五章 秘密を抱える者 (1) 明け方の中庭と国王の叔父
夜明け前に、フィーネは何事もなかったように目を覚ました。
窓の外を見るとまだ薄暗い。日の出が近づいている空は墨のような色から蝶豆花茶のような、青とも紫ともつかない透き通る色に変わりつつあった。また、奇病の発作で気を失う前にはまだ昇っていなかった細い月が、今は空の高い場所で左側だけを白く輝かせていた。
フィーネは人差し指と中指の先でそっと片側ずつ喉仏から少し離れた窪み――総頸動脈の触知部位に触れた。
未明に感じた誰かに刃で斬りつけられたかのような熱い痛みは嘘のように消えていた。痛みだけではない。セイファンに王宮を案内してもらった日の午睡の時に出た呪詛による発作とは異なり、赤痣祓いの呪文が効いて、痣も跡形も無く消えているし、御守りとして常に身につけている夜明真珠の連珠の輝きも失われていない。だからこそ、今回の発作は呪詛ではなくて、元々フィーネが患ってきた奇病によるものだと推測できた。
ただ、これまでの記憶も含めていつも不思議に思うのだが、奇病の発作にもいくつか種類があるようで、刃物で斬りつけられたり、貫かれたりするような鋭さを伴う痛みの時は、何故か首や心臓など、的確に急所を狙った場所に痣が浮かんでくるような気がしていた。その理由は不明だが、呪詛でないはずなのにまるで誰かがフィーネの命を狙っているかのような不気味さを覚えるのだった。
そして、もう一つ気になることは、発作の最中に耳元で聞こえた声だ。
『――何故だ、なにゆえ死ねぬのだ!? もう時間がない! わたしは皆を死なせたくないのに!』
あれは普段見る夢で呼んでくる男性の声ではなかった。
夜明け前の透き通る海のような青か、蜜色が似合いそうな低音の声。その声はここ数日、夢以外の場所で毎日顔を合わせている人物の声によく似ていた。
いや、そうではない。似ていたのではなく、あの声は間違いなくラキア――アウィルドリーシャの声だ。昨日の午睡で見た夢でアシュハドに対して己の苦しみ、嘆き、絶望に満ちた叫びをぶつけていた時と同じか、あの時よりも一層悲哀の色が強まった響きを思い出すと、フィーネの心も冷たくなっていくように胸の奥がしくしくと痛んだ。
発作の最中に彼の声を聞いたのは初めてだ。激痛のために午睡中の夢の記憶が蘇って幻聴が起きたのだろうか。それとも――。
「いやいやいやいや!」
フィーネはわざと自分に言い聞かせるように声を出して心に次々と湧いてくる邪念を振り払おうとした。
あの声はとても気になるが、今は物思いに耽っている場合ではない。昨晩、ノルンと約束したのだ。すぐに寝台から出て身支度をしなければ。
隣室から戸を叩く音が聞こえたので、だるさで普段よりずっと重く感じる身体をゆっくりと持ち上げて起き上がった。
「おはよう、ヒレナ」
「おはようございます。……フェーテス殿がお越しですが、本当に行ってみるおつもりですか?」
ヒレナが心配そうに目を覗き込んでくる。
「うん。最高神官長様には、仮病で寝込めばラキア様が必ず様子を見に来るはずだから無理やり指に朱を塗りつけて任命書に拇印を押してしまえばいい、なんて言われたけど、それじゃいけないと思うんだ」
ヒレナはフィーネの話そっちのけで、顔をぐっと近づけ、フィーネの両頬を温かな手で包んだ。
「……昨晩、泣きましたね?」
フィーネはへらへらと軽い笑みを返したが、却って厳しい目つきで凝視されてしまった。
フィーネは昔から彼女に嘘をつくのが苦手だ。どんなに取り繕ってもヒレナの切れ長の瞳は、フィーネの顔の肌艶の変化や、会話の受け答えの内容や速度、一挙手一投足を見逃さないのだ。元暗殺者だからなのか、それとも彼女自身の才能なのか、僅かな綻びも見逃してはくれない。
だから今のフィーネの嘘も彼女は見通していた。だが、涙を流したことは知られても、奇病の発作が起きていたことは知られたくない。いや、知らせてはならない。彼女をこれ以上心配させたくないのだ。
「……もう大丈夫だよ。昨夜も今も、ヒレナから元気をもらってるもの」
「ですが……」
「ヒレナ、ありがとう。でも今は、ノルン殿を待たせてしまってるから早くしないと」
ヒレナは何か言いたげに唇を小刻みに震わせたが、ゆっくりと首を横に振って飲み込んだ。
「そうですね。では、軽く化粧を――」
「どうせ顔は布で隠して見えないから大丈夫だよ。朝の支度の時間までには戻ってくるから」
「かしこまりました。それでは、わたくしはお戻りの際の準備をしてお待ちしておりますね」
切れ長の瞼から覗く黒い瞳は温かく、フィーネに気力と勇気をくれた。
フィーネは緑水宮を出ると、ノルンとともに鷦鷯宮に向かった。
昨晩、図書寮で調べ物をしていると、最高神官長が訪ねてきた。彼はノルンを訪ねてきたと言っていたが、実際はフィーネに翌日は仮病を使ってラキアから拇印を貰うように伝えたかっただけだったようで、彼の提案を断ると無表情ですぐに帰って行ってしまった。
『鳥の渡り』の魔術を使ったフィーネに対して探りを入れようとしてきた時は焦ったが、あれ以上追及するつもりはなかったらしい。
最高神官長が去った後、フィーネはノルンに明け方に鷦鷯宮の中庭に行きたいと申し出た。ノルンは今度は反対しなかった。
そうして今に至る。
料理長やルラから聞いた話によれば、アウィルドは毎朝、中庭の花の手入れを欠かさず行っているという。だから中庭に行き、その現場を押さえるのだ。
かならず真実の尻尾をつかんでやる、と意気込んで鷦鷯宮の中庭に到着すると、フィーネは目を見開いた。
背の高い槿の植え込みの向こう側に赤い髪の人物が透けて見えたのだ。頭頂部付近しか見えないが、後ろ姿は優美な雰囲気を纏い、燃えるような赤い髪が朝焼けの空に映えている。
まさか――
フィーネは思わず駆け寄り、『彼』に呼び掛けた。
「あの!」
「おや」
振り返って植え込みの陰から出てきた青年の顔を見て、フィーネはがっかりして後ずさりした。
違う。髪は確かにアウィルドリーシャと同じ赤だが、彼ではない。見たところ二十代半ばと思われる優美な美貌の持ち主である彼は確か、宴の席にいた――。
その場で固まって思考を巡らせるフィーネに向かって青年は腰を折って視線を合わせた。
「おや、可愛らしいお嬢さん。小さな星のプルメリアの花のように可憐な君が、直々に声をかけてくださるなんてなんと光栄なことだろう。おそらくは僕のことを陛下だと思って声をかけてくださったのでしょうが、残念。僕はヴェル・アウロス・リドア。陛下の母方の叔父さ」
「失礼しました」
フィーネが詫びると後から走って来たノルンが助けるように口を開いた。
「おはようございます。アウロス将軍、ここで何をなさっていたのですか」
ノルンの問いに赤髪の青年は花壇の植え込みを悠然と見上げた。
「いやあ、ねぇ。今朝は何故か早くに目が覚めてしまったものでね。……微睡みに身を任せようかと思ったんだけれども、素敵な予感がしてすこし王宮内を散策することにしたんだ。昨夜は訳あって、『花』を摘み損ねてしまったからね。当て所なく彷徨っていたら、何者かの導きか、この花園にたどり着いたんだ。ここは鷦鷯宮にありながら、陛下の厚意で誰にでも開放されている。色とりどりの花々を見ていると、相変わらず丁寧に世話をされていることがよくわかるね」
彼は頭上で誇らしげに咲く薄紫色の槿の花に手を伸ばした。
「ずいぶんと瑞々しい槿の花だと思ってね。綺麗だから少し拝借しようかと考えていたんだ」
「……陛下が大切になさっている花壇から勝手に花を摘んだりしたら怒られますよ」
「そうなんだよねぇ。だから、どうすれば、ばれずに済むかなと思案していたところなんだ。ねえ、フェーテス殿は何かいい案は思いつかないものかね」
「ございません!」
声を張り上げたノルンの様子にアウロスは目を見開いた。
「恐れながら、アウロス殿。花泥棒の方法を考える時間があるのでしたら、陛下に直接お願いすればよろしいではありませんか。無断で摘めばお怒りになるでしょうが、お願いすれば快く応じて下さるはずです」
アウロスは口元に面白い物でも見たような笑みを結んで腕組みをしながらノルンを見下ろした。
「おや、君は妙なことを言うんだね。今の陛下は身を隠しておられるだろう? だから僕は陛下の居所を知らないんだ。君は陛下がいないのにどうすればいいと言うんだい?」
「それは……」
当然とも言える質問をされて、彼は少し言い淀んで下を向いた。
「まあ、隠れているといっても、あんなにあちこちぶらついていては捕まるものもつかまらないってもんじゃないか」
「アウロス殿!」
急に大声を上げたノルンに対してアウロスは乾いた笑い声を返した。それからフィーネに目を向けると西方の国の神像のような柔和な微笑を浮かべた。
「ああ、ファーシャ様、そんな顔をなさらないで。今のはもちろん、言葉通りの意味だよ」
「それはつまり、陛下が王宮を歩き回っておられると考えて良い、ということですか?」
爽やかな笑みで返されてフィーネは頷き返すことしかできなかった。
「ところで、君はとても幸運だと思うよ。この広い白鴎宮で、この僕に会えたんだからね。陛下はとても意地悪だから絶対に君の前に正体を現したりはしないだろう。しかし、それではあまりに不憫だ。だから、この幸運に乗じて君にひとつ助言をあげよう」
「アウロス殿、それは……」
難色を示したノルンの頭の上にぽんと手を置き、なだめるような声音で言った。
「大丈夫。僕はあくまで助言するだけだよ。祭りの決まりには反していない。ただ、あの根暗で小生意気な甥の鼻っ柱をへし折ってやりたいだけなんだ。それに、君だって彼女に陛下を見つけてもらいたいだろう?」
「……それはその通りではございますが」
少しだけ不服そうに間をおいてから同意するノルンを見やると、アウロスは一歩踏みだした。片腕を伸ばし、反射的に後退りしたフィーネの髪を一房すくうとそっと鼻を近づけた。
「蓮の香か。清らかでとてもいい香りだね」
嫌な予感がして再び身を退くが、それを逃がすまいとアウロスの大きな手がフィーネの両頬を包む。冠から吊した薄布越しとはいえ、硬く温かな感触にえもいわれぬ寒気を感じて思わず後ずさりして避けた。ルラの勧めで焚いた香ではあるが、改めて指摘されるのは気恥ずかしい。それに、馴れ馴れしい男は嫌いとまでは言わないが苦手だ。特に顔が綺麗な男は色々な意味で恐ろしい。
「おや、ファーシャ様は初々しくて可愛らしいね」
「アウロス殿! それ以上の悪戯は――」
「安心して。フェーテス殿も可愛いよ」
「――は?」
予想の斜め上の発言にノルンは思考が停止したように固まってしまった。アウロスはくすくすと愉しげな笑みを浮かべながらフィーネに向き直った。彼は黒曜石のような色の目に笑みを滲ませて首を少し傾けた。
「ファーシャ様、一度しか言わないからよく聞くんだよ。図書寮の五番書庫に行きなさい。そこの二十三番棚の、上から三段目、右から十五番目の区画にある灰色にくすんだ臙脂色の守宮の紋様が描かれた布表紙の本はきっと君の助けになるだろう」
「え?」
彼の説明は早すぎて聞き取れなかった。
「あの……」
「残念。一度きりと言ったからね」
口元にいたずらめいた笑みを宿し、彼は一旦はフィーネの頬から手を離した。
「まあ、今伝えた場所についてはノルン殿に聞いてみるといい。彼の記憶力は一級品だからね」
「すみません。ありがとうございます」
「いいや。いいんだよ。……ところで十番目の片翼様? その真珠のごとき可憐なあなたの御名と、薄布の下に隠された容を、この哀れな小夜啼鳥が拝むことができるのはいつになることやら。そうだ、今宵は僕とともに休まないかい? あなたを包む絹の下の秘密を僕だけに見せてもらえると嬉しいな」
「あの、それは困ります」
いきなり肩を抱き寄せられ、さらに耳元で吐息混じりに囁かれ、フィーネはぞぞっと全身に鳥肌が立った。
ノルンはフィーネとアウロスの間に手を差し込み、二人を引き離した。すぐさま間に割り込んでフィーネを背に庇うとアウロスの顔を見上げた。
「それくらいにしていただけますか?」
「おお、怖いね。いい護衛だ」
「お戯れはお控えください。いくらアウロス殿であっても、ファーシャ様への無礼を見過ごすわけにはいきません」
ノルンに下から睨み上げられたアウロスはいたずらめいた笑みで肩をすくめてフィーネに目配せした。
「残念。ファーシャ様、とても名残惜しいけれども今朝のところは退散するとしよう。でも、僕は諦めぬよ。逢瀬はまたの機会に」
手を振りながら悠々と去る背中を見送ると、嫌な寒気がわずかに残った。
「ありがとうございます。助かりました」
「気をつけてください。彼は王宮でスヴァロン様と一、二を争う好色な男ですから」
「そうなのですか?」
「ええ。……いえ、むしろスヴァロン様よりもたちが悪いかもしれません。気に入れば男女を問わず、まずは床をともにするそうで、噂によれば今までに彼は百人以上の男女と夜を共にしたことがあるとかないとか……」
そこで気まずそうに言葉を切り、咳払いをした。
「……いえ、失礼致しました。下世話な話ですね」
生真面目そうな彼が至極真剣な顔つきで意外と俗な話をするもので、思わず小さく笑ってしまった。するとかなり不機嫌そうな顔つきで彼はこちらを睨んだ。
「何ですか」
「いえ、少し意外だと思ったんです。ノルンさまはもっと堅苦しそうな人だと思っていたので……」
先ほどアウロスに触れられたことで心が落ち着かないためか、うっかり本音が出てフィーネは慌てて言葉を切った。当然のように彼は無言でむっと睨んできた。しまった、と失言を反省して謝ったのだが、フィーネの予想とは異なり、ノルンは咳払いすると目をそらしがちにそろりと尋ねてきた。
「……よく色々な方から言われるのですが、わたしは堅苦しいのでしょうか?」
「え?」
「つい先日お会いしたばかりのあなたにお尋ねすることも妙とは思うのですが……その、よく揶揄われるのです。特に、陛下にはもっと肩の力を抜いて皆と冗談でも言えばいいのに、と言われることが多くて、前々から気にはなってはいたのです」
「そんなことを言われたのですか?」
ええ、ともまあ、ともつかない曖昧な返事をしながら彼は口角を上げた。
「わたしは別に堅苦しくあろうとは思ってはいないのですが、あの玄武岩より堅苦しい陛下にまでそのように言われてしまうと、どうしたものかと思いまして……」
ノルンは視線を逸らすと右手を首の後ろにあてがい、背を向けた。




