四章 不思議な少女 (15) それぞれの夜
その晩、夜半を過ぎても寝台の中でフィーネは眠れぬ時間を持て余していた。
午睡の間に見た光景や図書寮での出来事について考えると、いてもたってもいられないほど、今すぐにでも真実を知りたいという焦燥感に駆られ、目が冴えてしまった。さらに、明日は一日仮病を使って寝込んだふりをするように、と最高神官長に言われてしまい、とても戸惑っていた。
「まだ、お休みになられないのですか?」
枕元の灯りを消さずに考え事を続けるフィーネを心配してか、隣室で休んでいたはずのヒレナが入ってきた。
「うん。ちょっと眠れなくて……」
「ラキア様のことですね」
「うん」
くるりと起き上がるとフィーネは窓の外に目を向けた。
今夜はまだ月が水平線から出ていないが、東の空がぼんやりと金色に滲み始めているのが見えた。じきに細い船のような形をした二十四日目の月が現れるはずだ。
下弦の月を過ぎた月は日毎に痩せて輝きを失い、新月を迎える。約三十日に一度、月の神が闇の神の宮を訪れる。天空を渡る船に乗り、闇の宮に入ることで地上から姿を隠し、一晩滞在した後に再び船で自身の月の宮に帰るのだ。そして、新月を境に、再び満月に向けて明るさを増してゆく。
だが、次の満月は月蝕が起こる日でもある。
以前、王都で耳にした『滅びの予言』では、月蝕の晩に大きな災いによって王都が滅ぶとされていた。毎晩、月の出の時間や形を変えて昇る月の姿は、徐々にではあるが、その運命の日が近づいてきていることを示していた。
明日は六の月十九日。
白鴎宮に来て五日が経った。フィーネが救護所での手伝いを辞めてからすでに半月になる。
あれから王都の様子がどうなっているのか。そして、人々の間でまことしやかに囁かれていた滅びの予言もどうなっているのだろうか。フィーネの脳裏には、救護所で診た患者や街を行き交う人々の顔が思い浮かんだ。
王都から見上げた白鴎宮は、エレスから王都までの距離など比べものにならないほど近い。だが、フィーネにとってはとても遠く感じられた。
街から王宮を見上げていた時は、人々の活気に溢れて賑やかな下界を見守るように、王宮の塀や建物が静かに丘の上に見えていた。賑やかな街の上にそびえ立つ白い宮は、まるで人々の暮らしから切り離された神の住まう別世界のように思えた。
それなのに今、フィーネは白鴎宮にいる。もちろん、自分で決めて来たのだから不思議なこと、というのは少し語弊があるかもしれない。しかしながら、辺境で育ったフィーネにとって、国の中枢部にいるという事実はやはり、ふわふわと夢の中で浮き上がるようで現実感に乏しかった。
対して、王宮から見える景色は、広がる王都と、その向こうに見える碧い海だ。
そして、フィーネだけが考えてしまうのかもしれないが、王都から王宮を見上げた時よりも、王宮から見下ろす王都にははるかに遠い隔たりを感じた。
眼下には、水路や建物の屋根が織りなす、まるで一枚の大きな絨毯のような王都の景色が広がっていた。
緑水宮の二階から見ると、無数の屋根と水路が入り組んでいる。だが、区画ごとに整然と整備されているため、とても美しく見えた。
ところが、王宮からでは、王都で暮らす人々が少し見え辛かった。行き交う船、大通りを歩く人々。あの街で生きる人々。ここから見ると誰も彼もがあまりにも小さく見えて、笑顔なのか泣いているのか何を考え日々を過ごしているのか、生きているのか、表情はおろか、顔立ちすら曖昧にしか見えなかった。
だからこそ、エリーシャが語った王宮から出てみたいという気持ちも納得することができた。
実のところ、フィーネはエリーシャこそが本物の『十番目の片翼』なのではないかと考えていた。夢の真偽はいまだに不明だが、その読みは完全に外れていた。
だが、王宮から出ることを赦されなかった少女が、目の前に見える街に出掛けてみたいと夢を見る気持ちはフィーネも共感できた。幼い頃のフィーネも、エレスのユリフェ邸の地下室の窓から外の世界を夢見たことがあったからだ。
そして、王宮を居としながらも、しょっちゅう抜け出して王都に出掛けることを楽しんでいるのがアウィルドリーシャだった。ディムや侍従や大臣の悩みの種らしく、王宮内で国王についての情報を集めた際にこの話に言及する者も少なくなかった。
特に、ディムの話によれば、アウィルドは金稼ぎのために王都で遊び惚けるどころか働き惚けていたという。ディムは否定していたが、アウィルドは国王のままでは手を差し伸べることが不可能な人々の様子を知るため、そして市井の民の様子を彼自身の目で見て判断したいと考えたから、身分を隠して街に出掛けているのではないか、とフィーネは考えた。
さらなる問題としては、アウィルドリーシャは何らかの理由で自らの身体を傷つけているということだ。
とにかく、今日一日で得られた情報や知識があまりにも多すぎて、考え出すときりがなかった。
「……ねえ、ヒレナ。あなたは自分で自分を殺したくなる時ってある?」
「そんなことしょっちゅうですよ」
「え?」
思いがけない返答に戸惑いを露わにしたフィーネにヒレナは力無い笑みを向けた。
「私は散々世の中の悪事に手を染めましたからね。今はこうして楽しく過ごさせていただいておりますが、ふとした瞬間に思い出すこともあります。そういう時は無性に気持ちが暗い方向へ傾いてゆくのです。『もしも』を夢見たり、言い訳をしたところで過去の行いがなかったことになることも許されることもないでしょう」
一呼吸置くと、彼女の笑みは力強いものへと変化した。
「それでも、私はいまここにいて、するべきことが定まっておりますからね。今すぐか、死後になるかはわかりませんが、いつの日かきっと、私は犯した罪の裁きを受けることになるでしょう。その日が来るまでは、私は私の務めを果たすために生き続けていくと決めております」
「ヒレナは強いね」
「もちろんですとも。強くなくてはあなたをお守りできませんから、わたくしは常に強いのです」
「ヒレナ……」
彼女の瞳に宿る澄んだ光は彼女の意志の強さを物語っているようで、フィーネは胸を打たれた。そして、いてもたってもいられなくなり、フィーネは彼女に抱き付いた。
――どうしたんですか? あなたから甘えてくるなんて珍しいですね。
普段であれば彼女はそう揶揄してきただろう。だが、彼女は何も言わずにフィーネを抱き締め返した。
茉莉花の澄んだ優しい香りに包まれてフィーネは目を閉じて身を預けた。
何も心配することはない。彼女は自分を守ってくれるしいつも支えてくれる。
フィーネはヒレナのために、彼女が安堵出来るような、彼女にとって帰るべき場所を築きたいと願っていた。だが、どうしてもうまくいかなかった。フィーネの方が彼女よりも五歳も年下だからか、結局いつもフィーネがヒレナに甘えてしまうのだ。
「ごめん……ごめんね、ヒレナ」
* * *
誰もが寝静まった晩。
鷦鷯宮の最奥部の一室から規則正しく金属の擦れる音が鳴り響いていた。砥石と擦れ合う金属が削れる音がする。人によっては思わず鳥肌が立ちそうな甲高く不快な音を響かせ、燭台の明かりを頼りに男は短剣を研いでいた。じりりと芯が焼ける音と煤のかすかな甘い匂いが室内に満ちる。
研ぎ師の多くは、一点を強く照らすのに長けた夜明真珠の照明を好むが、彼にとっては研いだ短剣の具合を見るのには多少の揺らぎやむらのある蝋燭の明かりのほうが都合が良かった。
蝋燭では暗すぎて、刃先に生じる細かな反射や、研ぎ残した返りを正確に捉えることが出来ないと言われることもある。だが、夜明真珠の強い光は目に眩しすぎてあまり好きではなかった。
何より、光とは、無実の者を助けるために神がこの世の生命に与えてくれたものだ。
闇に身を潜める咎人にとっては、清浄なものに触れれば嘘で覆い隠してきた多くの罪を明らかにされてしまうようで、胸が痛くなるのだ。
四年前、現国王は父親を殺した。
血のつながった実の父親の首を一太刀で刎ねた。たとえ、暴君であったとしても、実の親を手に掛けた現国王は父祖を敬うべき教えに反した行いをした背徳者だ。それでいて、先王の乱心により生まれ、王族となることを赦されなかった遺児たちや、側室ですらない妾たちに対しても、厳罰に処することなく放免した。
宰相や多くの大臣は現国王の沙汰に異論を唱えた。副大臣をはじめとした数人だけは味方をしてくれたが、その甘さが原因で王都を再び反乱の戦禍に巻き込み、多くの死者を生む結果を招いてしまった。その責任を自らとったものの、人間の皮や肉や頸椎、果ては脊髄を刃で断った時の感触がいつまでも手にこびりついて、数年を経た今でも魘されるのだ。
己はなんと心弱き王だろうか、と彼は息をついた。
今し方研いでいた刃を桶の中に溜めた水にくぐらせる。
ぴちゃ、と冷たい音とともに波紋が水面に広がり、金属の細かい粉末がきらきらと散ってゆく。持ち上げれば研がれて鋭い輝きを増した鋼の刃が現れた。
銀は彼にとって特別な色だった。
だが、今は銀の輝きを見つめる目は闇よりも暗く沈んでいた。
普段は笑顔に溢れていると評判の顔には一片たりとも感情がなく、流れるような曲線を描く輪郭も、柳の葉にたとえられる眉も、整った鼻筋も、無機質な石の彫像のように固まっていた。
開け放たれた窓から夜風が吹き込み、生暖かい空気に無造作に短く切られた髪がそよぐ。
その色は黒であり、窓の外の闇によく似ていた。
外から梟の声が不吉な響きを帯びて聞こえてくる。それに呼応するように床に座す男の傍らで、白い木菟がばさばさと羽を震わせた。羽毛が抜け落ちて舞う。
「ピラプ、報告感謝する。……片翼を殺す、か。いよいよ何か手を打たねばならぬか」
低く冷たい声音に、木菟は顔を上げて男の顔を確かめた。
「ピラプ、疲れているところ申し訳ないが、明朝、王都中の鳥たちへの伝言をお願いしたい。サクヌァプ・エントリハルクの居所がわかり次第、わたしかアシュハド、難しい場合はルーテン・フェノスかレリファ=シシカに教えて欲しい」
白い木菟は小さく首を動かして頷くと、窓から何処かへ飛び去った。
残された男は深く嘆息し、窓の外を仰ぎ見た。
その手に握られた短剣は男自身の首元に添えられていた――
* * *
「――痛っ!」
フィーネは突然首を斬りつけられたような痛みで眠りから覚めた。激痛を紛らわせようと首を両手で押さえるが、焼け付くような熱さで息が出来ない。
枕元の鏡を見ると、真っ赤な線が右の頸動脈を断ち切るように浮かんでいた。
続いて左の頸動脈付近にも熱を感じたと思った直後、喉仏を深々と鋭利な刃物で貫かれるような痛みが襲ってきた。激痛とともに息が傷口から漏れ出すような恐ろしい感覚と、声が出せない苦しみに悶えながらフィーネは絞り出すようになんとか赤痣祓いの呪文を唱えた。
無事に痛みは去っていったが、涙目になりながらフィーネは枕に顔を埋めて必死に声を堪えた。
絶対にヒレナに気づかれるわけにはいかない。片翼候補としてある程度自由に動けるフィーネと違って、彼女には侍女と片翼候補筆頭女官としての務めがある。夜くらいは休んで欲しい。だから今は耐えなければならない。
フィーネは目をきつく閉じて歯を食いしばった。
視界がちかちかしていたが、ふいに耳元で幻聴が聞こえた。
――何故だ、なにゆえ死ねぬのだ!? もう時間がない! わたしは皆を死なせたくないのに!
「……アウィルド……さま?」
悲痛な叫びが耳に木霊するなか、フィーネは意識を失った。
今回で『四章 不思議な少女』に区切りがつきました。
何故かフィーネの夢の中に現れたエリーシャという不思議な少女、幼い頃のアウィルドリーシャを暗殺しようとしたサクィーエ・アルファス、第三王子に扮する国王がお喋り悪魔の木の毒の影響でべらべらと余計なことを喋ったり、とフィーネは少しずつではありますが、ラキア=アウィルドリーシャが抱える事情について知ることになりました。
次回の五章は、神鳥がフィーネを訪ねてきたり、フィーネが雷を恐れる理由について明らかになったり、お喋り悪魔の木狩りに挑んだり、何者かによる下女襲撃事件が起こったります。
お読みいただけましたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
追記:四章終了時点での登場人物紹介を別枠で作成いたしました。




