五章 秘密を抱える者 (9) 知りたいと思うこと、尋ねてはならないこと
翌日、朝食を終えたフィーネはラキアに案内されて薬草園にやってきた。
馬鹿祭り五日目。今朝は曇り空で日差しが遮られており、絶好の狩り日和だった。
借り物の弓を手に、フィーネは内心わくわくしていた。王宮の薬草園など、王宮仕えの医師か薬師にでもならなければ入ることが出来ない特別な場所だ。この国の医薬に携わる全ての者にとっての憧れの聖地といってもいい。もちろん、ラキアことアウィルドの国王としての威光あっての特例だが、そんな尊い園内に足を踏み入れることが許されるとは、願ってもないことだ。
薬草園の中でも危険な部類の植物は、特別に隔離された区画にあり、『禁足地』『立ち入り禁止区画』と書かれた看板と、棘の生えた金属製の頑丈な二重の柵で囲まれていた。今日の目的の獲物もこの柵の向こうにある。
立ち入り禁止区画の詰め所に寄ると、門番から通行証の提示と入門票への捺印と署名を求められた。先ほど薬草園に入った時と同様に、フィーネはラキアの通行証を確かめようと首を伸ばした。しかし、彼は通行証を用心深く手の内に隠してしまっており、一瞬たりとも確認できなかった。
このような場合でも隙を見せないのだな、と感服と呆れる気持ちを抱きながら、フィーネも借り物の通行証を見せ、門番の指示に従った。
衛兵は「ありがとうございます」と二人に笑顔で頷いた。
手続きを済ませると、ラキアに案内されて恐る恐る門の中に足を踏み入れた。
「誰もいないから顔の布は取っても大丈夫だぞ。せっかくだから色々な植物を見ていくといい」
彼の提案はとても嬉しかった。正式な片翼と認められるまでは顔を隠さなければならないというしきたりに従って睡眠時以外はずっと布を垂らした冠を被っているが、薄いとはいえ布越しでははっきり景色を楽しめないので不満だった。さっそく冠を外すと足元や目の前に、輝かしいばかりの稀少植物の楽園が広がっていた。
フィーネは本来の目的を完全に見失いながら、高揚した心地でくるくると回って景色を堪能した。
それからどれだけ歩いただろうか。
曇りで日差しは陰っているものの、気温が高くてわずかながら息が上がってきた。矢筒を背負い、長弓を持って歩きながら少し暑さに参り始めたフィーネに対して、ラキアは大きく重そうな木の鞄を両手に提げていたが、平然としていた。
ここに来る前に自分も鞄を持つと彼に申し出たのだが、大丈夫だ、と笑顔で断られてしまった。
彼に重い荷物を持たせることになってとても申し訳なさを覚えたものの、どうやら正解だったらしい。ただ、腕力に自信があると偉そうに宣言しておきながら、彼に頼ってしまうことになった自分の力不足な部分が悔しく、歯がゆさを覚えた。
立ち入り禁止区画は毒や麻薬の原料となる危険な植物を育てている場所なのだという。興味津々にきょろきょろとしながら、珍しい植物を見つけると興奮し、年甲斐もなくはしゃいだ。急に挙動不審かつ饒舌に語りだしたフィーネに対してラキアは目くじら立てることもなくにこやかに頷いて話を聴いてくれた。
そうやってしばらく歩いていると、やがて一本の不気味な木にたどり着いた。
「……もしかして、あれですか?」
遠くに見える大木を指差してフィーネは言葉を漏らした。離れていてもよくわかるが、ぎぃぎぃと門が開閉するときのような大きな軋み音がする。
「……すごく気味の悪い木だろう?」
彼はげんなりとしたような声で尋ねてきた。フィーネは頷くと、まじまじと観察した。
――これが、『お喋り悪魔の木』か。
この木はたいへん稀少な木で、雨季の終わりから乾季の始め頃に実を付ける毒の木だ。
百日紅のようにすべすべと曲がりくねった枝はゆらゆらと風もないのに昼夜を問わず常に揺れ、ざわざわと不気味な音を辺りに振りまいている。
顔のような模様のうろがあり、死人に睨まれているような不安な気分になる。
普段は見た目が不気味なだけで普通の木と変わらないのだが、実をつける時期になると、この木は正真正銘の怪物と化す。
近づくと実から放たれる強烈な悪臭によって鼻の内部や呼吸器を傷つけられてしまうため、最低でも十八尺は離れないといけない。どのみち、近づこうにも、鞭のようにしなりながら動く枝に阻まれてしまうのだが、と言っている場合ではない。殴られればそれなりに痛いし骨折は免れないと図鑑には書いてあった。
書物の挿絵でしか見たことがなかったが、実物は想像以上に気味悪いものだった。
実際、木の周辺には少しつんとした匂いが漂っていて、厠のほうがましかもしれない、とフィーネは顔をしかめた。その一方で、絶滅危惧種を前に父親譲りの好奇心の血が騒いだ。貴重な経験であり、この強烈かつ印象的なにおいを文章にして残したいと考え、二、三度深呼吸して確かめ、咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「ええ。ちょっとにおいに噎せてしまいました」
「確かに、食事中に積極的には嗅ぎたくないにおいだな。こんな場所に連れてきたりしてすまない」
「いえ! お気になさらないでください! むしろこんな貴重な経験をさせてくださりありがとうございます!」
「……そ、そうか?」
少し面食らった様子で一瞬退いたのち、ラキアは苦笑した。
枝には人間の拳くらいの大きな丸い実がいくつもぶら下がっている。見た目には、赤く瑞々しくて美味しそうな果物なのだが、素手で触れると、皮膚が爛れてしまうらしい。土の中に埋めて果肉を腐らせ、中の種子を取り出し、仁を喀痰や咳を止める薬に用いる。未熟な緑の果実はまだ毒がなく、薬効があり、火傷に効く。葉は扇に似た形をしており、木から落ちると黄金色に変化する。
そして、この木の厄介な性質はまだある。
ある程度成熟した果実の付け根に、『火毒胞』と呼ばれる器官がある。それは、固い瘤の中に収められた水風船のように膨らんだ袋で、中に毒液が満ちている。その毒を少しでも吸ったり浴びたりしてしまうと、まるで自白剤を飲まされた状態となり、運が悪ければ廃人と化した人間のようになってしまうのだ。
実が未熟なうちは問題ないのだが、もし、熟した実がある状態の枝を切ったり竿などの道具を使って無理矢理実を落とそうとすれば、振動によって火毒胞から勢いよく毒液が飛び出してくる。しかも、実は枝との結びつきが強く、落とすのが難しい。ただ、実の根元の瘤にある火毒胞の出口の穴に見事矢を通すことができれば、枝と実のつながりは断たれ、毒液も外に飛び出すことなく実を落とすことができる。
目を凝らして観察すると、熟した実は少なくとも三十はついているだろうか。向かって右端の枝の果実のうちの一つに、金色に光る物体がぶら下がっていた。果実本体に矢が刺さっており、小型の遠眼鏡で覗き見ると、小さな鎖が巻き付けてあった。しかも、割と細かい文字で『ラキアのばーかあーほどじまぬけ、三回回ってワンと鳴け、この偏屈蟹味噌野郎、裸踊りで嗤われろ』などと書かれた木の板が結わえ付けてあるではないか。
「……何ですか、あれは」
「あれが最後の宝物、金華鳥の首飾りだ」
木札の内容について尋ねたつもりだったが、フィーネは訂正せず苦笑いを浮かべるに留めた。
「……よりにもよって、どうしてあんなところに」
思わず口をついて出た言葉にラキアはまったくだ、と同意を示した。
「……ガイズの仕業だ。どうしてもおれに宝物を手に入れさせないつもりらしい。今の時期のあれはとても凶暴だから、並大抵のことでは宝物を手に入れることはできない。あの実が自然に木から落ちるのを待つのが現実的だが、そんなことをしてたら馬鹿祭りが終わっちまう」
ため息混じりのラキアの言葉を聴いて、フィーネは父の勝ち誇ったしたり顔が見えるようで腹の底からきりきりと怒りがこみ上げてきた。
「まったくあの人はなにを考えているのですか! 王族の方にこんな危険な真似をさせるなんて気が狂ってるとしか思えません!」
「これを見つけた瞬間、自分の見ている光景が夢なんじゃねえかと不安になって、何度も見返してしまったくらいだ。けど、じつにあいつらしいと思えて楽しいとも思ってしまった」
「楽しいって?」
「あいつは昔から無遠慮なところがあってな、おれに対しても忌憚なく真っ正面から向かってきてくれるんだ。おれはあいつのそういうところが好きだし、信用に値する人物だと思っている」
「そんなんで良いのでしょうか。あの人はエレスの風雲児だの、天に唾を吐く乱暴者だのと言われておりますから、王宮育ちのあなたにとっては物珍しい種類の人間なのかもしれませんが、ただの無礼者の可能性が無きにしも非ずかと思いますよ」
「まあそうかもしれないなっ。ただ、それで充分なんだ……」
ラキアは目を細めて微笑んでいた。アウィルドとガイズの二人の絆はとても強いことは世間的にとても有名で、フィーネも風の便りで聞いたことがある。先王の乱心の折、ガイズはアウィルドを守るために自ら代わりに拷問を受けたし、流刑地にも同行した。アウィルドも幼き頃よりガイズを慕い、信頼していた。
「さて、あんたがその縄をつけた矢を実に刺すことができれば、縄を手繰り寄せてあれを手に入れることができる」
「ですが、無理に実を木から引き離せば、火毒胞が破裂してこちらに毒液が飛んでくるんですよね」
「そうだ。念のためもう一度説明しておくと、火毒胞はたくさんあるが、一度に一つしか毒が出せないんだ。そして、一度出してしまえば次はゆっくりと十数えるだけの間は猶予ができる」
「その間に、付け根の丸くなってる瘤の穴に矢を通せれば実が落ちるんですよね」
ムチェルムチェラー狩りの基本は二人一組で行う。先日、ラキアは一人で挑んで返り討ちに遭ったようだが、無謀以外の何物でもない。
まず囮役がどれでもいいから刃物で熟した実を落とし、毒液を出させる。木は実を奪おうとする者を恨んで狙いを定めて、毒液をかなりの勢いで飛ばしてくるので囮役はすぐさま避けられるような身軽さが要求される。悪魔の木が次に毒液を噴き出すまでの間に、弓役が矢で実の本体と実の付け根の瘤を連続で射て、目的の実を落とす。お喋り悪魔の木は根が大蛇のように太く絡みついて波打っているため、落とし所が悪ければせっかく落としたはずの実を見失ってしまうおそれがある。
先に実を落としてから悠長に矢を刺して回収を試みる方法は現実的ではないのだ。
そのため、『お喋り悪魔の木』狩りでの弓役は、正確に狙った場所に向けて素早く連射できる腕前を要求される。一射目に放つ実に突き刺すための矢に紐をつけておけば、木に近づくことなく引っ張るだけで実を手にすることができる。
うまくやれば次の毒を出させることなく実を回収できるのだ。
『おれが囮になるから、あんたは弓であの実を打ち落としてほしい』
『……それじゃ、あなたが危ないじゃないですか。そんな真似させられません。私が囮になります』
『なに、おれの頼みに巻き込むんだから当然だろう』
と、昨日相談して決めた通り、ラキアが囮でフィーネが弓役をすることになった。
彼は木の鞄を開けた。中には手袋、胸当て、眼鏡、口と鼻を覆う半面型の防毒面、二種類の鈴のついた棒など、ムチェルムチェラー狩り専用の道具が入っており、それらを身につけると、厳めしい格好の二人組の凸凹戦士が誕生した。
「昨日も思いましたが、何だか重装備ですね……私達……」
「自分の隠したいことを根掘り葉掘り喋りたくなってもいいのか?」
「それは嫌ですね。あっ、でも、あなたのことについて聞きたいことがあるから少しだけ毒液を頂いて薬を調合してみるのも悪くないかも」
「そんなことしてみろ。後悔することになるぞ」
ははは、と弓に弦を張りながらフィーネはわざとらしく笑った。
後悔するとはまたおおげさな。だが、不穏な気配を漂わせたため、あながち冗談でもなさそうだ。
ラキアは鎖鎌や、紐のついた金属の小刀を五本ほど取り出し、不具合がないか再度入念に確かめた。フィーネも同じように弓と矢をよく確かめた。
囮役を務める者は眼鏡を掛け、水で濡らした布を顔に巻き付けた上で防毒面を装着し、目と口と鼻を守るが、完全に毒を防ぎきることはできないため、極力、呼吸をしてはならない。そのため、柄のついた鈴飾りを使って射者に合図を出す。高い音と低い音の二種の鈴を用いて意思を伝えるのだ。
『お喋り悪魔の木狩り』という言葉は、大事な秘密を守りたければ信用に値する人物以外に任せるべきではない。という喩えに用いられるくらいだ。彼は秘密をフィーネに知られるおそれがある。にもかかわらず、手伝いを願い出てくれた。ならばその信頼に応えたい。
「おれのことは気にせずあの実を打ち落とすことだけに集中するんだ」
わかった、とフィーネは頷き、矢を二本、背負っている矢筒から取り出すと、一本を右手の小指と薬指の間に挟み、もう一本の矢筈を弓弦にかけて矢をつがえた。
「準備はいいか?」
「構いませんよ。いつでもどうぞ」
フィーネは大弓を構えた。女用の弱い弓ではあるが、しなやかかつ引き心地に粘りがあり、速度と飛距離が最も出るこの弓を選んだのは正解だっただろうか。安定性もあり、とても良い弓だ。
昨日、武器庫から数本を選んで試射して確かめたが、流石は王宮、と称賛したくなるほど、どれも品質が良い弓ばかりだった。思わず目移りして一本に定めるのがとても難しく、ラキアや武器庫の管理人に笑われてしまった。
弦を引き、狙いを定める。
一射目に放つ矢は紐が括りつけてあり、普段よりも狙い通りに飛びづらい。風の流れを読みながら、慎重に位置を合わせなければ、紐の重みや空気の抵抗で軌道がずれる可能性が高い。頭の中で何度も矢の道筋を想像しながら微かな調整を重ねた。
ざわざわ、と葉の擦れる音がこだまする。
神経を集中してそのときを待つ。
鈴の音が響き、ラキアは鎖鎌を投げた。
さく、と音がして実が落ちる音がした。彼は毒液から逃れるために走りながら鈴を振った。規則正しく五回連続で鳴らし、少し間をおいて一回鳴らした時が矢を放つ合図だ。
獲物を見据え、心の中で息を整えながら鈴の音の数を数える。
――……五回、四回、三回、二回、一回。
そこで一旦音は止んだ。
一呼吸置いて再び強く鈴が鳴った瞬間、フィーネは弦を離した。強くはじかれた矢が空を裂きながら飛んでゆく。
矢は狙い通り、実を射抜いた。フィーネの足元に矢に括り付けていた縄の端がぱらりと落ち、飛んでいこうとするのを左足で踏みつけて止めた。同時に右手の小指で挟んでいた矢を弦につがえて二射目を放った。余計なものがついていない矢は絵に描いたような美しい放物線を描き、瘤の穴に命中した。その瞬間、真っ赤な実はごろりと地面に落ちた。すぐに縄を引いて手繰り寄せると、金華鳥の首飾りが巻きつけられた実が引きずられてこちらに来る。手元まで来たところで手袋越しに首飾りをつまみ上げると、フィーネはやった、とその場で弾んだ。
「どうですか。ちゃんと取れましたよ!」
嬉しくてラキアに手を振ったものの、ラキアは黙って立ち尽くしていた。
「……ラキア様?」
少し妙だと思い、もう一度声をかけてみたが、やはり彼は空を見つめたままぼうっとして反応が薄い。
語気を強めてさらにもう一度呼び掛けた。
「ラキアさま!」
「あ……ああ……」
どうしたのだろうか。様子がおかしい。防毒面をしっかり着用していたが、彼はまるで上の空と言わんばかりにぼんやりと気怠げな表情を浮かべたまま立ち尽くしていた。酒に酔ったように目が据わり、だらりと両腕を垂らした状態でこちらを向いている。
心配になって駆け寄るが、彼は呆けた様子のまま微動だにしなかった。
「ラキア様! 金華鳥の首飾り、取れましたよ! 大丈夫ですか?」
「……ありがとう。そなたのおかげで宝物を手に入れることができた。感謝する」
「……ど、どういたしまして」
妙な違和感を覚えつつフィーネは答えた。
「これを他の宝物とともに大広間の祭壇に捧げれば、わたしたちの勝利だ。しかし、フィーネ殿には本当にいつも驚かせられてばかりだな。エレスの真珠姫との評判も、ギルガムが褒めすぎるのも頷けるほど美しいだけでなく、医術にも明るく弓まで扱えるとはまこと才女という言葉ごときでは言い表せな――」
はっ、と目を見開き、ラキアは口を押さえた。
フィーネは驚いて口をぽかんと開けたまま彼の言葉を思い返していた。
彼は今、「フィーネ殿」と名前で呼んでこなかったか? しかも、物凄くべた褒めのお世辞のおまけつきだ。
毒を吸い込んだのか、妙に饒舌な様子に逆に不安を覚えた。そういえば、以前ムヴァン・カルヴァからアウィルドリーシャの弱点として、お喋り悪魔の木の毒や神殺しの毒に彼は滅法弱いと教えてもらったし、鳥になった夢で見た時の彼も毒の影響を強く受けている様子だった。
「あの、大丈夫ですか?」
「少し毒を吸ったらしいが平気だ。それよりも、フィ……ではなく、ファーシャど……あんたの方は問題ないか?」
「はい。このとおり、特に問題はありません」
「それなら良かった。だがさすがは神殺しの毒なだけある。たかが揮発した毒ごときで……眼鏡と防毒面をつけていてこれでは、わたしは――」
彼は慌てた様子で口を押さえたまま二度三度首を縦に振った。
『お喋り悪魔の木』の毒は命には危険性がないのだが、心の中の声をそのまま吐き出させてしまう恐ろしい作用がある。言いたくもないのにべらべらと喋りたくなってしまう厄介な性質は、身体よりも精神に危害を及ぼす。社会的害があるし、下手をすれば国を滅ぼしかねない。
その毒をまともに吸い込んだり浴びたりしてしまうと、少なくとも半日ほど自白剤を飲まされたような状態となり、運が悪ければ廃人と化した人間のようになってしまうのだ。ただし、吸い込んだ量や体質によって症状にはかなり差があり、微量であれば数分から数時間程度で治まることもある。一方で大量に吸い込めば、一昼夜ほど効果が続くこともあるという。
さらに、人間には微量でも、神や精霊や魔物など神殺しの毒に弱い存在には極端に強く作用するとムヴァンは話していたな、とフィーネは状況を分析していたのだが――。
――待って!?
フィーネは急に気恥ずかしくなって思考を止めた。
もし今の彼が『お喋り悪魔の木』の毒の影響下にあるのならば、美しいだの才女だのという先ほどの言葉は世辞ではなく彼の本心ということになるのだろうか。仮にそうだとすると、今の言葉から察するに、案外思っていたほどフィーネは彼から悪くは思われていないのかもしれない。それどころか――。
考えただけで耳から煙が出そうな勢いでフィーネは赤面した。
「ラキア様、毒を――」
「すまないが、しばらく話しかけないでもらえないか! 気をつけていたがまさか斯様に――」
彼は目を閉じて眉根をきつく寄せていた。何も考えないようにしているのか、彼は逃げるようにフィーネから離れた木陰まで走って腰を下ろした。防毒面と口元を覆っていた布を外すと両手を重ねて口を塞いだ。
一人だけ立ったままでいるのも変だと考え、フィーネも彼が何か呟いても聞こえないように、少し距離をおいた開けた場所に座った。フィーネも防毒面と口の布を外すと息が楽になったが、悪臭が微かに漂ってきた。それでも、日陰はいくぶん涼しくて心地よかった。
しばらくフィーネは黙っていた。
鳥の声が鳴いている。
木の葉を揺する風の音に耳を傾けながら静かに時が過ぎるのを待った。
ふいに、彼に真実を尋ねたくなった。
何故、セイファンがフィーネを偽の片翼にしてまでラキアに扮したアウィルドリーシャに賭けを挑んだのか。
セイファンはラキアがアウィルドを何度も殺そうとしていると言ったし、アウィルド本人もそれを認め、アウィルドリーシャを殺すとフィーネに宣言した。だが、それはつまり、アウィルドが自分で自分を殺そうとして何度も自害を試みているということに他ならない。
鳥になった夢の時の彼も自らを責めている様子だった。一昨日の晩にフィーネが奇病の痛みに襲われた際も、不思議なことにフィーネの耳元で何故死ねないのか、と嘆き叫ぶ彼の声が聞こえた。
どうしてそんな真似をしようとしているのか。否、しなければならないのか、フィーネは知りたいと思っていた。
今なら簡単にその答えを聞き出せるはずだ。
しかし、それは安易で性急で楽ではあるが、卑怯なことだともわかっていた。自白剤を飲まされたに等しい状況で無理やり話したくないことを白状させても、それはフィーネの知りたいと思う欲を満たすだけで、根本的には何の解決にもならないのだ。むしろ、無理強いすることによって彼の心を傷つけてしまうだろう。
だから、フィーネはただ黙って森の声を聞いた。足元に映る木陰の葉の枚数を数えた。それも済むと顔を上げた。
空を見ると、真上に一羽の白い鳥が飛んでいた。その鳥の正体を知らぬ者が見れば風変わりな鳥だと思うのみだろう。
鳥は九本の尾を優雅に輝かせ、ゆっくりと円を描くように舞いながらこちらを見ているようだった。
神鳥。翼王とともに生を受け、その一生を見守る鳥の神が天界から人の世に顕現した姿であり、神聖な鳥――のはずなのだが、アシュハドという名で少し変態でおちゃらけた言動をする俗な一面もある。
昨日の午睡の時間に彼はフィーネの元を訪れ、アウィルドから盗んだ星見の間の鍵を渡そうとしてきた。
恐らく彼はフィーネに星見の間を見せて真実への手掛かりを与えてくれようとしたのだろう。だが、セイファンが星見の間を案内してくれた時に聞いた話を思い出すと、即位の儀の後に、天の加護を得られなくなった、という理由でアウィルド自身が封じたという。そして、アシュハドに鍵を盗られた際のアウィルドは身一つで屋根まで上り、フィーネの寝室まで取り返しに来るほどひどく冷静さを欠いていた。
鍵はアウィルドに返してしまったが、それで良かったのだとフィーネは考えていた。
考えるべきことがなくなり、もう一巡するほど考え込んだフィーネは顔を上げた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。先ほどよりずっと太陽が天頂に近づきつつあった。
向こうの木陰で座るアウィルドを遠目に見ると、彼は目を閉じたまま俯いていた。
フィーネは立ち上がると彼に歩み寄り、目の前でしゃがみ込んで彼の顔をのぞき込んだ。
眠ってしまったのだろうか。彼は口に両手を当てたまま目をきつく閉じていた。眉間に深く刻まれた皺は彼を少しだけ大人びて見せた。どことなく苦悩しているようにも見える。
どうして苦しんでいるのか。
私に出来ることはなにかないのか。
出来ることがあるなら教えて欲しい。
辛いと思うことがあるなら包み隠さず話してほしい。
などと考えているとふと目が開き、間近で目が合った。
「なにをしているっ!?」
彼は驚きのあまり、白目が剥き出しになるほど大きく見開いて、座ったまま後退りした。
「あ、その……ええと、殿下が眠ってしまったのかと思いまして、様子をうかがっていました」
「……ああ、そういうことか。寝てはいなかったが、少し考え事をしていた。すまなかったな。時間がかかったが毒は抜けたみたいだ」
「それは良かったです。でも、残念だな。あれこれ聞き出すいい機会だったのに」
「だが、そうしなかったではないか」
「ええ。聞いてみたいとは思いましたが、話したくないことを無理やり聞くのはよくないと思ったんです」
何気なく答えたフィーネに対してラキアは物言いたげな目で見た。
「……気を遣わせてすまなかった。それと、ありがとう」
「やっぱり大丈夫ですか? まだ、本調子じゃないみたい」
「失礼だな。わたしだって礼くらい言うぞ」
フィーネはふと先ほどの彼の顔を思い出すと笑みをこぼした。
「何故笑うんだ?」
「いえ、なんだかわからないけどおかしくて。さっきの顔なんて急に老け込んでおじいさんみたいだったし」
「あんたな、失礼を通り越して無礼だぞ。おれはまだそれほど老けてはいない!」
フィーネは口元に手を当てて笑った。
「ごめんなさい。でも、先ほどの殿下のお顔は本当にそう見えたのです。あまり眉間に皺を寄せると戻らなくなってしまいますよ」
「……それはありがたい忠告として受け取っておこう」
彼は苦い物でも飲み下すような顔で答えると、腰を上げた。むすっとした様子でフィーネを侮辱するように舌を出して報復すると、すぐに背を向けた。
「おじいさん……か……」
そう呟いた声はフィーネには届かない。
ただ、瞬きをして彼は空のどこかを見上げた。
「また考え事ですか?」
しばらくしてから問うと、ラキアはフィーネに向き直った。何故かはわからないが、少し潤んだ目で彼ははにかみ笑いを浮かべた。
「いや、あんたにジジイ扱いされて傷心に浸っていただけだ。……さて、と。無事に目的は達成できたし、そろそろ暑くなってきたから東宮殿に戻るか」
「もう戻るんですか? せっかくの薬草園なのに……」
「そんな顔するな。面白い薬草なら帰り道にも沢山あるし、帰りがてら案内するから、早く戻ろう」
少し名残惜しい気もしたが、フィーネも腰を上げた。
帰り道は、少し遠回りして行きとは異なる道を通った。ラキアから植物の名前を教わりながら歩いたのだが、彼は生き字引のごとく、たいへん物知りだった。フィーネが気になった植物について尋ねると、その都度気前よく教えてくれた。図鑑でしか見ることのなかった稀少植物を次々と前にすると、フィーネはとてもわくわくとした気分になり、鼻息が荒くなってしまうのを自覚した。
今はどこにいるのかわからぬ師匠にも見せてあげたいと思った。
ラキアに清泉舎まで送ってもらい、沐浴を済ませてから女官のルラ達とともに緑水宮の自室に戻ると、少し遅れた午睡のための支度を整えたヒレナが待っていた。
「楽しそうですね。なにか良いことでもございましたか」
「うん。そうかもしれない」
履き物を脱いで寝台に上がるとフィーネは息を弾ませながらヒレナに話した。
「あのね、薬草園に行ったんだけど、ものすごくたくさんの種類の薬草があって目移りしちゃったよ。あ、お喋り悪魔の木を見たけどすごかったよ! まさか、一生のうち一度は見てみたいと思っていた稀少植物の実物を、しかもあんな間近で見られるなんて夢にも思わなかった。書物でしか見たことがなかったから感激だよ」
「あなたがそんなに興奮なさるのも珍しいですね。どのような木だったのですか?」
「えへへ。物凄く不気味な木でね、あの独特のにおいを嗅ぐ経験ができたことはとても貴重で幸運だったよ。ええと、書物には糞尿から硝石が生じた厠、銀杏という北方の植物の果実の腐臭、蒸れた足、腐った牛酪、硫黄泉の湯気のにおい、鼬の糞などににおいが似ているとあったけれど、糞とかそんな生易しいものじゃなかった。におうというよりも、鼻や目にしみたんだ。あれなら嗅いだ人間から三分間ほど嗅覚を奪う力がありそう」
「……あの、たいへん恐縮ですが、ファーシャ様? その話をわたくし以外の誰かになさりましたか?」
「してないよ。あ、でもごめんなさい。汚い話だったかも」
「お気づきであればよろしいです。あなたときたら、たまに息をするように下品な話をなさるものですからね。医師や研究者は多少の汚物を見ても何とも思わない鈍感さを身につける者がそれなりにおられるようですが、今のあなたの身分は片翼候補です。片翼の品位を落としかねない発言は慎みなさいませ」
「ごめんなさい。発言には気をつけないと」
危なかった、アウィルドやルラ達に言わなくて良かった、とほっとしたが、今し方窘めてきたはずのヒレナはくすくすと面白げに笑っていた。
「ですが、本当に凄まじい臭いだったということはわたくしにもわかりました。出来れば一生嗅ぎたくないですね」
「あんな機会は滅多にないからヒレナも嗅いでみればいいのに」
「遠慮させていただきますっ」
ヒレナは苦笑いを浮かべて舌を出した。
そのままフィーネは楽しい気分のまま眠りの世界に落ちたのだった。




