一章 ~七年前 王太子との約束~(6) フィーネの短慮と散々な一日
思い返してみれば今日はフィーネにとって、なかなか散々な一日だった。
フィーネは明朝、故郷への帰路につく予定になっている。だから、前々からの約束で今日は父のガイズと一緒に海を見に行くことになっていた。親子とはいえ王宮勤めをしているために離れて暮らす父とは一年に一度顔を見られればいいと思えるほど会える機会がないため、フィーネは親子水入らずの外出ができることをとても楽しみにしていた。
それにもかかわらず、父は当日の朝になって急用を理由に約束をすっぽかした。普段なら我慢できたであろうが、王都に来る前からずっと楽しみにしていた予定を台無しにされてどうしても腹の虫が治まらなかったフィーネは、誰にも言わずに邸から出掛けることにした。
ひとりでも海を見に行ってやる。と、怒り任せに街へ飛び出したものの、王都の貴族街から海岸までは子供の足で行くにはいささか距離がありすぎた。狭くとも広い王都ウリューゼの北西にあるユリフェ邸から海岸までは二里半も離れていることと、本来であれば水路の乗合船か牛馬が牽引する車で行くものだという常識を知らないまま徒歩で向かった八歳児は案の定、道に迷った。
貴族の屋敷が多い区画を出て、市を抜け水路の橋を駆け足で渡り、曲がり角や坂や階段をいくつも越えて歩くうちに、自分がいまどこを歩いているのか全くわからなくなり、いつの間にか大通りから外れて人気のない路地に迷い込んでしまっていたのだ。建物の壁には悪趣味な裸婦と裸夫や頭蓋骨の落書きで埋め尽くされ、埃と生ごみの悪臭が漂う裏路地には、見るからに悪者然とした大男たちが葉巻を吹かしていた。質が悪いのか尿のような鼻を刺す臭いの煙に混じった甘ったるい臭いにフィーネは蒸せた。薄汚い木箱に腰掛けて世間話でもしていたのだろうが、彼らはフィーネの存在に気づくと黄色い歯をむき出しにして意地汚く笑った。
「なんだ、このガキ。オレはカナーヤ人なんて初めて見たぜ。なんでこんなところにいるんだろうなぁ。しかもこいつの目……顔も身なりもいいし、かなりの上物じゃねえか」
「マジかよ。うわホントだ! 銀の目の……しかも小僧でさえめったにお目にかかれない稀少品なのに小娘じゃねえか! もしかしておれ達かなりツイてるんじゃね?」
「ツイてるツイてる! あれ、ええと……なんだっけ、こういう見た目のやつ」
「ばーか、『皇血』っつうんだよ。カナーヤ皇族みたいな銀の目の奴らでかなりの希少価値があるんだ。しかも女だ、こりゃ高く売れるぜ!」
「ってことは、この嬢ちゃんってあの国の皇族なんです?」
「んなわけねーだろ。目が銀色だからそう呼ばれてるだけだ」
「ふーん、なんだ。期待して損した」
厳つい男たちの中でただ一人だけ少しふくよかで鈍そうな青年はあーあ、とわざとらしく大声でため息をついた。
「まあ、そいつはカナーヤ皇族じゃねぇけどよ、カナーヤ帝国は銀の目の娘を欲しているし、皇帝に取り入りたいお貴族サマや豪商サマがかなりの金額で買ってくださるんだぜ」
「最近あの国の皇族は血が薄まってきたのか銀の目のガキが生まれにくくなってるそうでな、妃候補は銀の目を持つ女に限られているんだ」
彼らに品物を見定めるような目を向けられた時、フィーネは自分の短慮を後悔した。故郷の祖母から散々忠告されていたはずなのに、供も護衛もつけずに勝手にひとりで出歩いたフィーネが悪い。逃げようにも恐怖で竦んだ足がもつれてしまい、その場で尻餅をついた。
その様子が面白かったのか男たちは大声で笑い転げ指笛を鳴らした。岩のような巨大な手で無理矢理手首を掴まれて縄で縛り上げられそうになっても恐怖で身体は言うことをきいてくれなかった。
フィーネが暮らすスーヴェ大陸において、銀色の目は赤目に次いでかなり珍しいとされている。
神話の時代において、天から降臨した神々の瞳は銀であった。ゆえに神の直系の子孫を名乗る北の隣国のカナーヤ帝国皇帝ならびに皇族たちは銀の瞳を誇りとしていた。
ウルガ王国で生まれ育ったフィーネにはカナーヤ皇族など全くの赤の他人であるはずなのにその一族とたまたま同じ色の目で生まれただけで物心ついた頃から幾度となく誘拐されかけた。なんと迷惑な話だろうか。
今までは必ず誰かが助けてくれたがここはエレス領内ではなく王都だ。今回こそはもうだめかもしれないと涙が出そうになった。
ここで攫われたら一体何をされるのだろうか。恐怖で声も出ず、必死の抵抗も虚しく乱暴に麻袋に詰め込まれそうになる寸前でどこからか蹄の音が近づいてきた。アウィルドが助けに来てくれたのだった。
彼はどこからともなく青毛の馬で現れ、曲芸のように馬上で鞍を掴んだまま逆立ちしたかと思えば、彼の身体自体がまるで高速で振り回された槍になったかのように勢いよく悪漢たちの顔面に蹴りを食らわせた。体格差がかなりあるはずなのに男たちは鼻血を吹きながら軽々と吹き飛ばされ、後ろ向きに重なるように転倒した。
アウィルドは鞍からぶら下がると彼らが起き上がるよりも早くフィーネに手を伸ばした。フィーネは縋るようにその手を縛られたままの両手で強く掴んだ。そのまま彼はフィーネの身体を強い力で鞍に引き上げると邸に連れ帰ってくれた。
アウィルドがフィーネの危機に駆けつけることができたのは彼が翼王であり、鳥の報せを通じて離れた場所の異変をいち早く察知できたからであった。
彼はフィーネの短慮を叱った。ガイズにも怒られた。伯父はおろおろと狼狽えていたが、ユリフェ家当主である祖父は我関せずといった態度をとった。
ガイズは娘の無事を確認すると強く抱きしめた。父の温もりに包まれたままフィーネは自身の行いを深く反省した。
一段落ついたところでアウィルドはフィーネを海に連れていきたいと皆に申し出た。ガイズと伯父は危険だと反対し、当主は認めないと主張したが、アウィルドがくどくど長々と説得してくれたおかげで渋々ながらも了承してもらえたのだった。
そのような経緯があって、エレス領主一族の分家出身のヴェル・フィーネ・ユリフェはウルガ王国王太子であるアズウェル・アウィルドリーシャ・ラウルガル・リドアと二人で星を眺めているのであった。姿は見えないものの、今もフィーネたちから離れたどこかに彼の護衛のための兵士が控えているはずだった。




