五章 秘密を抱える者 (5) 怖いもの
突如として空を震わす大きな雷鳴が鳴り響き、フィーネは恐怖で飛び上がった。
それから袖机に縋りつき、肩を落とすと慌ただしく顔を上げ、せわしなく視線を左右に動かした。
「……っ、どこ!」
だが、いつも耳栓を入れて袖机に置いているはずの真鍮の小箱が見つからない。中には袋に入れた耳栓が入っているはずなのだが、午睡の前には確かにそこに置いたはずのものが今はないのだ。
おろおろとしていると再び閃光と雷鳴が轟いた。
「きゃああああっ!」
柄にもなく甲高い悲鳴を上げたフィーネは逃げるように寝台を降りて下に潜り込んだ。
「おい!? 大丈夫か!?」
「え、ええ……っ、大丈夫です。ええ……」
喉に力が入らず震え声になりながらラキアの問いに答えるが、大丈夫なんかじゃない。蜜蝋と綿を固めた耳栓。あれがないとフィーネは雷の最中はまともに無言でいることすらできないのだ。
寝台の下を覗き込んできたラキアは物凄く驚いた様子で目を見開いていた。
「雷が怖いのか?」
「い、いいえ! ちょ、ちょっと、音に驚いてゆ……ゆゆ指輪を……お落としてしまったみたいでして……。で、殿下はお忙しいのでしょうからお気になさらず、お……お早く出て行ってください。もうじきヒレナも戻ってきます。鉢合わせると厄介ですから、今すぐさっさと出て行ってください!」
誰が聞いてもばればれの嘘をつくのは気が引けるが、弱みを知られたくなくて平気なふりをする。心配そうに覗き込んでくるラキアの顔に反感を覚えたが、喉が震えてうまく声にならない。
ただ、腹の底と周囲の空気を震わす低音に怯えることしかできず、フィーネは歯を食いしばった。
とにかく、ラキアにはいますぐこの部屋から出て行ってほしいと願った。
だが、フィーネの望みも虚しく彼は出て行こうとしてはくれなかった。ただ、真剣な顔つきで頷くと立ち上がり、窓の外の跳ね上げ式の雨戸と硝子戸を閉め、窓帷も閉めた。一気に室内が真っ暗になった。
それから彼は前もって灯していた夜明真珠の明かりを手に寝台のそばに戻ってくると、袖机にそれを置いて片膝をついた。彼は寝台の下を覗き込むことはしなかったが、代わりに手を差し出した。
「緑水宮を含めて、王宮の建物の屋根には全て雷避けがついているから安心しろ。たとえ稲妻が落ちてきても地面に逃げていく」
だから出てこい、とラキアは呼びかけた。
差し出された手は掴まずに、フィーネは震えながらも自力で外に這い出た。
彼はフィーネを見ると、すまないが、と一言詫びてフィーネの髪に触れた。
「せっかくの綺麗な髪がぼさぼさだぞ」
彼は綿ぼこりをいくつもつまみ、それとなく屑籠に捨てた。
「あとでヒレナどのに梳いてもらえ。あんた、少なくとも六十は年食ったみたいだぞ」
「え!?」
フィーネは髪を手で引っ張って確かめた。なるほど、彼の言葉通り、埃で少し白くすすけているかもしれない。
「放っておいてください。というより、今すぐ出て行ってください!」
その瞬間、雷鳴が轟き、フィーネは幾度目かもはやわからぬ悲鳴を上げて飛び上がった。
「ほら、そんなに怖がっているやつを放っておくことなんてできるか」
「いいんです!」
そうは言ったものの、さらなる轟音に精神を追い詰められた。
虚勢を張るのもむなしく、フィーネは思わず縋るようにラキアの腕にしがみついてしまった。
「すみません!」
慌てて手を離すが、彼の腕に包まれた。
普段は長袖でわかりづらいが、しっかりと鍛え上げられた腕は、震える華奢な肩を強く支えた。
さらに、彼の身体からは微かではあるが『至尊に捧ぐ万花の風』の香の高貴な香りがしてとても心地良く、鼻を埋めたい衝動に駆られた。
「落ち着け。大丈夫だから」
ラキアは寝台にフィーネを軽々と抱き上げて座らせると、自らも傍らに腰掛けた。
それから彼はすまない、と詫びてから子供をあやすようにそっとフィーネの頭を撫でた。
「何するんですか!」
フィーネはかっとなって彼の手をはたいた。その瞬間、フィーネは何故か手の甲を叩かれたような痛みを覚えた。彼が叩いたわけではないのに一体何が起きたのだろうか、と疑問に思ったのだが、とにかくフィーネは尋常でないほど取り乱していた。恋人でも夫でもないのに女の髪に気安く触れてくるなど、はしたなく、貴族の子女に限らず庶民でもすべきことではない。
雷など怖くない。平気だ。ラキアだかアウィルドリーシャなのだか不明な得体の知れない奴の助けなど要らない。
だからこそ、今はただ、独りにしておいてほしかった。それだけをひたすら念じ続けてフィーネは雷鳴とラキアから逃れるように身体を丸め込む。だが、その身体を守るように力強い腕に力が籠もり、全身を抱き寄せられた。
「な、何するんですかっ!?」
「大丈夫だ」
フィーネの怒鳴り声に彼の低く穏やかな声が重なった。驚くほど優しげな声にフィーネは一瞬ではあるが、これがラキアであることを忘れた。
いつもの刺々しい感じはなく、アウィルドのように真綿のようにふわふわとした雰囲気に戸惑い、フィーネは口を引き結んだ。
フィーネにはこの世でどうしても嫌いなものがある。
人を焼く炎。炎をもたらす雷。
雨季は特に雨が多い。
一日中雨が降り続くことはほとんどないが、朝や夕方頃を中心に、雷や強風を伴った一過性の驟雨が降ることがある。だが、雨も雷も強烈で、度々被害が出ることもある恐ろしい季節だった。
「……すまない。こういう時、おれにはあんたに何と声をかけてやればいいのかわからない。だが、おれが小さかった頃、雷を怖がっていたおれに母がこうしてくださった。怖くて泣くしかなかった小さなおれを、あの方は、心臓の音は人を落ち着かせるんだと言って守ってくださった。だから……」
「ラキア様……」
穏やかな声を聞きながらフィーネは目を閉じた。なるほど、規則正しい音に意識を向けると、少しだけ冷静さを取り戻すことができそうだ。
だが、気のせいだろうか。彼の心音は少し速い。
彼は抱き締めていた腕を解くと、そっとフィーネの髪に残っていた綿埃を指で摘まんだ。
顔が向かい合わせになった瞬間、彼は柔らかい笑みを浮かべた。
「あんたは強いんだろうが無理はしない方がいいと思うぞ。怖いときに独りでいたほうがもっと怖さが増すだろう?」
「どうして……助けてくださるのですか?」
「怖がってる奴を助けたいと思うことに理由が要るのか?」
「でも、あなたはわたしのことを嫌っているはずです。それなのにどうして……」
「おれは別にあんたのことを嫌ってなんかいない。……あんたはどうだか知らないがな。まあ、白鴎宮から出て行ってほしいのは事実だし、そのためなら嫌がらせをする。だが、それはあくまであんたを追い出したいからで、あんたが嫌いだからという理由からじゃない」
「……嫌いじゃないのに嫌がらせをするのですか? どうして?」
「……すまないがその理由を答えるわけにはいかない。違う、答えたくない。けど、ひとつだけ言えるとするならば、あんたが怖い思いをするのは嫌だからだ」
ラキアの目は真っ直ぐこちらを見る。フィーネはずっと夜明真珠の連珠の入った布袋を首から提げているが、布越しに漏れる光が照らす彼の顔はとても穏やかだった。暗がりでもはっきりとわかる夜の海を思わせる瞳はとても優しい色を滲ませながらフィーネに向けられていた。
「怖いなら怖いとはっきり言えばいいんだ。誰にだって怖いものの一つや二つはある。それは弱みかもしれないが、恥じることでもなんでもない。だから隠すことはないんだ。むしろ、そういうものが全くない奴のほうがおかしいとは思わないか?」
「あなたにも、怖いものがあるの?」
率直に問い返すと彼はしばらく間をおいてから小さく頷いた。
「……もちろんだ。山ほどな」
照れ隠しのようにはにかむような笑顔にフィーネは驚いた。
今の彼は幼子のように無垢な表情をしていた。黒い瞳が光をたたえ、やわらかな曲線を描く輪郭は、優しげな印象を抱かせる。
こういう顔もするのか、とフィーネはとても意外に思った。
王宮入りしてから見る彼の顔は、下品で気色悪い面構えか、何か寂しげで悲しそうな顔ばかりだった。時折見せる悲しそうな目を見るとフィーネも辛い気持ちになった。
だからこそ、七年前にフィーネの心を救ってくれた時と同じ眼差しを浮かべる今の彼にとても親しみを覚えた。
ところで、アウィルドの怖いものとは一体どういうものなのか。少し興味が湧いてきた。
「……例えば、殿下はどんなものが怖いのですか?」
彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべた。しばらく目を見開いてから「困ったな」と少し渋った。
「ごめんなさい。踏み込んだ質問でした……」
「違う、そうじゃない。あまりにも多すぎて挙げればきりがないと言うか、どこから言えばいいのか迷ったんだ。それに……大の男がこんなことを言ったら女々しくて少し恥ずかしいと思ったんだ」
「そんなことありません! あなたは先ほど誰にだって苦手なものはあるから恥じる必要はないと仰ってくださったばかりではありませんか!」
「それもそうだな。なら、正直に話すが……まずは雷だろう? それと虫――特に脚や節の多いやつが特に怖い。ほかにも夜、女人、大雨、鳥料理、それと……まだまだあるが……」
そこまで言うと彼はにやり、と悪巧みをした悪童のような笑みを浮かべた。
「とりあえず、ここ最近のおれが一番怖いと思うものはファーシャ殿だな!」
「なんですって!?」
その声に雷鳴が重なりフィーネは再び悲鳴を上げてラキアの衣の胸元を掴んで身体を縮こませた。彼が窓を閉めてくれたお陰で恐ろしい稲光を見ずに済んでいるが、音だけでも怖いのだ。
「大丈夫だ。さっきも言ったが、白鴎宮の建物には雷除けがついているから雷が落ちても被害は出たりしない。それに、もしもここに落ちてきたらその時はおれも道連れだ」
安心させるように一言一言を噛み締めるようにゆっくりと囁く声はとても落ち着いていた。
「……それは少し嫌かも知れません」
「ははは……。本格的に嫌われたもんだな」
王族の彼を道連れにしてしまうのは申し訳ない。そうフィーネは言ったつもりだったが彼は違う意味に受け取ったようだ。
「まあ、自業自得か」
そう結論づけると、彼は「しかし……」と疑問を含んだ声で言った。
「雷なんてこの国じゃ日常茶飯事だろうに、今までどうしていたんだ?」
ラキアの不躾だが当然ともいえるその問いをフィーネは黙ってやり過ごそうとした。
エレス本邸にいた頃は地下の自室の寝床の掛け布を頭から被ってうずくまっていた。町医者の家に預けられて、自由に出歩くことが出来るようになってからは厨の棚の一番下の段に入って餅やへそくりの入った壺と一緒に隠れていた。両耳を手で強くふさいで目を閉じて猫のように小さく丸くなる。世界から自分を遮断する。そうすると、いつの間にか音が遠くなっていた。
そうして雷が止むまでずっと泣いていた。
王都に来てからは耳栓をしてなんとかやり過ごしてきた。
――などとは絶対に言えない。
馬鹿にされるだろうし、大人にもなって子供の頃からの悪癖が治らずにいることが情けなくなる。そして、なによりも恥ずかしすぎるのだ。
どうにか取り繕うことはできまいか、と言い訳を考えながら答えずにいると、ラキアはぽんと拳でもう片方の手をたたいた。
「わかったぞ! へそくりと一緒に戸棚の中にでも隠れていたんだろう?」
「どうしてわかったんですか!?」
無遠慮な回答だったがずばり的を射ていたことに驚いて思わず反射的に答えてしまった。すぐさま後悔したがもう遅い。ラキアは目をぱちくりさせてフィーネを見つめた。
「………………え、そうなのか?」
思いがけず正解を当ててしまったことに対して、彼はばつの悪そうな引きつった顔に無理矢理口元に笑みを貼り付けた。さぞ意外そうな反応を示す彼をよそに、フィーネは顔が熱くなって俯いた。
しまった、ばれた。いや、違う。自分からばらしてしまった。
誰にも話したことはなかった。
知っていたのはエレスの屋敷にいた者とヒレナと町医者の師匠とリリネ師匠だけだ。実父にすら話したことはなかったし伯父は口が堅い。アウィルドの使いの鳥にも口止めを頼んでいたからアウィルドは知らないはずだった。
それよりも、心臓がばくばくと大きな音を立てて、冷や汗が出る。呼吸もせわしなくなり、眩暈とともにフィーネは戸惑った。
雷が怖いからなのか、恥ずかしいからなのか。どちらともわからぬまま、フィーネは羞恥心のあまり、いますぐ穴に入ってこの世から消え去りたい気分に駆られた。
「すまない! まさか図星とは思わなかったんだ」
「べつに謝ってくださらなくてかまいません。笑ってくださって結構です!」
「いや、笑えないだろう」
「どうしてこういう時だけ馬鹿にしてこないの!? いつもいつも私のことをチビだのガキだのちんちくりんだのと馬鹿にしてくるくせに!」
「なんで雷嫌いを馬鹿にしなきゃならないんだ!」
彼の返事はどこも間違っていない。だが、腹立たしくて彼に背を向けて俯いた。
いつかはばれるとは思っていた。
色々と覚悟していたのに、馬鹿にされた方がまだ怒りで気が紛れてましだと思えたのに、フィーネが考えていたよりもずっと彼は真剣にフィーネの話を聞いてくれていたようだ。
だが、弱みを彼にさらしてしまったことと、子供扱いされたようでそのことが悔しくてフィーネは喉に力を込めて負の感情を押し止めた。
そんなフィーネの様子を見ながらラキアは頭の横に手を当てて低くうなった。
「だけど困ったものだな。雨季は雷なんて毎日のように起こっているし、毎度毎度こんなんじゃ大変だろう」
「いいえ。平気です」
そう返したフィーネの顔を見ながら彼は何やら考え込んでいた。
「……全然平気そうには見えねえんだけどな。それなら、雷が怖くなくなる方法を教えようか」
「そんな方法なんてあるはずありません」
「ところが、あるんだよなぁ。とっておきのやつが」
もったいぶった彼の言葉になぜかフィーネは淡い期待を抱いた。そんな夢のような話があるのなら、ぜひとも知りたい。いつまでも雷嫌いを克服できないことは嫌だ。
「じつはおれも小さかった頃は雷が大の苦手でな、とある人が教えてくれたんだ」
「とある人って?」
「……先王だ」
「え?」
「あんたはあの方の冷酷な王としての側面しか知らないだろうから意外に思うかもしれねえけどな。……おれがしがない泣き虫なクソガキだった頃のあの方は、真面目が服を着て歩いているような方だったが時折とんでもなくふざけたことをするようなとても機知に富んだ変人だった」
「そうだったのですか?」
「ああ。少なくとも、おれや母の前ではそう振る舞っていたし、臣下からも慕われるような人だった」
彼は目を伏せて顔をほころばせた。
「だからたぶん、効果があるだろうから期待してくれ」
「……一体どうすればいいのですか?」
「それがだな、とても難しい技を必要とするから心して聞いてほしい。簡単に教えられるものでもないんだ」
彼は妙にかしこまって二、三度わざとらしく咳払いをした。もったいぶるように神妙な顔つきで今から指示することを真似るように告げた。
「まずは目を閉じて思い切り息を吸って――」
言われたとおり、フィーネは息を吸い込んだ。
「しばらく息を止めて――」
ラキアは黙り込んでしまった。
どれだけ息を止めるのだろうか。だんだんと、苦しくなってきた。耳がつんとし、腹の力が抜けて肺に蓄えていた空気が少しずつ鼻から漏れてゆき、息を吸いたくなってきた。
『怒鳴るんだっ!!』
「うわっ!!」
耳元で急に大声を出され、あまりのうるささに驚いたフィーネは身体をびくりと震わせた。
「うるさいっ! 鼓膜が破れたらどうしてくれるんですかっ!」
フィーネはほとんど反射的に怒鳴り返した。耳の痛みと動揺のあまり、相手への敬語もすっかり忘れていた。
ラキアは顎に手を当ててがっかりした様子で頷いた。
「う~ん、不評か……」
「不評って……。確かに鼓膜が破れれば雷鳴は聞こえにくくなるかもしれませんが、それだけは絶対に嫌です!」
「すまない、そのつもりはなかったんだ。ただ、その人が教えてくれたことには、なにかに驚けば一時的にでも注意が削がれるだろう。そうすれば、恐怖が和らぐらしいんだ」
信じた自分が馬鹿だった。
やはり、ラキアはフィーネの弱みを知った上でからかっているだけなのだ。
「おかしいな、おれはこれでなんとかなったんだけど……」
彼は怒られた時の子供のような顔で肩をすくめた。
「悪かった。加減を間違えたらしい。それなら……」
これはどうだ、と彼は二、三回咳払いをした。
また耳元で大声で怒鳴るつもりじゃあるまいな、とフィーネは警戒したが、彼は息を整えると静かに歌い始めた。
夜の空のわだつみに
散らばる金砂の星たちは
風に揺れ波に揺れ
ただおだやかに
語りかける
ゆりかごは月の舟
わたる風は
夜を越えて明日に行くよ
さあ、愛し子よ
目を閉じて眠りなさい
船出の旅路は幸いに
満ちてそなたを見守らん
『明日見の月船』というウルガ人なら誰でも知っている子守唄だ。フィーネも幼かった頃によく母が歌ってくれたのを覚えている。
赤子が眠るゆりかごを三日月の船に見立てて、それが夜の空を越えて明日という港へ向かう様を歌っている。彼は繰り返し歌った。
だが、何かがおかしい、とフィーネは眉をひそめた。
彼の歌声は低く甘くてとても素晴らしい。極上の藍染の絹の布のように深くつややかで、稀代の歌うたいの美しい声も霞んでしまうほどだ。
ところが、彼の歌はどこか珍妙なのだ。途中で半音上がったり突然ずり下がったり。声が裏返ったり、必要ない箇所でこぶしがこもったり、拍子が違ったりしていて、本来の音程とはかけ離れたその独特な音階――なかなか真似できないほどの芸術的な音痴ぶりを聴いていると、心なしか腹の底から笑いがこみあげてきそうになった。
だが、一生懸命歌っている人を笑うなど、相手に対して失礼だと自分を戒めてフィーネは出かかった笑いを堪えた。
だが、感情というものは抑えようとして簡単に抑えられるものではない。堪えれば堪えるほど、むしろ堰を切った大水のように爆発しそうになってくるものだ。だんだんと、腹筋のあたりが苦しくなってきた。
おかしさに拍車をかけたのはラキア――アウィルドの振る舞いだった。彼は本来、音痴などではなく、歌が上手いのだ。それなのに、あまりにも見事な音痴ぶり――不安定さや元の旋律がわからなくなるほどあまりにも上手に音を外すものだから、余計におかしくなってきた。
とうとう耐えきれなくなって笑い声を立てると、それに気づいたラキアが顔を赤らめた。
「ちょっと……笑うなっ!」
彼は首まで赤く染まりながら怒鳴った。だが、その様子がまたおかしくて、フィーネの笑い声が大きくなる。
「……まさか、そんなに笑われるとは思わなかった。おれの歌はそこまで下手か?」
「ち…違いますよっ、たぶん……。ほ、ほら、あなたってよくそんな不思議で難しい旋律の曲を歌えるなあって思って感心して……」
「…………下手だと思うならはっきりそう言ってくれ。半端に庇われるとかえって傷つく……」
世の中、慰められることほど惨めなことはないぞ、と熱心に訴える彼の顔を見て、フィーネは淡い笑みを浮かべた。
彼は語らないが、フィーネを笑わせようとしているのだ。
アウィルドは本来はとても歌が上手だ。音程も息遣いも、何もかも完璧にこなす。それを滅茶苦茶な歌に変えてしまう。
それも、気を雷からそらすことが目的だろう。
いつも顔を合わせる度に嫌味や悪口ばかり言ってくる彼とこんなにも近くで話をしていることは何故だか不思議な心地になる。
それに、彼はなんて温かいのだろうか。
フィーネはちら、と横目で彼の顔を見た。
黒く長い睫毛が影を落とし、知的な印象を受ける。
改めて間近でみると、彼の顔は目元に幼なさも残っているが端々に大人びた美しさが漂っていることに気づいた。
フィーネは彼のことがよくわからない。
今日の彼はやけによく喋る。
そして優しくて素直だ。
それから、彼はフィーネの気を紛らせるためによく語った。
父親から縁起の良い言葉を片っ端から詰め込んだ百六十八文字の長い名前をつけられてしまった姫君の受難。眉毛虫と呼ばれる虫にとりつかれた大臣の笑い話、気化熱で酒を冷やそうと砂漠で馬を走らせ続けた男の話、乾燥地帯で用いられる二重の壺による"冷蔵庫"――それらの物語はフィーネの興味を引きつけた。
フィーネの知らない話は、多岐にわたり、改めて彼の知識の引き出しの多さに驚かされた。
彼が話してくれる物語に夢中になっていると、いつの間にか雷鳴は落ち着き、鳥達が歌う声が聞こえてきた。
「良かった、雷は去ったようだな」
その言葉ではっとした。いつの間にか恐怖が薄らいでいる。
夜明真珠の明かりが照らす室内は暗いが、きっと今頃外は、雨が止んで陽が差していることだろう。フィーネの心の中にも明るい陽の光が差し込むような、とても軽やかな気持ちになった。雷の間、こんなに楽しい思いをしたのは初めてだ。だからラキアに感謝を伝えようと彼に向き直った。
触れられそうなほど近くで、吸い込まれるような深い黒目がちの瞳はフィーネを映す。その中のフィーネの銀の瞳にも彼が小さく映る。
合わせ鏡のようだ、と思ったのもつかの間、急に目の前の彼の顔が強張った。何事か起きたのかと思えば、首から額まで真っ赤になりながらがたがたと震えだした。
そして蛇を誤って踏みつけた時の犬のようにフィーネから飛び退いた。
何事かと目を見張ると彼は口元に手を覆うように当ててひどく慌てていた。
「すっ、すまない! 寝間着姿の嫁入り前の女君の寝台に許可も得ず上がったばかりか斯様に近づいてこのような真似をするなど……っ、……これではまるで正真正銘の変態ではないかっ」
「今更何を仰りますか。あなたは元々変態でしょ」
「失礼だなっ」
そう叫び返す彼の少し浅黒い肌は暗がりで見ても茹でた蛸のように赤い。うろたえた様子が子どもじみていて、おもしろ半分にフィーネは揶揄った。
「まさか。あなたの評判は私も、しかと存じておりますよ。『百人切りの蛇の君』とか『千夜一夜の槍使い』など、とんでもないあだ名までついているそうですし、女遊びに明け暮れるなんて、楽しそうでいいですよね」
「おい、どこでそんな話を聞いたのだ? そんな下世話な話、そなたの口から聞きたくない!」
「下世話ってね、ご自分のことなのに恥ずかしがることなんですか」
「それはそうだが、わ、おれはな……」
彼はしどろもどろになり言葉を詰まらせた。また妙な言葉遣いになった。それは明らかに第三王子ミムウェル・スヴァロン・ラウルガル・タイトではない言葉遣いだった。
ぼろを出したのだ、とフィーネは悟った。
ラキアは慌てふためいた態度でぶつぶつと言い訳を呟いていたが、ふと何かを思い出したように急に真顔になった。
「ちょっと待て。そもそも仮にも良家の姫君がそんなことをむやみやたらに他人に言うなど、それこそはしたないのではないか?」
「おや、初対面早々にその『良家の姫君』とやらに対して胸の大きさを馬鹿にしてきた高貴な殿方には言われたくありませんね」
「それは……」
フィーネの言葉に何も言い返せなくなり、ラキアは無言で目をそらした。
「だいたい、あれは何ですか。あなたにとって女の価値とはあれがすべてなのですか?」
「……っ」
彼の様子にフィーネは思わず笑いたくなり小さく噴き出した。
「殿下って噂に聞いていたよりも案外うぶなんですね。ちょっと意外かも」
「うるさいな! いいか、おれは四六時中女のことを考えているぞ」
「はいはい」
とってつけた言い訳のような言葉を軽くいなした。
彼は言っていることと行動がまるで噛み合っていない。女性を苦手としているという女官長やルラの話は本当なのかもしれない。
「あなたはまだ勘違いなさっているようですのでひとつ訂正申し上げますが、私は良家の姫君なんかじゃありませんよ。私は町医者の家で育ったんです」
その言葉に彼はなぜかはわからないが、傷ついた様子だった。
「どうなさったんですか?」
「……いや」
なんでもない、と彼は俯いた。だが、もういちど同じようにそれを否定するようになんでもない、と反駁するように同じ言葉を先ほどよりも強い調子で繰り返したのだった。




