四章 不思議な少女 (11) 屑・塵芥
神官の姿が見えなくなったのを確かめると、ラキアは右の茂みの奥を見やり、明るい声を投げた。
「盗み見とはいい趣味だな、モールク!」
人がいるような気配はなかったが、しばらく間を置いてから、長弓を手にしたレリファ=シシカが木の裏から現れた。彼は純白の長衣姿だったが、最高神官長の証である金色の精霊の仮面で顔を隠し、頭には白い頭巾を巻いていた。
彼が仮面と頭巾を外すと、するりと長い黒髪が川の流れのように腰まで流れ、フィーネが見慣れている姿になった。彼はラキアに目を向けると徐に口を開いた。
「いつからわたしの存在にお気づきで?」
「はじめからだ。おまえは昔からよく物陰からわたしのことを見ていただろう。あんな幼い部下を盾にわたしに弓を向けるなど、そなたはじつにひどい奴だな」
「あなたであれば、わたくしごときが放つ矢など防ぎきることが出来ると確信しておりました」
「そうか」
無表情で淡々と返すモールクの言葉にラキアも無表情で応酬した。
「……ずいぶんとご立腹のご様子ですね」
「そなたには人の心というものが備わっていないのか?」
間髪入れずに返されたモールクはラキアから一瞬たりとも目を離すことなく淡々と答えた。
「感情のような無意味なものは心を乱す障りにすぎません」
モールクの返答に気分を害したラキアは片眉を顰めたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「そうは言ってもおまえはひどい殺気を放っていたではないか。気づかない方がどうかしている。それと、おまえは本来感情豊かな男のはずだろう」
「……あなたは、鳥相手には本音を語るのですね」
「そうでもないさ。鳥なら誰にでも話すというわけではない」
モールクは顎を引いてねっとりとした視線をラキアに向けた。
「あなたは人に対しては誰にでも心を閉ざされる。いっそのこと鳥になってしまえばいい」
「それはわたしに対してかおれに対してのことかわからねえけど、呪おうとしても無駄なことだぜ。前々からあんたはアウィルドなんか国王に相応しくはないと考えていたよな。おれも同意見だ」
「ええ。あなたに翼王の力さえなければどれほど良かったかと何度も考えたことならございます」
さらりと返され、ラキアは目を閉じて愉しげに――否、自らを嘲るように笑みを浮かべた。
「おまえは不幸だな。こんな屑を王に戴かなければならぬのは、不本意だろう?」
「わたくしをレリファ=シシカに任じたのは天の主神です。その天の主神が国王とお認めになられた御方であれば、たとえ屑であろうと塵芥であろうとわたくしは誠心誠意、身を粉にしてお仕えする所存でございます」
「それは頼もしいばかりだ」
「いいえ」
二人は互いに冷笑し合った。
今は傍観することしか出来ないフィーネは、二人から放たれるえもいわれぬ殺気のような気配のせいで動悸がして呼吸が浅くなっていた。
「ならばその屑であり塵芥が命じる。約束しろ、レリファ=シシカ。先ほどの神官と見習い神官たちを咎めるな。そして二度と彼らにわたしを襲わせるな」
「畏まりました。では、代わりにわたくしからもお願いがございます。十番目の片翼様の任命書に署名をしていただけますでしょうか」
「やはりそうくるか。わかった、明日にでもラキア、と殴り書きしてやるから楽しみに待っているがいい」
「……あなたはその名をいたく気に入っておられるようですね。ですが、一神官として申し上げるなら、その行いはあまり良い行いとは思えません。今すぐにでも、おやめになられるべきです。先王陛下はこの世において数々の悪行を重ねられましたが、人の身でありながら神の化身に名を付けるなど不遜な所行であり感心しません」
ラキアの黒曜石のような瞳から急速に温もりが失せ、冷ややかな刃のような眼差しに変化した。
「幸多き金花鳥――これは愛称を持つことを許されなかったわたしが望み、両親が考えて与えて下さった、わたしにとっての宝物だ。たとえそなたが神の代理人だとしても、あの方への侮辱はわたしが許さぬ」
「左様で。ですが、その理屈で考えるならば、愛称であってもあなた様を示すお名前であることに変わりはないということになるようですから構わないでしょう。まことようございました。これで賭けは我々の勝利となりましょう。では明日、約束通り任命書にご署名を必ずや、お願い申し上げます」
「おい、遠まわしな否定を肯定と受け取るな! わたしは絶対に書かないからな!」
「申し訳ございませんが、尊き神の言葉を人如き下賤の者が勝手に解釈して曲解することは許されざる行為ゆえ、このレリファ=シシカこと、モールク・エントリハルクめがあなた様のお言葉を一言一句、字面の通りにしか意味をとらえられないことをお許し下さい。ましてや現在のあなたは『お喋り悪魔の木』の毒により嘘をつけないはず。よって、この契約は口約束ではございますが、充分効力を有するものであると判断いたしました。それではこれにて失礼致します」
「待て、モールク! 少しはわたしの話を聞け!」
ラキアは慌てて追い掛けようとするが、レリファ=シシカは幽霊のように気配を消してそのまますっと茂みの奥に消えた。
ラキアは草木一つ動かぬ藪を睨んでいたが、しばらくすると諦めた様子でため息をついて東屋に戻ってきた。
「……妙なところを見せてしまったな、二人とも」
先ほど剣を振るったり最高神官長と話していた時とはうって変わって、彼の雰囲気は凪のように穏やかだった。
アシュハドは穏やかな笑みを浮かべるラキアを無言で見つめていた。金と銀の瞳を静かに瞬かせると、羽を広げて彼はラキアに呼び掛けた。
「あんたさ、やっぱやめた方がいい。国王を殺そうだなんて正気の沙汰じゃねえ」
「わたしは正気だよ。……傍目にはそうは見えないだろうが、叔父上の遺言だ。翼王が世に災いをもたらす存在となりうるならば、これを排除せよ、さもなければこの世は滅び去る定めだ、とな」
「だからって、言う通りにしなくてもいいじゃねえか。他になにか方法がきっとあるはずだろうに――」
「もう時間がないのだ!」
空を震わせるような叫び声にアシュハドは黙った。
ラキアは両手で頭を抱え込むとしゃがみこみ、その場でうずくまった。
「……もう嫌なのだ。そなたなら全部知っているだろう? あのような所行は人の為すことではない。死魔でさえ成し得ぬ悪行だ」
「なら素直に嬢ちゃんに助けを求めりゃいいのに」
「……それだけはできない。彼女は片翼ではないのだから巻き込むわけにはいかない」
「片翼でなくてもいいじゃねえか。嬢ちゃんはあんたのことをすごく心配していたぞ。それに、あんたのために頑張ってスヴァロンに立ち向かったじゃねえか。あんたの渾身の脅しに屈しなかった。あの娘はあんたが考えているよりもずっと強い。きっと、間違いなく力になろうとしてくれるはずだ。話すだけでも少しは楽になるんじゃないか」
「わたしは楽になりたいわけじゃない!」
涙混じりの声を放つと、それきり彼は黙り込んでしまった。
アシュハドの羽に遮られてフィーネからは彼の顔を見ることができない。だが、耳を塞ぐ手は頼りなく震えていた。その姿は十七歳の第三王子でも、十九歳のウルガ王国国王でもなく、十二歳の王太子だった頃よりもさらに弱々しく、ただ怯えきった幼子のようでとても痛ましく思えた。
それからどれほど時間が経っただろうか。少なくとも十分以上、アシュハドは縮こまるラキアを黙って見守り続けた。
フィーネは二人の会話を聞きながら、ラキアことアウィルドが一体何をそこまで悩んでいるのかずっと考えていた。
今の自分は彼に助けられた名もなき鳥でしかない。彼を苦しめる『何か』の正体など知らないのだ。先王を討った後悔か、御霊うつしの剣が不完全な姿をしていることか、風を操ることが出来ない無力感か、それとも、セイファンが教えてくれた『風の聖霊』の暴走についてだろうか。
「……やれやれ、強情な御方だ。自分では何もできないくせに大きなもんをぜんぶひとりで抱えようとして自滅しているんだもんなぁ。見てて痛々しいぜ」
アシュハドは羽を広げて宙に浮かぶと、ひとっ飛びでラキアの右肩にとまった。左の翼を広げると、下の子をあやす兄のように優しく彼の頭を撫でた。
「なあ、アウィルド。おれたち鳥の神や眷属としてはあんたが宰相との賭けに負けてくれた方が嬉しいんだけどな。できればもっと長く付き合っていたいんだ。あんたがアウィルドリーシャを殺すということは、あんたが死ぬということだ。けどよ、おれはあんたに生きてほしいんだよ。いいか、おれはあんたがラィーシャの腹の中にいた時からずっと見てきたんだ。だけど、あんたはとっても不幸せだった。今までの翼王たちもなかなか散々な人生だったが、あんたの場合はその中でも格段に不幸せだ。自分で言うのもあれだけど、おれはけっこう面倒見がよくてなぁ、不幸せなやつを放っておけない質なんだ。いいか、あんたは幸せになるべきだ」
「……わたしは自分を不幸だと思ったことはないぞ。すべては因果のもと、なるべくしてなったまでだ」
「おいおい、また……」
「あれだけの悪事を働いておいて自分だけ幸せになることなど許されぬ」
ラキアが顔を上げた瞬間、その瞳は今までに見たことがないほど暗い色を帯びており、フィーネはどきりとした。普段の彼とはまるで別人のように暗く、憎悪と悲哀に曇り、今にも彼の心は壊れてしまうのではないかと不安に駆られた。




