五章 秘密を抱える者 (10) 白昼の襲撃
「お休みのところ申し訳ございません」
午睡していたフィーネは、唐突にヒレナに起こされた。普段とは打って変わって暗い表情の彼女の様子からただならぬ気配を感じた。
「テッタ・ダウレス様がお目通りを願っておられます。なんでも、火急の用件ということでお急ぎを」
ヒレナが話し終わる頃にはすでにフィーネは寝台から起き上がり、寝間着を平服にあらためはじめていた。
「用件ってどんなことかわかる?」
ヒレナが帯を差し出しそれを受け取る。それを締めながらフィーネは状況の説明を求めた。
「下女がひとり、賊に斬られたようで、ファーシャ様に治療をお願いしたいということです」
彼女は淀みなく答え、フィーネの背後に回ると髪を簡単にひとつにまとめた。髪を梳く時間も結い上げる時間もないのでぼさぼさにならない程度の最低限の身だしなみを整えるためだ。
「斬りつけられたって、どうして?」
「理由は不明です」
フィーネはうなじで軽く束ねてもらった髪を掴みながらヒレナに頼んだ。
「わかった。ダウレス殿に、すぐに行くと伝えてくれる?」
かしこまりました、と目礼すると、ヒレナは先に控えの間に向かっていった。
白昼堂々、下女が斬りつけられるなど、一体なにが起きているのだろうか。王宮内は国王やごく一部の人間を除いて帯剣が許されておらず、なかなか刃物による事件を起こすことは難しいはずなのだ。防犯上、国王や王族の命を狙う不逞の輩から彼らを守るための措置だが、見張り番の目をかいくぐった輩がいるというのか。
結い紐で髪を纏めると、顔を隠す冠をかぶってフィーネも後に続いた。
ダウレスという六十過ぎの大臣は控えの間の出入り口に近い場所で立ったまま待っていた。フィーネの姿に気づくと、彼は皺の多い顔にとても申しわけなさそうな表情で頭を下げた。
「お休みのところ申し訳ございません」
「お気になさらないでください。怪我をした下女はいまどちらにいるのですか?」
「恐れながら、現在は医務室に運ばれて治療を受けております」
案内を頼むと彼は短くうなずき、フィーネを導いた。
医務室の簾を上げると、下女は寝台に寝かされていた。二十歳手前と思われる彼女は上衣を身につけてはいるが、襟は大きく開かれており、止血のために胸から腹にかけて巻かれた包帯が覗いていた。血の気を失った顔は苦悶の表情を浮かべ、空気を求めるように大きく口が開いていた。
彼女の名を聞いた時、フィーネは驚きのあまり、思わず聞き返してしまった。
ヘーシャ・ブム――以前ルラから聞いた昨年のファムを務めた下女だった。
「ヘーシャ、どうして!」
普段から仲が良いのだろうか、同い年ほどの下女が傍らで泣き崩れていた。手を強く握りしめていたが、看護官によって仕方なさげにヘーシャから引きはがされる。すれ違い、戸口の向こうに遠ざかる痛ましい声に耳をそむけつつ、入れ代わるようにフィーネは寝台に歩み寄った。
止血のために巻かれた包帯には血がにじみ、胸はせわしなく上下し、呼吸は非常に浅く、弱い。喉から小さな泡が弾けるような音も聞こえる。傷の具合を確かめるために包帯を解いてみると、胸だけではなく腹部や蒼白になった両腕の肌も幾筋もの深い傷で割れていた。頭にも殴られたような傷があった。なんと痛ましいことだろうか。
傷の具合を確かめ終えると、彼女の冷え切った手をしっかり握った。
「なにをなさるおつもりで?」
五人ほどいた医師の中で最高齢と思しきドウゴという老医師はフィーネの行動を問う。
「傷を治します」
「治すと仰られましても一体どうやって……」
言い伝えによると、片翼には他者の傷を癒す不思議な力がある。
王宮に入る前、最高神官長から聞かされた話は現実味が薄いものだった。確かに、フィーネが知る片翼の伝説はいくつもの奇跡に満ちている。けれどもそれはあくまでも物語の中の世界での出来事であり、現実とは思えなかった。
だが、偽の片翼の役目を引き受けることになったあの晩、フィーネはその考えを改めなければならなくなった。フィーネに貸し与えられた金の腕輪には、確かに特別な力が宿っていたのだ。
ただし、奇跡には代償を伴う。この奇跡は負傷者の傷を癒やすというよりは、『傷』という現象と苦痛をフィーネの身体に移すことで負傷者の苦しみを取り除いているようだった。
本物の片翼をアウィルドの横に並ばせる瞬間まで、自分はこの国の全員を欺き続けなければならないのだ。そして、今、目の前でひとつの命の灯火が消えかけている。絶対に死なせてなるものか。
この腕輪の治癒の力はユリフェ家の血をひいた女にしか扱うことが出来ない。このために自分がこの役目に選ばれたのだ。
嫌な沈黙と、下女の呼吸だけが響く部屋でフィーネは静かに息を吸った。
「うつしみうつせみ穢れは我に宿り、この者の疵を晴らしたまえ――」
呪文を唱えると左手の人差し指の先に白い光が灯る。爪の先ほどの小さな光を傷口にそっとあてがう。すると、白い光は下女の肌に吸い込まれて、彼女の身体全体を包み込んだ。まもなく、黒い影が下女の全身を走り始め、フィーネの指先の光に集まり、爪の先からうねりを伴って吸い込まれた。
痛みとともにフィーネの白く透き通った肌が黒く変色していく。下女が負った傷と全く同じ部位に黒い痣が現れた。
ん、と下女はかすかに息をもらした。
小麦色の可憐な顔からは苦痛の表情は失せ、頬には赤みが戻り、穏やかさを取り戻した。
「……信じられない」
見守っていた医師らは目を瞬かせていた。
「これが……言い伝えにきく片翼の力!」
「すごいわ!」
次々呟かれる称賛の言葉をよそにフィーネは下女の傷が消えて呼吸も正常に戻ったことを確かめるとほっと息をついた。そして、次に来る衝撃に備えて身構えた。
直後、下女が味わっていた痛みが一気にフィーネの身体に牙をむいた。
「――!」
「片翼さま!?」
激しい痛みにフィーネは目を剥いて胸を押さえた。傍らにいたヒレナが倒れ込むフィーネの上体を支えるが、フィーネは胸を抱えながらうずくまった。
息ができない。
吸うことも吐くことも出来ない。
手が痛い。
頭に大きな音が響くほどの痛みがする。
大粒の脂汗をかき、猛烈な吐き気を催しながら、歯を食いしばり、フィーネは頭を押さえた。
「ファーシャ様っ、お気を確かに!」
大丈夫だよ、とヒレナに言おうとしたが、声にならなかった。覚悟してはいたが、苦痛は想像以上で、フィーネの意識はそこで途切れた。
王宮に来る前に神殿で、何度か練習のためにこの金の腕輪に宿る治癒の力を使ったが、ひどく扱いづらいものだった。痛みはもちろんのこと、誰かの傷を己の身に移すと、目の前に不思議な光景が見えたのだ。
奇跡の代償なのか、患者が傷を受けた時の苦しみを追体験するというありがたくもないおまけがついていた。
今、フィーネが見ている景色もおそらくは、ヘーシャという下女のものだろう。彼女の目を通して、フィーネはこれから彼女が襲われた前後の記憶を見るはずだった。
昼下がり。午前中とは打って変わって晴れ渡って燦々と陽光が降り注ぐ空。照り返しで屋根の影が白く輝く回廊を彼女は急ぎ足で台車を押していた。台車には大量の布が詰まった大篭が積まれていた。
この後は洗濯物を洗い場に運ぶ予定だ。洗濯物をなかなか出さない不届き者や、寝坊して出し忘れたうっかり者を待っていたために少し時間が圧してしまった。しかしそれも悪くない。これが自分の仕事なのだ。だから、一緒に洗濯物を集めていた相棒のヌナーシャには、遅延の連絡を伝えてもらうために先に文鳥舎の洗い場に行ってもらった。車を一人で押すのはやや重いが、できないことはない。力自慢が取り柄だ。
金糸雀舎から洗い場のある文鳥舎に向かう途中の渡り廊下を進んでいたところ、外から黒い外套に身を包んだ人間が横切るように歩いてきた。その人物は渡り廊下の中央にくると急に足を止めた。
彼女は台車を止めた。何の悪戯かはわからないが、狭い廊下を塞ぐように立たれることは危険かつ迷惑だと少し腹が立った。
黒外套はこちらを正面に向き合った。馬鹿祭りで浮かれているのか、真っ白な目鼻のない、建国記念日に奉納する舞に使う西の魔の王役の仮面をつけていた。右手には先端に丸く大きな玉飾りのついた錆び付いた青銅の杖を持っていた。ガチョウの卵ほどの大きさの玉飾りは遠目に見ても、たいへん美しかった。
あれは夜明真珠だろうか。混じり気のない透き通る無色の珠の中に七色の虹を閉じ込めたような光が揺らめき、淡いが昼間でもわかるほど眩い光を放っていた。王宮に勤めるようになって三年になるが、こんなに大きな夜明真珠を見るのは初めてだった。
冗談でもこんな嫌がらせをするのは一体どこの誰なのだろうと考えていると、黒外套は杖の先端をこちらに向けた。
玉飾りが稲光のように光ったと思った瞬間にはもう遅かった。
避ける間も後ずさりする間もなく、胸や肩から腹、頭や腕にかけて焼けるような感覚が走る。
一体なにが起きたのかわからなかった。ただ、痛みと苦しみと、どうして、という感情でいっぱいになり、フィーネは目の前が真っ暗になった。
――私は何もしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないの?
痛い、熱い、助けて――。
ヘーシャの意識はそこで途切れ、フィーネの視界も闇に飲み込まれた。
* * *
「……ここは」
フィーネは目を覚ました。頭痛がする。胸にも鈍い痛みが残っている。
今しがた見ていた光景はおそらく、ヘーシャ・ブムという下女が賊に斬られた時の前後の記憶だ。傷を治した時に、傷と一緒にその相手が持つ記憶も請け負ってしまったらしい。
窓の外は日が落ちて、すっかり暗くなっていた。
「お目覚めですか?」
「おはよう、ヒレナ。今は何時?」
二十時です、というヒレナの返事をきくと、フィーネは苦笑いした。
「……やっぱり気絶しちゃったんだね。ごめんなさい、迷惑かけてしまったみたい」
「無理もございません。あの苦しみ様はひどいものでした。最高神官長は嫌がらせでももっとましな代物を寄越してくださればよかったのに」
鼻を上に向けて怒るヒレナを見てフィーネは力なく笑った。
「あまり悪く言わないであげて。これだけでも充分すごいことなんだよ。だいたい、一瞬で傷を癒す力なんて、本来なら有り得ない奇跡のような話なんだからありがたいと思うほかないよ」
ですが、と口を曲げるヒレナにフィーネは微笑んだ。
「ヘーシャ殿の容態はどうなったかわかる?」
「はい。あなたのおかげで傷は完全に無くなりました。夕刻に目を覚ましたようで、もう命に別条はなく安心して大丈夫だそうです。念のため今は鷦鷯宮の医務室で休んでいます」
「鷦鷯宮なら陛下とセイファン様がおられるから安心だね」
「ええ。下女としてはとても有り得ない待遇とは思いますが、ドウゴ侍医長の訴えでそこで休ませることとなったようです。恐らく今頃はセイファンさまとダウレスさまが彼女から事情を聞いておられる最中でしょう」
「……良かった」
安堵で思わず漏れた息にヒレナは「頑張りましたね」と髪を撫でてくれた。
医務室で見た時のヘーシャは一目でわかるほど、もはや手の打ちようがない状態だった。実際に確認できたわけではないが、彼女の命をこの世につなぎとめることができたのだ。
神々とご先祖と最高神官長に感謝を捧げてフィーネは思わず手を合わせて祈った。
「ところで、ご夕食はいかがなさいますか? お目覚めになられたら、お食事を運ぶように仰せつかっておりますが、食欲はございますか?」
「皆様はなんて?」
「殿下や宰相様からは、今夜は部屋でゆっくり休むといいとおっしゃられておりましたので、あの方々を気になさる必要はございません」
その言葉にフィーネはほっとした。身体や顔に黒い痣が浮いている状態で部屋の外に出るのは気が引けたのだ。それに、いまだに腹の奥がしくしくと痛んで食欲はあまりないのだが、ヒレナにこれ以上の心配は掛けたくない。
「ありがとう。じつはとてもお腹が空いていたんだ。お願いしてもいいかな?」
「かしこまりました」
フィーネはヒレナを誘って一緒に食卓を囲んだ。フィーネの体調を気遣って供された米粥は、あっさりとした魚出汁がきいて食べやすかった。
久しぶりに彼女と顔をつきあわせて楽しむ食事は思いがけぬ喜びを与えてくれた。冗談を交えながら語らう楽しさは、一時ではあるものの、全身を蝕む痛みを忘れさせてくれた。
夕食を済ませると、フィーネは再び寝台で横になった。腹を押さえるようにうずくまる。痣がなかなか消えず、まだ痛むが、ヘーシャを助けることが出来て良かったと嬉しくなった。




