五章 秘密を抱える者 (2) ノルンの謝罪
ノルンは視線を逸らすと右手を首の後ろにあてがい、背を向けた。
「ファーシャ様は、わたしの首の後ろをご覧になられましたか?」
「いいえ。そこに何かあるのですか?」
「……あなたはモンクァーム救貧院という施設をご存じですか?」
「ええと、アウィルド様が先王陛下に進言して開設された、というお話でしたら存じてますが……」
救貧院とは、孤児や老人、あるいは貧困など何かしらの事情で暮らしに苦しむ者たちに屋根のある寝床を提供し、支援するための施設だ。国内にはアウィルドが先王に進言し、先王が設置した九つの救貧院がある。
ノルンが一つ結びから垂れ下がっている長い黒髪を掻き上げると、襟足の黒猫の入れ墨が現れた。
「それは……」
「この黒猫は、幸運をもたらす縁起の良い柄として王都で伝統的に流行っている入れ墨です。わたしの場合、元々はここに、奴隷の証として三本線が刻まれていました」
「え……」
「わたしの主人であったとある貴族の趣味で、その線はある物を模したいささか卑猥な柄に改造されてしまったのです。奴隷解放の際に、それを見たアウィルド様と、先王陛下がとても憐れんでくださり、消す手段が無かったため、希望者に、これからの幸運を祈る柄として今の柄へと手直しを施してくださりました」
フィーネは口を引き結んだ。
「……先王陛下の治世の最も偉大な功績は奴隷解放だったと言われております。ですが、わたしはその奴隷解放は必ずしも良いことだったとは思えませんでした。奴隷の身分は奴隷である者にとっては最低限生きていくためには必要でした。生きていくための知識や技術をすでに持っていた者は解放の恩恵を受けられて良かったのでしょうが、何も持たない末端の者は職と住処を失い、自由どころかその日を生きることが困難になりました。中には食べるために犯罪に手を染めざるを得なかった者さえいたのです」
彼の指の間から艶やかな黒髪が滑り落ちた。黒絹のような美しい輝きを目の当たりにしながらも、フィーネは彼の話をどう受け止めるべきか考えていた。
「驚かれたでしょう? 皆の知るところですので隠さずお話しいたしますが、わたしは元々奴隷階級の出なのです。わたしは史の記録者の民の生まれでしたが、人買いに捕らえられてとある悪徳貴族に売りつけられました。そこでわたしは主人が好む悪書を記憶し、諳んじる日々を送っておりました」
彼は言葉通り、本当に包み隠さず詳細を話してくれた。彼の屋敷にいた奴隷達のほとんどは十三歳以下の男女だったという。それは、幼い子供が経験するにはあまりに惨い過去で、フィーネは胸が痛んで思わず口元に手を当てて涙を流した。
「やがて奴隷解放令によってその貴族の悪事が明るみとなりました。貴族はやけを起こし、道連れに所有していた奴隷を皆殺しにしようとしたのです。しかし幸運なことに、ちょうどその直前にわたしは陛下……当時は第一王子でしたが、アウィルド様と知り合う機会に恵まれておりました。その縁によって奴隷達の多くは、国王軍に助けられたために死なずに済んだのです。それだけではなく、アウィルド様は使われなくなったどこかの貴族の屋敷を買い取って元奴隷たちに最低限以上の衣食住の場を提供したり、働ける者に職を斡旋したり、教師を雇って、知識を持たなかった者には文字の読み書きや算術など市井で生きていく上で必要な知識を教えてくださりました。じきにそこにいた者たちは己の生活を手に入れ、独立していきました。貴族たちからは、翼王様がまた風変わりな道楽を始めた、と揶揄されていたようですが、先王陛下はいたくその案を喜ばれたそうでした。図書寮長官のルーテン・フェノス様を責任者に任命し、奴隷や身寄りのない孤児たちの地位向上を図ったのです。そこの出身者のうち、希望者には『智者』の姓が与えられました。先の星見の乱の混乱の時には一度閉鎖されてしまいましたが、現在は整備し直して再開しております。それが、現在国内に九カ所あるモンクァーム救貧院のはじまりでした」
ノルンは目を伏せて足元を見つめた。
「……あの方は――アウィルドリーシャ様は、主人によって暗い肥溜めのような場所に落とされたわたしに対して、一瞬も躊躇することなく手を差し伸べてくださりました。主人によって身も心も、果ては知識さえも穢されたわたしに対して、そなたは汚くなどないと、はっきり仰ってくださりました。そして、汚物にまみれたわたしの手を強く握って腐臭に満ちた死の泥濘から、人の世に連れ戻してくださりました。それからも、後遺症に苦しむわたしの心身を気遣ってくださり、釣りや船遊びなどの楽しいことを教えてくださりました。あの方がおられたから、わたしは生き続けることが出来たのです。だからこそ、わたしは陛下に恩返しをしたいと考え、科挙を受けました」
「そんなことが……」
「ファーシャ様。憐れんだりなさらないでください。あの方に出会えたこと、そして今ここにいられることがわたしにとって何よりも幸せなのですから。……そして、わたしはあなたに謝らなければならないことがございます。わたしはあなたに対して無礼な態度を取りました。わたしはあなたの事情をすべて知っております。ですから何も知らず、何も出来やしないくせに、あの方を助けたいと身の程知らずなことを言ってのこのこ王宮にやってきたり、あの方を撲とうとなさったあなたを許せませんでした」
「それは……」
言葉を選んでうまく話せないフィーネに対してノルンは深々と頭を垂れた。
「ファーシャ様、申し訳ございません!」
「待って、顔を上げてください!」
「いいえ、まだです! お詫びついでとなり、大変無礼であることは重々承知しております。……ですが、不躾なお願いで大変恐縮ですが、もう一点だけ、あなたにお願い申し上げることをお許しください! わたしは絶対に、アウィルド様をお救いしたいのです! ですから、どうかあなたのお力をお借りしたいのです!」
「ノルン殿、そこまで畏まらなくて大丈夫です。顔を上げてください!」
それでも彼は顔を上げてくれない。堅苦しいというよりも、彼は真っ直ぐひたむきに、とても真面目な人なのだという印象をフィーネは抱いた。だからこそ、フィーネはそっと彼の両手を取った。
「なにをなさるのですか……」
「ノルン殿、大丈夫です。私もあなたと同じ気持ちです。……と言っても、私はノルン殿ほど大変な目に遭ったわけではありませんが、私も子供の頃にアウィルド様に助けていただいたことがあるんです」
「それは存じております。あなたに関する情報は既に調べてありますから」
「それならノルン殿、私が陛下をお助けしたいと思うことに嘘偽りがないこともご存知かと思います。ですが、私自身は何の特別な力ももっておりません。ノルン殿のような記憶力も、ディム殿のような剣術も、セイファン様のような多くの人を動かす力も、モールク様のような神の声を聞くことだってできません。たとえ借り物のこの左手首の腕輪の不思議な力で怪我人を助けることが出来ても、痛みが私に跳ね返ってくるので無尽蔵に力を使い続けることもできません。ですが、それでも私は医師です。困っている人や苦しみの渦中にある人を救うことが、私の使命なのです。ですからノルン殿。お力になれるかはわかりませんが、どうか私にも陛下をお救いするためのお手伝いをさせてください」
フィーネはノルンの瞳を見つめた。きっちりと真ん中で分けた前髪から覗く黒真珠のような輝きも真っ直ぐこちらを見つめていた。
「なので、ノルン殿。さっそくで恐縮ですが、朝食後に書庫に行きたいのですが、お願いしてもよろしいですか?」
彼は真剣な眼差しに温かな色を滲ませ、首を横に振った。
「ファーシャ様、それには及びません」
「え?」
「あなたはわたしが何であるのかお忘れですね」
「ノルン殿は図書寮長官でしっかり者で職務に忠実な誠実な方で……」
「そうではございません。……あなたは存外頭の回転が……いえ、今のは失言でした」
「今、私を馬鹿だと思いましたよね」
「否定はしません。ですが、肯定もしません。あなたがご存知ないのも当然ですからね」
ノルンは淡い笑みをフィーネに向けた。
「わたしは王宮の図書寮の書物を目録から内容まで一言一句漏らすことなく記憶しております。ですから、書庫に行かずとも、アウロス殿が伝えようと考えたことをいつでもあなたにお話しすることができるのです。ですから、あんな遠い書庫に赴く必要はございません」
「それではこれから――」
ノルンは急に口元に指を立ててフィーネの言葉を遮った。それから身振り手振りでもっと身を低くするように指示した。
「ラキア様です」
ノルンは声を潜めていた。生け垣のように茂った槿の植え込みの葉の隙間から目を凝らしながら覗くと、いつもの青い長袖の衣に幅の広いつばの麦わら帽子を被った黒髪の青年が見えた。水瓶や柄杓の入った木桶、小型の円匙や鋏を積んだ庭師用の手押し車から、がさごそとじょうろを取り出すとさっそく水やりを始めた。水を撒くだけでなく枯れた葉や咲き終わった花を鋏で切り取ったり、土の具合をよく確かめている。その様子は王族というよりも庭師にしか見えなかった。
しばらく彼の庭仕事を観察していると、ノルンに袖を軽く引かれた。夢中になって気づかなかったが、彼がこちらに近づいてきていた。
植え込みを挟んでいるからまだ気づかれてはいないと思うが、ひとまず場所を変えようと考えた瞬間、ラキアに呼ばれた。
「ノルンとファーシャ殿、二人ともそこで何をしているんだ?」
驚き、飛び上がったフィーネに対し、ノルンは落ち着き払った態度でラキアの方に歩いていった。
「あんたら、朝っぱらから逢い引きでもしてたのか? いつからそういう仲になったんだ?」
「おはようございます、殿下。朝からさして面白くもないご冗談はおやめください」
「つまんねぇって言ってくれるな」
「いえ。事実を述べただけです。ファーシャ様が中庭の花を見たいと希望なさったので朝食前の涼しい時間を利用して散策をしておりました」
「そうなのか。で、槿に隠れてこそこそしているチビ姫様は何で出てこないんだ?」
「また馬鹿にして!」
仕方ないのでフィーネも物陰から出てノルンの隣に並んだ。
「事実を言っただけだろ」
「好きでこの身長なわけじゃないんですからね」
「そりゃそうだな。ところで、なんで隠れてたんだ?」
「それは……」
フィーネは彼の問いに答えようとしたが、具体的な理由が思いつかず、首を傾げた。
そもそも、フィーネが中庭を訪れたのはラキアがアウィルドであると彼の嘘を暴き、追及するための証拠を集めたかったからだ。アウィルドが早朝に鷦鷯宮の中庭で水やりをしていることは王宮じゅうの者にとって周知の事実なのだ。だから、フィーネとノルンが中庭にいることを彼に知られても何ら問題はないはずどころか、直接彼に問い質す良い機会になったはずだ。
それなのに、フィーネはアウィルドリーシャ――ラキアと顔を合わせることに気まずさを覚えている。その理由はいったい何なのだろう。
「私のことはどうでもいいでしょう? それより、どうしてあなたが中庭の花の手入れをなさっておられるのですか?」
フィーネは考えることを諦めてラキアに詰め寄ることを選んだ。
「あの糞野郎が馬鹿祭りを口実に花の世話をほっぽり出したから代わりに手入れをしてただけだ」
「それにしては慣れておられるご様子ですが」
彼はあからさまに不機嫌さを露わにした。しばらくむすっとした顔でフィーネを睨んでいたが、何か思い立ったのか、彼は槿に向き直ると瑞々しく咲いている一輪の薄紫色の花を鋏で摘み取った。余計な葉も切り落とすと鋏を腰に提げた袋に戻した。
茎を残すように切って何をするのだろうかと考えているとラキアは花を手にこちらに向き直って早足で近づいてきた。
「ラキア様?」
触れ合えそうなほど近くで足を止めた彼は、なおも不機嫌そうに口を引き結んでいる。
その表情から彼の考えを読み取ろうと試みるフィーネだが、突如として胃のあたりに痛みを覚えた。
元々胃痛持ちではなかったはずなのにどうしてこんな時に、と鳩尾を強く手で押しながら自分の胃に文句を言いたくなった。
内なる痛みと戦うフィーネの事情など知る由もないラキアは急に屈み、フィーネの右耳の上に槿の花を挿した。
「え!?」
「殿下!?」
突然のことに驚くフィーネとノルンの様子を見て、彼はにやりと不気味な笑みを浮かべた。
「驚いただろ。いいか、花っていう物はこうして女を口説く時にかなり使えるんだ。だから育て方を覚えた。それだけだぜ」
「なんで……」
「ノルンも将来のために覚えとくといいぜ」
悪戯がうまくいった様子でげらげらと笑うラキアの様子にフィーネは腹立たしさを覚えて手が震えてきたのだった。




