五章 秘密を抱える者 (12) お人好しも大概にしろ!
医務室を後にすると、フィーネはヒレナとともに鶯の間に向かった。入室すると、セイファンとダウレス大臣がおり、昨日の事件があった時間帯にどこで何をしていたのか尋ねられた。その問いに適宜答えると、すぐに解放された。
鶯の間を後にすると、そのまま清泉舎に行って沐浴した。沐浴用の麻の薄衣姿で冷たい水に全身を浸している間、ずっと頭の中ではヘーシャのことを考えていた。
彼女の恐怖にひきつらせた顔を思い出すと、やるせない気分になった。
そのうちに、フィーネの思考はヘーシャを傷つけた者が誰なのか、ということに移っていた。あの黒外套の背丈はどれくらいだったか。記憶をたぐり寄せて、考える。
改めて彼女の身長を確かめたが、ヘーシャはフィーネよりもずっと背丈が大きいようだ。あの黒外套はやはり、男の可能性が高いだろう。だが、性別がわかっても王宮には男が多すぎる上にヒレナのような背の高い女もいるかもしれない。だからこそ、背丈だけから犯人を特定することは難しい。また、外套の中に詰め物をしていれば体型も誤魔化せる。
また、どうして彼女だったのだろうか。
賊は明らかにヘーシャを待ち伏せしていた。少し前に同僚のヌナーシャが廊下を通っていた。通り魔的な犯行であれば、襲う相手はヌナーシャでもよかったはずだ。だが、そうはしなかった。おそらく黒外套は最初からヘーシャを狙っていたのだ。
フィーネの世話係の女官のルラは、ヘーシャの友人だ。彼女は友人の負傷の報せを聞くと、ひどく動揺していた。無事であることを知るとほっと安堵の笑みを浮かべ、大粒の涙をぼろぼろとこぼしながらフィーネに何度も頭を下げて感謝を述べた。
彼女の知るところによれば、ヘーシャ・ブムはヴェシス領領都の洗濯屋の生まれで、特筆して何か訳ありなわけでもなく、この国の民としてはごく平凡に育ったという。彼女が王宮勤めをするようになったのは、持ち前の洗濯技術を生かして暮らしを豊かにしたいという理由からだったらしい。
王宮内での彼女は地味ではあるが、真面目かつ正確に職務をこなし、人間関係も良好だったという。
ただ、彼女は目立たない下女だったが、王宮じゅうでよく知られた存在でもあった。
昨年の馬鹿祭りでファムを務めたからだ。
アウィルドとともに順調に五つの宝物を見事集めきったことで、もちろん冗談ではあるのだが、少なからず負けて悔しい官吏たちからの恨みを買っていたのは事実だという。それでも、妬まれたり虐められたりしたことは一度もなかったし、異性関係の問題もなかった、とルラは力説していた。
彼女が狙われた理由はわからないが、アウィルドと少なからず面識があることが理由のひとつではないか、とルラは推測した。
『ファーシャ様、もしかすると犯人は陛下に対して何らかの恨みがある人物かもしれません。でなければ、彼女が襲われる理由なんて考えられません』
髪を乾かすために談話室に移ってもフィーネは長椅子に腰掛けながら考え続けた。
帯剣を許されているのは国王と国王の許可を得た一部の王族とその護衛の兵士のみ。他は入城の際に剣を預ける決まりになっている。王宮内の兵士も、捕縛に専用の道具は使うが、剣は許されてはいない。
さらに、鶯の間でセイファンから聞いた話によれば、犯人がヘーシャを襲った方法は剣によるものとは考えにくいとのことだった。
確かにフィーネが目視で確認した彼女の傷は、鋭利な刃物によるものではなかった。鈍な肉厚の剣による裂傷かとも思ったが、それにしては切り口がぼろぼろすぎた。一瞬のうちに鑢のようなもので削られたような、乱暴な断面だったのだ。
やはり、ヘーシャの記憶で見た謎の杖から放たれた光による魔術のような攻撃が原因だったのだろうか。
しかしながら、魔術の知識などほとんど持たないフィーネには、それ以上深く事情を探ることが出来なかった。
それからずっと、あれやこれやと考え続けていると、ふと、誰かが部屋に入ってくる音に気づいて顔を上げた。
戸口に立つ青年の少し不機嫌そうな顔を見てフィーネは首を傾げた。
「ラキア様?」
彼はこちらを一瞥すると、顔をしかめた。
「……今朝方部屋にいないと思ったら、ブム殿のところに行っていたらしいな」
彼はどうして不機嫌そうなのだろうか。その理由を目から探ろうと見つめながら頷いた。
ラキアもしばらくこちらの顔を見ていたが、ややあってからぼそりと言った。
「……具合は良くなったのか?」
「はい。ですが、まだ、襲われた時の記憶が鮮明みたいで怯えているようでした。斬られたのですから当然かもしれませんが、早く元気になってくださるといいのですが」
フィーネの返答にラキアは何故か口をへの字に曲げて頷いた。
「……そうだな。あの様子だとしばらくの間は日常生活もおぼつかないかもしれない。彼女にはしばらく護衛を付けるか、本人が希望するなら一旦里下りも視野に入れた方がいいかもしれない」
「そうなのですね。なんて酷いことを……。早く犯人を捜さないといけませんね」
「そうだな。その件については調査中だ」
「わかりました。何かわかったことがあったら私にも教えていただけますか?」
彼はどうにも虫の居所が悪いのか、ずっと不機嫌そうな顔を浮かべていた。だが、急に左右に視線を動かして口を横に曲げた。
「……ところで」
「なんでしょうか?」
「……いや、あの……その……」
表情は不機嫌なままだが、彼はもじもじとした様子で奥歯に物が挟まったような言い方をした。
「何ですか? 何か言いにくいことでもあるのですか?」
「ええと……」
どことなく煮え切らない態度に不信感を覚え、眉をひそめた。
「だから何なんですか! はっきり仰ってください!」
「……その、だから……ええと、ブム殿のことも心配ではあるのだが、あんたこそ、もう歩き回っても問題ないのか?」
「へ?」
思いがけない問いにフィーネは間抜けな声を返した。彼の問いに主語がなかったため、フィーネはずっとヘーシャの体調について問われていると思い込んでいた。まさか自分の体調を気遣うものだったとはまったく気づかなかった。
わかりにくいじゃないか、と文句を言いたくなったが、ヘーシャのことばかり考えすぎて勘違いしたのは自分のほうだ、と思い直し、代わりに笑みを返した。
「大丈夫ですよ。この腕輪の力を使った時にできた痣は、半日あれば大半が、どんなに長くても一日ほどで消えてしまうんです。消えれば痛みも当然なくなりますし、もう平気です」
そうか、とラキアは表情を弛めた。一転して穏やかな様子を見せることに戸惑いを覚えながらフィーネは彼の姿をじっと見つめた。
ラキアは今日も相変わらず丈の長い外套を纏っており、見るからに暑苦しい。
「ラキア様も水浴びですか?」
清泉舎に来たということは、当然彼も沐浴をしにきたのだろう。男女で浴場は分かれているのだが、応接間や談話室など、自由に行き来ができるようにいくつか共有できる部屋が設けられているのだ。
「……べつに」
ラキアはフィーネの問いを受けて再び不愉快そうに眉根を寄せた。
「別に、とは何ですか? なんだか腹が立ちますね。ずいぶんご機嫌が悪いようですが、何かあったのですか?」
彼は物言いたげな様子でじっとこちらを見ていた。だが、ふと思い出したように目を見開き、すぐにそっぽ向いた。
「何なんですか!?」
「ひとつ訊ねても良いだろうか。……あんたは……辛くないのか?」
「え?」
「このような場所に連れてこられて、傷を治して代わりに痛みを負わなければならないなど、辛くはないのだろうかと考えたんだ。本当なら、今頃あんたはあんたの暮らしをしていたはずだ。それなのに、あんたは片翼としてここにいる」
彼は眉根をきつく寄せながらこちらを見る。夜の水面のような瞳は哀れみとも苦悩ともつかぬ複雑な色で震えていた。
「辛いですよ」
「なら――」
「でも、ここに来たのもこの腕輪を使ったのも私の意思です。痛い目に遭うことになっても誰かを助けることができるのなら私は喜んでこの腕輪の力を使いたい。だって、痛いことには痛いけれども、私は死んだりするわけではないし、それで誰かの怪我を治せるならものすごくお得な話じゃないですか」
「……っ、お得なわけがなかろう! あんたは馬鹿なのか!? お人好しも大概にしろ!」
「え……」
「いいや、すまない。あんたに腕輪を使わせてしまうような事態を防げなかったことに腹が立ってるだけだ。あんたには感謝している。不甲斐なくて申し訳ない」
彼は俯いて頭を抱えた。黒髪の間から覗く指の力は強く、髪の毛がきりきりと音を立てた。フィーネはどうすることも出来ず、困惑した。同時に、痣の痛みが再発したのか、何故かフィーネも頭が痛くなってきた。
だが、フィーネは立ち上がると彼の目の前まで歩み寄った。
「殿下はお優しいのですね」
「え……」
「だって、あなたが実際に痛みを負うわけではないのですよ。それなのに、あなたは私の境遇に痛みを感じてくださっている。……あなたはとてもとても、偉い御方なのですから、偉そうにふんぞり返って私に、「傷を治せ」と命じることだって出来るんです。ですが、あなたはそんなことは言わずにこんな現状に怒ってくださる。なんだかとても嬉しくなります」
「おれは優しくなどない」
「いいえ。あなたは他人の痛みを心配して寄り添おうとしてくださる。充分にお優しいでしょう?」
「優しくなどない。おれはむしろ……」
俯きながら彼は革靴で石床をぐるぐるとなぞった。
「……あんたは馬鹿だ。自分を粗末にしているだけだ」
「あなたもそう思われますか? じつは、以前も似たようなことで伯父に怒られたことがあるんです。自分を粗末にしてはいけない。おまえの命は両親と先祖と神からいただいたものであり、糧となってくれた命や多くの助けによって生かされているのだから、おまえの命はおまえだけの物ではないのだと。だから、どんな理由があったにしても、自分を大切にしないことはおまえに命を分けてくれた存在への冒涜となる。誰かのために身を捧げたり、自ら犠牲になったりするという行いは尊く賛美されるべきものではあるけれども、その行いによって傷つく者がいることも忘れてはならないのだと」
「そこまでわかっていながら、なぜそなたは無謀な真似をするのだ!」
「なぜって簡単なことでしょう。私は傷で苦しむ人を助けたいからです。もちろん、私だって痛いのは嫌ですよ。痛いとこの世のすべてを恨みたくなる。でも、助けられる力を持ちながら、自分の身可愛さでその力を使わないなんて、そんな無責任なことは私自身が許せないんです」
「そんなこと許していい。誰も責めたりしない」
彼は拳を握りしめた。
「ねえ、もしもラキア様が私の立場だったらどうしますか?」
「それはもちろん……いいや、だからと言って駄目だ」
「駄目とは具体的にどんなことです? 私は馬鹿ですから、はっきり仰ってくださらないとわかりかねます」
「嫌だ。そなたの行いを肯定したくはない」
「……ということはあなたもきっとそうするのでしょう? あなたは自分に厳しすぎる人だから。辛くても泣き言なんてけっして言わない人だから」
「買い被りすぎだ。おれはあんたが思うような奴じゃない」
「そうでしょうか。あなたは気づいていないだけだと思うのです」
ラキアは不機嫌そうにフィーネを睨むと、何も言わずに男用の冷浴室に向かっていった。
彼の背を見送りながら、フィーネは静かに口を引き結んだ。
何故だろうか。フィーネには彼という人間が時々酷く傷ついているように見える時がある。
それと同時に、彼に対して少なからず腹立たしさを覚えたのだった。




