身体じゅうを駆け抜けたが、フィーネは驚きを顔や態度に出さぬようドウゴの瞳を強く見つめて耐えることだけに集中した。
「ですが、あなた様はその腕輪の力によって奇跡を実現させてくださいました。感謝申し上げます。それとどうか、お気をつけてくださいませ。ブム殿を襲った黒外套の目的ですが、もしかすると、あなた様が真の片翼様であるかどうか見極めると同時に、ブム殿とそれなりの面識のある陛下に対して挑発するために、敢えて彼女を襲ったのではないかと、わたくしは推測しております」
「それはつまり……」
「次に襲われる可能性があるのは、ファーシャ様である可能性がとても高いということでございます」
ドウゴとの話が終わり、医務室から緑水宮に戻る廊下を歩きながら、フィーネは怒り混じりの暗い気持ちを抱いていた。
なんということだろうか。
ヘーシャが襲われた理由がドウゴの推測の通りならば、それはすべて自分のせいだ。
片翼候補を亡き者としたいのならば、最初から直接フィーネを狙いにくれば良いものを、無関係の下女を襲うとは卑劣きわまりない。そして、本来、フィーネの役割は片翼を狙う者の目を引きつけることにあったはずだ。にもかかわらず、ヘーシャに傷と恐怖を負わせてしまった。それが許せず、フィーネは怒りを噛み殺していた。
「ファーシャ様? ドウゴ様と一体何を話されたのですか?」
ヒレナは心配するように問い掛けてくれたが、今のフィーネはすっかり頭に血が上ってしまっていた。
ドウゴとの話が終わり、医務室から緑水宮に戻る廊下を歩きながら、フィーネは怒り混じりの暗い気持ちを抱いていた。
なんということだろうか。
ヘーシャが襲われた理由がドウゴの推測の通りならば、それはすべて自分のせいだ。
片翼候補を亡き者としたいのならば、最初から直接フィーネを狙いにくれば良いものを、無関係の下女を襲うとは卑劣きわまりない。そして、本来、フィーネの役割は片翼を狙う者の目を引きつけることにあったはずだ。にもかかわらず、ヘーシャに傷と恐怖を負わせてしまった。それが許せず、フィーネは怒りを噛み殺していた。
「ファーシャ様? ドウゴ様と一体何を話されたのですか?」
ヒレナは心配するように問い掛けてくれたが、今のフィーネはすっかり頭に血が上ってしまっていた。
しばらく歩いて緑水宮が見えてきたが、どうにも腹の虫の居所がおさまらないフィーネは清泉舎で頭を冷やすことにした。
ヒレナは驚いた様子だったが、何も言わずに頷いて清泉舎まで案内してくれた。
フィーネは身の汚れを清めた。それから、勢いよく浴槽に足から飛び込んだ。きんと冷えた水に全身を浸し、そのまま息を止めて頭まで潜った。
清泉舎の女性用冷浴室で一番深い泉に蓄えられた清らかな湧水は、華奢で小さな身体を、その身の内に燻る怒りごと優しく包み込んでくれた。鼻から息とともにぶくぶくと泡が上ってゆく。息を吐ききったらしばらくそのまま止めて、底を蹴って水面に顔を出して息を吸い、再び水中に潜った。
何度か繰り返すうちに燻る苛烈な炎は熾火に変化し、やがて静まり返った。
髪を乾かすため、談話室に戻るとヒレナが躊躇いがちに声を掛けてきた。
「ファーシャ様、お加減いかがですか?」
「充分頭を冷やせたからもう大丈夫」
「ですが、ドウゴ様と何があったのですか」
「ヒレナ、急に変なことを始めてごめんなさい。それと、ドウゴ様に怒っている訳じゃないんだ。ヘーシャ殿を襲った犯人について話していたんだけど――」
フィーネの話を頷きながら聴き、ヒレナは息をついた。
「その可能性はあり得そうですね。ですが、ヘーシャ殿を襲った黒外套が悪いのであって、あなたには関係ないことでなにも悪くはないはずです」
「それはわかっているんだ。でも、頭で理解は出来ても心は許せない。腕輪の力があったからヘーシャ殿の命は助けることができた。でも、取り返しがつかないことに彼女の心に大きな傷が残ってしまったんだよ」
「そうですね。では、これからあなたはどうなさるおつもりですか」
「犯人を探す」
思いのほか鋭い口調で出た言葉にフィーネは自分で驚いた。
「どうやって探すおつもりですか? 手掛かりは何もないのですよ」
「それなら、こちらから出向いていくまでだよ。王宮の端から端まで歩き続ける。向こうが狙ってくれればそれで良し。こなければまた別の手を考えるよ」
ヒレナは深々とため息をついた。フィーネは頭に血が上ると人の話を聞かないきらいがあるが、ここまで無謀な策を実行しようとするのはとても久し振りだ。
「ファーシャ様。以前わたくしにご相談くださった話をお忘れでしょうか。確か、最高神官長様から、絶対に無茶をなさってはならない、と忠告されていたはずではありませんか?」
「それはそうだけど……」
「犯人でしたら宰相様や陛下が探してくださっております。ですから、今はひとまず緑水宮に戻りましょう。今夜のご夕食が待っておりますよ」
フィーネはなおも納得できずにいたが、ふつふつと再び沸き始めた怒りは自分の無力さと未熟さに対するものであると強く自覚しているのもまた、事実だった。




