五章 秘密を抱える者 (4) 神鳥と馬鹿王……子?
午睡の時間となり、寝間着姿のフィーネは寝台の上で目を見開いていた。
驟雨が近いのだろう。陽光は曇天に遮られており、室内は薄暗かった。
今、この『片翼候補のための部屋』の中にはフィーネしかいない。ヒレナや侍女達は最高神官長から確認事項を説明したいと呼ばれて出払ってしまったのだ。
正直なところ、あまり眠りたくない。しかも、もうすぐ雷が鳴り始めるだろう。
こんなことなら午睡に入る前にノルンから王宮関連の資料を何かしら借りておくべきだった、と後悔した。
幼い頃からフィーネはあまり自身の睡眠に対して良い印象を持てずにいた。楽しい夢を見た覚えがないからだ。大抵は目を閉じて考え事をしているといつの間にかすとんと意識を失い、目を開ければ現実に戻ってくるのだが、そうでない場合は悪夢を見てしまうのだ。
しかも、昨晩は奇病の発作が出たため、ほとんど眠ることができなかった。故郷を出てから毎日のように悪夢に悩まされていたが、神殿で修行していた期間も王宮入りしてからもそれはずっと続いていた。おまけに、昨日の午睡の時は奇妙な夢を見てしまい、今も心のざわつきが止まらない。
だからこそ、フィーネは休息をしたいのに眠りたくなかった。
だが、さすがに連日の疲労が溜まりすぎていたのだろうか、先ほどから何度か目を開けたまま意識が飛んでいた。
このままではいずれ必ず身体に不調が出てしまうだろう。そうなれば、ラキアとの賭けどころの話ではなくなってしまう。せめて、馬鹿祭り期間中だけでもそのような事態は避けなければならない。
悪夢を見ませんように、と願いながら目を閉じると、急に瞼が重くなった。
現と夢の境が曖昧になってきた頃、開け放った窓の外からばさばさという音が近づいてきた。
何の音だろうか。
これは、鳥の羽ばたく音だろうか。
と考えると、沈みかけていたフィーネの意識が夢の泉から現実に引き戻された。
『やあ』
目を開けて呼ばれた方に顔を向けると、いつの間にか窓辺に一羽の奇妙な鳥がとまっていた。
その姿は昨日の午睡の時間に見た夢の通り、一寸たりとも変わらぬ姿にフィーネは再び度肝を抜かれた。
この鳥は夢の中でラキアと話をしていた『神鳥』だ。確か、名はアシュハド、といったか。
純白の体躯と白銀の翼。虹を束ねたような九本の尾。孔雀の羽のような目玉模様が印象的な尾羽は風で揺れる度に、薄暗い室内でもきらきらと輝いた。赤みがかった色から紫色まで鮮やかな変化を遂げてゆき、フィーネの語彙では言い表せないほど美しい。
さらに、金の右目と、銀の左目と額の夜明真珠の宝玉に似た虹色の飾りが煌めく姿はとても神々しかった。
ぼんやり意識が定まらないまま鳥の神を観察していると、彼は飛び上がってフィーネが横たわる寝台の袖机に置いてある銀の水差しを軽くつついた。なにやら規則性のある調子の音には聞き覚えがある。これは、『鳥使いの言葉』というこの国の『鳥使い』と呼ばれる特別な職業の者や一部の諜報を担う者が用いる符号だ。
元々は、戦の最中に音や光の点滅を利用して遠方に情報を送るために用いていた符号を利用しているのだが、ウルガ王国には、風の女神の化身たる『翼王』や、鳥の神が姿を変えた『神鳥』が時折現れていたためか、一部の鳥はその符号を学んで人間と簡単な意思疎通をはかることが可能だった。
現代のウルガ王国において、『鳥使い』を専門とする者達は、その初歩的な方法のみならず、鳥笛や歌や絵などの秘術を用いて、符号を理解できない鳥とも会話をすることができるという。
ユリフェ家の者も『鳥使いの言葉』の一番初歩的な音や光の点滅の長短を用いた方式を幼い頃に教わるが、フィーネだけは祖父の命令で教えてもらうことができなかった。祖父亡き後なら教わることも出来ただろうが、その頃にはすでにフィーネは町医者の家に修行に出ていたため、結局、『鳥使いの言葉』を学ぶ機会を得ることができなかった。
アウィルドリーシャは何の訓練をすることもなく鳥と会話することができた。彼は特に鳥の声を真似るわけでも、道具を使うわけでもなく、ただ人間と話すときと同様に話していた。彼にとって、鳥の声とは鳴き声でも美しく複雑な旋律でもなく、『言葉』に聞こえていると話してくれたことがあった。幼かったフィーネは、自分の指に乗せたふわふわとした丸い身体の雀の黒くて可愛い双眸を見つめ、アウィルドが通訳してくれる言葉を聴きながら、憧れと羨望の念を抱いた。
だからこそ、フィーネは一度でいいから鳥と話をしてみたいと長年考えていたのだが――。
『いやあ、はじめまして、でいいのかな、嬢ちゃん。いや、フィーネ? おれはアシュハド。こんな見た目だけどいちおうは、神鳥と呼ばれているんだ』
「鳥が人の言葉を喋った!?」
フィーネは驚きとともに、掛布を吹き飛ばして飛び起きた。
『おいおい、誤解しないでくれよ。おれが人の言葉を喋ったんじゃなくて、あんたがおれのことばを理解できてるんだ』
「……夢、ですよね」
頬をつねってみるが、痛い。大丈夫だ。たいへん残念ではあるが、これは夢は夢でも感覚のある夢だ、とフィーネは無理やり自分を納得させた。
『ああ。まだ夢だと思ってるのかい? 残念だけどこれはちゃんとした現実だよ』
フィーネはがたがたと震えて首を横に振った。
馬鹿祭り二日目の晩に初めて会った時は美しい音色にしか聞こえなかったはずの彼の声が、昨日の夢と同じように飄々とした兄貴肌な若者の話し声に聞こえる。
「なんで……!? 鈴晶石の石琴のような音色だったはずなのに!」
『おや、驚いてくれるなんて、なんか新鮮な反応で嬉しいよ。あいつなんて、おれたちと会話できることを最初から当然のように受け入れていたからな、まったくもって可愛げのないやつだよ』
「あいつって陛下のことですか?」
『ああ、そうだ。おれは風の女神の兄だ。アシュハドや神鳥と呼ばれることもあるけど、鳥の神とも呼ばれている。歴代の翼王と呼ばれる奴らの一生を見守り、支えることがおれの役目だ』
「それは存じております。ですが、どうして私はあなたの言葉が分かるのでしょうか?」
『そりゃ簡単な話だよ。この前、おれがあんたの額を小突いただろ? あの時に少し神力を込めていたんだ。そうすると、一時的だけど鳥の言葉がわかるようになるんだ』
「そうなのですか!? すごい……」
彼に額をつつかれた時は、彼に嫌われたのだと物悲しくなったものだが、そうではなかったのはとても嬉しかった。
『しかしフィーネも大変だよな。偽片翼なんて役目を押し付けられて嫌じゃないのか?』
「教えてください、神鳥様! 陛下の片翼様はどこにおられるのですか?」
『おい、フィーネ? おれの質問を無視するつもりか?』
「すみません、気が逸りすぎました。ですが、神鳥様なら本物の片翼様のことをご存知だと思ったので知りたくなってしまい、つい……」
『本物の片翼が誰かって話だが、今はまだ教えるわけにはいかない。言えばあんたの心に隙が生まれて、片翼を狙う存在と片翼の間に縁を作ってしまうからな』
穏やかではないことを聞いてフィーネは腹の底に冷たい心地が広がっていくのを感じた。
『まあ、おれのことは気軽にアシュハドと呼んでくれや。あんたとはこれから長い付き合いになるだろうからな』
「……どういう、意味ですか?」
『あんたはアウィルドの友人だろ? よく友人の友人は他人と言うけど、あんたはおれの『妹』の友人だからな。仲良くしたいわけだ』
「いえ、多分ですが、陛下にとって私はもう友人ではな――」
『あいつは今もあんたのことを大事に想ってるよ。ただ、今はある事情でそう振る舞えなくなっているだけだ』
「それは、どういう意味ですか?」
『フィーネは昨日、『鳥の渡り』の術を使っただろう? あんたはあれを夢だと思っているかもしれないが、夢なんかじゃないんだ。ラキアは……アウィルドリーシャは死に囚われている。生きることを拒絶してるんだ』
「それは、陛下が、もう時間がないと叫んでおられたことと関係しているのですか? 翼王が世に災いをもたらす存在となり得るってどういうことなんですか!?」
『あんた……』
「教えてください! 陛下は一体どういう事情を抱えておられるのですか!?」
「あのアカゲザルは亀虫の食い過ぎで腹を下して厠に引き籠もってるぜ」
いきなり件の人物の声がしてフィーネは飛び上がった。この部屋にいるはずがないのに何故いるのだ、と声がした窓の方に目を向けると、窓の外のバルコニーに黒髪の青年が立っていた。彼はにたにたと嫌みたらしい笑みを浮かべている。
「鳥相手にひとりでお喋りとは寂しい奴だねぇ」
「……どういう意味ですか」
敢えて突き放すように発したフィーネの言葉を気にするわけでもなく、彼はわざとらしくため息をつきながら足早に歩いて部屋に入ってきた。なんてところから現れたのだ、と目を丸くして見ていると、彼は蔑むような眼差しを投げてよこした。
「なに、暑さで頭がイカれた自称大人のチビ姫様が、友達がいない寂しさのあまり、鳥相手にひとりでごっこ遊びでもはじめたのかと思うと心配でねぇ」
彼はわざとらしく肩をすくめた。
「そうですね。寂しいですよ。陛下にはお会いできないし、どこぞの第三王子様が意地悪をしてきますからね」
さらりと言い返すとラキアはつまらなさそうに片方の目を細めた。
「……へえ。ならさっさと友人のいる故郷に帰ればいい」
「お断りします。生憎と、私にはヒレナという親友がおりますし、王宮の方々もとても親切にしてくださります。ですからあなたが思っているほど寂しくはございません。それに、私にはあなたの企みを阻止しなければならないという使命があるのですから、弱音を吐いている暇なんてありません」
「あっそ。可愛くねえやつだな」
「その言葉、そっくりそのままお返しいたします」
フィーネは我ながら彼の雑言に腹を立てなくなったのは短期間ながらに成長したな、と自分で自分を誉めた。
「ところで、殿下はどうして窓から現れたのですか? ……まさかとは思いますが、覗きですか?」
「し、失礼だな! 女君の部屋を覗くような悪趣味な真似をするわけがあるはずなかろう!? 馬鹿兄貴から預かった飼い鳥が逃げたから捕まえようと追いかけていただけだ」
『あいにく、おれはあんたに飼われた覚えはございませんがねぇ。あーやだやだ』
アシュハドがすかさず突っ込みを入れた。
「それに、ここは二階ですけど、どうやってここまで上がってきたのですか?」
「物見塔をよじ登った。それから屋根伝いにこいつを追いかけていた。なにか問題でも?」
悪びれた様子もなく堂々と返すラキアにフィーネは呆れてため息をついた。ろくに道具も使わずに二階まで上ってくるなんて、どれだけ身体能力が高いのだろうか。見た目には筋骨隆々という感じではないのだが、どうやって自分の体重を支えて登ってきたのか甚だ不思議だった。
しかしながら、よじ登る最中の姿を想像するだに少し滑稽な気もした。
「階段を使えばよかったじゃないですか。あなたは筋肉馬鹿ですか」
「言ってくれるな。まあ、否定はしないけど……」
ラキアは恥ずかしいのか、誤魔化すように目をそらしてこめかみを指でかいた。
「……あと、あんたの寝室に侵入したのは悪かったとは思う。すまなかった」
「まったくです。ですが、どうしてそんなに慌てていらっしゃったんですか?」
「その鳥がおれから宝物を奪って逃げたからだ」
『ぼやぼやしてるあんたが悪いんだぜ、馬鹿王……子?』
アシュハドの挑発的な悪口に対してラキアはまるで聞こえていないかのように表情を微動だにせず、フィーネが座る寝台の袖机の上でふんぞり返るアシュハドに向かって駆け寄り、手を伸ばした。白い鳥は、ばさばさ、と羽を震わせてラキアの手を跳ね除けると優雅かつ美しく真上に飛び上がった。
ラキアは思わず、しまった、と呟くと目でアシュハドを追った。
神鳥は空中をすばやく滑空し、フィーネの膝の上に着地した。彼はぺたん、と伏せて座ると丸みを帯びた体を左右に揺らしてフィーネの脚の間の溝に半分ほど体を埋めた。
『ああ、柔らかい太股だねえ。かといってふくよかすぎるわけではなく、程よい弾力がある。うーん、やっぱ女の子の膝枕っていうのは最高だねえ』
「ちょ……」
寝間着の長い裾の布越しだが、彼の腹の羽毛がもぞもぞしてくすぐったい。妙なところをまさぐられているような気分になり、恥ずかしさを感じ、フィーネは戸惑った。
「ちょっと、やめて……」
『我慢してくれ。これならラキアはおれに手出しできないだろう? 女君の太股に手を伸ばしたとなりゃ、一大事だもんなぁ』
何を言っているのだこの変態は、と呆れて物を言えなくなったフィーネだが、ふいに身を震わせる彼の腹の羽毛の中から寝間着の布の上に何やら硬い中指ほどの長さの物体が落ちてきた感覚がした。
「……アシュハド、いい加減にしろ」
どすのきいた声を訝しんで顔を上げたフィーネは、思わず口から心臓が飛び出しそうになった。ラキアの目が据わっていた。何故かはわからないが、ものすごく怖い。
『おお、怖っ!』
アシュハドがぶるる、と震え上がった。白い羽毛が敷妙の上に散らばるように舞った。
恐らく、ではなく一言一句確実に、ラキアはアシュハドの言葉を理解している。アウィルドリーシャ本人なのだから当然だ。その上で彼は『第三王子』としてアシュハドの言葉を理解できていないふりをしているのだ。そして、アシュハドもわざと彼をおちょくって怒りを誘い、ぼろを出させようとしている。
「……その鳥をこちらに渡せ」
驚くほど低く冷たい声音にフィーネは震え上がった。今まで見たことのないような冷酷な表情を目の当たりにしてみればフィーネは雛鳥同然だった。こんなに怖い人とは思わなかった。
『ファーシャ様、おれを助けて下さい。また鳥籠に放り込まれて閉じ込められるなんてまっぴらごめんなんです。どうか、この、か弱くも哀れな小鳥めをお助けください』
「え……でも……」
『助けてくれたらたんまり礼をするからさぁ』
くねくねとしながら他人の足の上でごまをする変態鳥に同情の余地はないが、この後のことを予想すると少し気の毒に思えた。
礼など特にいらないが、見るからに頭に血が上っていそうなラキアに素直に渡すのも心配だった。彼がアシュハドを害することはおそらくほぼないと思うのだが、雑に扱いそうな気はしたのだ。
それに、昨日の夢の事実関係を確かめたり、もっとアシュハドに聞きたい話があるのだ。連れて行かれてしまっては困る。フィーネは、ひとまずアシュハドの腹の下に手を入れて膝の上の物体を手の内に隠しながら寝間着の衣嚢の中に放り込んだ。
「……あの、ラキア様? この鳥、とても珍しい種類の鳥で可愛いですね。あまりにも可愛らしいのでもうしばらく一緒にいたいのですが、少しの間お借りする事はできませんか?」
「可愛い? こいつを見てそんなことを言う奴はあんたがはじめてだ。あんた、こいつが何なのか知らねえの……いいや、そういえば知らなかったか」
「神鳥さまですよね、一昨日ヒレナに教えてもらいました」
「なんだ、知ってるんじゃねえか。なら説明は不要だな。それと、その鳥はこの後取って締める予定だから貸すわけにはいかない」
「とっちめるって、それじゃ虐待じゃないですか! 可哀想です! ますますお返しできません!」
「つべこべ言わずにその鳥を返せ」
「畏れながら申し上げますが、宝物があなたの手に戻れば、あなたはこの鳥にはもう用がないということですよね。それなら、宝物だけお返しします」
そうは言っても宝物とは一体何だろうか。
もう一度衣嚢の中を手で確かめると、細い金属の塊の手応えがあり、溝やぎざぎざのついた形状には心当たりがあった。
――鍵?
間違いない。鍵だ。しかも、首から提げるための紐がついている。だが、何故このようなものを彼は必死に欲しがるのだろうか。何か大事な物を入れた箱か、王宮内のどこかの部屋の鍵だろうか。
そういえば――。
何か大事なことを思い出しかけたフィーネだったが、ラキアの鋭い声で思考を打ち切られた。
「いいかげんにしろ、アシュハド!」
しびれを切らして手を伸ばしたラキアにアシュハドがいきなり飛び立った。頭突きを顎に喰らい、羽毛で顔をくすぐられたラキアはくしゃみをした。
『悪いけどおれ、用事を思い出したぜ。というわけで、またな!』
「おい、待て! アシュハド! あれを返せ!」
ラキアの叫びも虚しく、美しい神の鳥は窓から軽やかに飛んでいってしまった。
しばらく茫然と厚い雲が陰る黒い空を見つめていたラキアはフィーネに向き直ると忌々しげに睨みつけてきた。
「……なんですか」
顎を引き、上目遣いに見上げながら、フィーネはひるんだ。何を考え、何をするつもりだろうか。彼はフィーネが鍵を持っていることに気づいているだろうか。それともアシュハドが持っていると思っているのだろうか。
あれこれ考え込むフィーネの足元にラキアは一瞬目を向けたが、特に何を言うわけでもなく彼は踵を返した。
「邪魔したな。おれはもう行く」
彼がフィーネの寝室から出て行こうとバルコニーに向かって歩き始めたその瞬間、突如として空を震わす大きな轟音が鳴り響き、フィーネは恐怖で飛び上がった。




