五章 秘密を抱える者 (6) 恐怖と向き合うということ
「……聞いてもいいだろうか。ガイズから聞いたが、あんたは医術学校への入学が決まっていたんだろう?」
フィーネは返答に困った。ここで認めてしまえば自分がフィーネ・ユリフェであると認めることになる。かといって、珍しく彼から振ってきた話を無碍にするわけにもいかない気もした。
彼はフィーネの正体を知っているのだから今更隠し立てする必要もないかもしれない。だが、形式上、フィーネはあくまでも認めるわけにはいかなかった。
「それは答えられません」
「そうだったな。出自について話すことは禁忌だったな。聞き方が悪かった。すまない、今の問いは忘れてくれ。それなら、ずいぶんと雷を怖がっていたがそれは何故なんだ?」
「それは……。昔、私の故郷で大火があったんです。原因は、落雷による山火事でした。その街は、四方を山に囲まれていて、王都よりも雷がよく起こる土地なんです。毎年のことだったので皆、雷には慣れていたのですが、その年は例年よりも雷が多かったんです。何かおかしいかもしれないと皆で心配していたんですが、予想が的中してしまったんです。領主の邸がある辺りは街から離れた風上側だったので大丈夫だったのですが、領都の大部分が焼け落ちてしまって……」
フィーネの脳裏に、あのとき目に焼き付いた光景が蘇った。分厚い紙の束を素早くめくるように、次々と凄惨な場面が脳裏を駆け抜けてゆく。
煙で噎せたように、急に呼吸が苦しくなった。
「……っ、たくさん人が亡くなったんだ。……空高くまで大きな火柱が何本もできて、それに人々が巻かれて火傷をして、べたつくような風と焦げた魚のようなにおいが立ち込めて、鼻も喉も煤けて痛くて渇いて……口の中も苦くて、気温だって暑かったし、川には水を求めて飛び込んだ人が折り重なって溺れたのか、塊になって亡くなっていてそれでも!」
フィーネは寒気に襲われ、両腕で自分の身体を抱き締めるように身を縮めた。
あの日のことは思い出したくない。けれどもそれはただの逃げだ。生き残ってしまった身として忘れてはならないのだ。
「燃えた街には何も残らなかった。……いいえ、何もかも、真っ黒になって焦げて人間……っ」
後悔と怒りで握りしめていた拳を、彼の大きな手がそっと包んだ。
「もう、いい。辛いなら話さなくていい」
フィーネはその時の光景から逃れようと目を閉じた。思い出したくはないのだが、自然と脳裏に焼き付いた当時の恐ろしい光景が浮かび、震えが止まらなくなって嗚咽をもらした。
「すみません。こんなこと、話してもあなたが困るだけなのに」
「そのようなことはない。悪かったな。……辛いことを思い出させたみたいだ」
ラキアはそっとフィーネの頭を撫でた。
普段なら跳ね除けていただろう。だが、彼の逞しい手に触れられていると何故か守られているような気持ちになってとても心が安らいだ。
兄がいたらこんな感じなのだろうか。
だが、両親や伯父夫妻に撫でてもらった時の温もりとも、ヒレナに慰めてもらった時の優しさともどこか違う気がした。
彼はとても優しい。けれどもそれは、自分の弱さを曝け出し、無条件で甘え守ってもらう子供と庇護者のような関係ではない。弱さを受け止めた上で、それでもなお、前に進むための勇気をくれる――そのような頼もしさが彼にはあった。
「……取り乱したりしてすみません。殿下が仰る通り、雷除けがあれば建物への被害はほとんど起こらないことは私もよく知っています。ですが、建物の雷対策は万全でも、余所に落ちた雷から火事が発生して燃え広がってしまえばひとたまりもないんです。だから、今でもあの音を聞くと、起こらないとはわかっていても、また火事が起きるんじゃないかって不安になって……その時の音や匂いや見たものが目の前に蘇ってきてしまうんです」
エレスは元々落雷が多い土地柄だった。国内の他地域と比較しても冷涼な気候が特徴で、寒気と暖気がちょうど交わる場所にあるためか、しばしば天候が不安定になりやすかった。
その年の乾期は珍しく雨が少なかった。からからに乾いた木々はよく燃えた。山火事はおさまらず、街の周囲を水堀で囲んであればまだ良かったのだろう。しかし、不幸なことに街は木造の宅地が密集し、陸続きで火の粉も舞うことで延焼をふせぐことはできなかった。
多くの者が焼け死んだ。
幼いフィーネはあまりにも無力で、目の前の誰一人として助けることができなかった。
「いつまでもこのままというわけにもいかないとは思っているのですが、どうにも克服できないんですよね」
フィーネの話を聞きながら、ラキアは口を横一線に引き結んでいた。
「……そうだったのか。それは辛かっただろうな」
フィーネは首を横に振った。
「辛かったのは火事で傷ついたり大切な存在や物を失ってしまった人達です。私は怪我をすることもありませんでしたし、辛いだなんて思ってはいけないのです」
「いいや、それは違う」
「え?」
「確かにあんたは身体に怪我を負わなかったかもしれない。だが、辛いと思ってはならないというその考え方は……心に傷を抱えた奴の言うやせ我慢というものだ。少なくとも、当時のことを思い出して取り乱したり、雷を恐れて日常生活がままならなくなっているあたり、あんたも充分傷ついているんだ」
「そんなこと――」
「認めたくないし認めてはいけないと思う気持ちはわかる。自分より酷い目にあった者に対して負い目から辛いと思う気持ちを封じ込めて気丈に振る舞うことは悪いことではない。けれども、自分に嘘を吐き続けていると、いつかどこかで綻びが出てくる」
「そんなことを言えるのは安全な場所にいた人だけです。洪水に呑まれて亡くなってしまった人に対して、もっと高い場所へ逃げれば良かったと、もう手遅れになってから無関係の人が講釈を垂れるようなものです」
「……そうだな、今のは浅慮な発言だったな。あんたの事情も気持ちも理解せずに、軽々しく口を出してしまった」
申し訳ない、とラキアは深々と頭を下げた。
「待ってください!」
フィーネは思わず身を乗り出した。
「……違うんです! 私は殿下を責めているわけではないんです。ただ……どうしようもできなかったことが悔しくて、それなのにあなたは私を気遣う言葉を掛けてくださって……」
それ以上言葉が続かなかった。だが、彼の優しさに対して一瞬でも「何も知らない癖に」と怒り混じりの歪んだ感情を抱いたのも事実だ。
つまり、フィーネは彼の優しさに甘えて彼に八つ当たりをしてしまったのだ。そして、フィーネは己の未熟さを恥じた。
「私の方こそ申し訳ございません!」
フィーネも深々と頭を下げた。
「謝らないでくれ」
「そうはいきません! 殿下は私を気遣って下さっただけなのに、あまりに悔しくて……殿下に強く当たってしまいました」
「……頼むから頭を上げてくれ」
その声が思いのほか優しくて、フィーネは恐る恐る頭を上げた。
「おれの言い方が悪かったのは事実だ。だから、あんたが謝る必要はないんだ。ただ、おれはあんたに無理をしてほしくはなかった。だから――」
ラキアはそう言って、少し困ったように眉を下げた。
「怖いものを怖いと思うことまで、自分に禁じる必要はないんじゃないか?」
「でも……それじゃ駄目です。雷嫌いなままでいては、私は何も出来ません」
「……そのことについてなのだが、雷嫌いは確かにあんたにとって大きな重荷になるかもしれない。だが、克服出来ることに越したことはないが、無理はしなくていいと思うんだ」
「え?」
「大きな音が怖いのは人が持って生まれた本能で仕方のないことだ。あんたが辛いと思うことはわかる。だが、あまり無理をしても気が滅入ってよくない。……まずは、どうして雷が怖いのかわかっている、それだけでもいいと思うんだ」
彼は息を継ぐと続けた。
「理由がわからない恐怖じゃないということは、恐怖そのものを治すことは難しくとも、向き合い方を見つけられる可能性があるということだ。確かに、毎日の暮らしは苦労や不便も多くなるかもしれないが、いつか受け入れられる日が来るかもしれない。そうおれは思うんだ」
「……ですが」
フィーネも彼の話を信じたい。しかし、物事はそんなに甘くはなく、フィーネもずっとこの恐怖症と付き合ってきた。
「今ある恐怖を乗り越えることは難しい。だが、こういうものだと一旦は受け入れてこれからをどうすればいいか考えてみるというのも悪くはないんじゃないか。雷が発端の火事が恐ろしいのなら、燃えないようにする工夫を考えるとか……試しに落雷に遭っても燃えない街づくりの方法を考えてみてはどうだ?」
「……街づくり、なんて普通の人はあまり考えてみないと思いますよ」
「……そ、そうだな。変な例えだった」
ラキアはそこで一度言葉を切った。
「……そういえば話は変わるが、雷に親しみを少しでも持てるような話をしようか。漁師の間では、雷鳴は『女神の呼び声』と言われているんだ」
「どうしてですか?」
「ウルガ南部の漁師の言い伝えでは、雷は海の底の冥王に攫われて行方知れずになった子供を、暑季の女神が捜す呼び声と言われている。そのため、雷が鳴っている間は屋外に出たり船を出してはならない。雷に打たれたり、暑季の女神が自分の子と間違えて連れ去ってしまうからだ」
「そうなのですか?」
「昔話によると、暑季の女神は元々は大気を穏やかに温め、雷を大地に降らせて豊作をもたらしてくれる女神として古来から人々に敬われていたらしい。だが、ある日突然、彼女の大切な子供が行方不明になってしまった。彼女は大いに悲しみ、我が子を探すために必死に声を張り上げ、当てもなく彷徨い続けた。だが、あまりに心を乱していたため、彼女の力が暴発してしまうようになった。だから暑季の女神が来る季節は大気が必要以上に熱せられて酷暑となり、雷が大地に生きとし生けるものを襲うようになってしまったという。だから漁師は雷の時には船を出さない。遮る障害物がない広場で身をさらせば、雷に撃たれる可能性が高くなるからな」
「……その子どもは今も見つからないのでしょうか」
「それはわからない。もしかすると、もう見つかっていて、これは呼び声なんかじゃなくて、こら、と悪戯を叱っているのかもしれない。それと、もし昔話が本当なら、暑季の女神とやらは相当野太い声の持ち主ということになるぞ。おそらくはかなり恰幅の良い豪快で立派な大女なんだろう」
ああ恐ろしい、と至極まじめな顔で怯えだしたラキアの姿に、フィーネは思わず噴き出した。
「女神の悪口を言って罰が当たっても知りませんよ」
「……まずいな。今のを聞かれていたら本当に雷を当てられかねない」
あわあわと怯えだしたラキアが滑稽でフィーネは思わず噴き出した。
さらに、どうしたことか、胸のつかえが少し取れたような気がした。雷を天の炎の槍と考えるよりも、女神の呼び声と思えば、心なしか恐怖も薄らいでいくような気がする。
「大丈夫ですよ。今ここで雷を落とされても雷避けが守ってくださるはずですから」
「そのはずだが、建物から出た瞬間を狙われるかもしれない。最高神官長に頼んで雷避けの呪いをかけてもらわねえと!」
わざとなのかそうではないのかわからないが、彼の慌てぶりがとにかく可笑しくて、フィーネは再び声を上げて笑ったのだった。




