四章 不思議な少女 (12) 彼女を幸せに出来るのは人として生まれついた者だけだ
それからしばらく、ラキアとアシュハドの間には沈黙が続いた。
先ほどまでの戦いの喧騒が嘘であったかのように、辺りには雨上がりの静けさだけが戻っていた。
ラキアはしばらく俯き続けていたが、自ら重苦しい感情を捨て去るように小さく息を吐いた。それから顔を上げると、先ほどまでの険しい表情はすっかり消えていた。
それから彼は円卓の上で震えながら自分を見つめる銀色の小鳥に目を向けた。
「ところで――」
と、口にしかけて彼ははにかみ、瞳を笑みに溶かした。
「そういえば、まだそなたの名を聞いていなかったな」
『そういやそうだったな。けどよ、見れば見るほど奇妙な鳥だよな。長嘯鳩っぽいのに足の爪の先まで白いし、目も銀色で……ってどうしたんだアウィルド!? うっとりとした目なんかしやがって気色悪いな』
「うっとりなんてしてないぞ。ただ、やはり本当によく似ていて綺麗だなと……って何を言っているのだわたしは。すまないな、知らぬ相手に似てると言われてそなたも困るだろう」
「おい、またあの嬢ちゃんのことか? もう、いい加減飽きるんだけど!? あんたさ、猫を見ても星を見ても銀食器を見ても月を見ても花……とりわけ月来香を見ても似てるって言ったよな? しかも寝言で名前を呼ぶ始末……もう耳にたこができそうだ!」
「あることないこと言うな。いつわたしが寝言で彼女の名を呼んだって?」
『はーあ、自覚がないなんて最悪だ。あんたにはつくづく呆れるよ』
アシュハドは毒づくと、翼を広げた。
『そんなにあの娘のことが好きなら好きとはっきり言えばいいのにな!』
「は!? いつ何時わたしが彼女のことを好いていると言った?」
『違うのか? 自分の一番の宝物を贈っておいてしらばくれるなんて厭なやつだねぇ。下心見え見えじゃねえか』
「そんなやましい考えであれを贈ったわけではない。ただ無事に故郷に帰れるようにと願ってのものだ。……あくまでも、彼女はノルンやディム達と同じ友人だ」
ラキアの強い眼差しを前にアシュハドは虚を突かれたのか、金と銀の瞳がくるりと円を描いた。
『お喋り悪魔の毒を喰らった状態でそんな様子じゃあんた、ほんとの本当に正真正銘の朴念仁かい? 男としてどうなんだよ? いいや、違うか。自白剤を喰らった状態でも自分の本心を隠せるなんて相当だぞ、あんた。もっと自分に正直になりなって。いい機会だから本音を吐いて楽になっちまえよ。そうだな、あの嬢ちゃんの顔は好みかい?』
「好みかどうかなど考えるまでもなく当然大す……ってアシュハド!? なんてことを訊いてくるのだ!? 危うく妙なことを口にするところだったではないか!」
『妙なことって何だよ? ほら、誰にも言わないからお兄ちゃんに正直に話してごらん』
「誰が話すか! そなたは先ほど、わたしに幸せになれと言ったがそれは建て前で、本当はただ、彼女の顔を思い浮かべながら気色悪い表情をするわたしを笑いの種にしたいだけだろう!?」
『おいおい、誰もそこまで言ってねえだろ。……でも、驚いた。気色悪い自覚はあったのか』
「……そうだ」
彼は赤くなった顔を隠すように額に手を当てて目を閉じた。
「……彼女のことを考えるとにやけそうになるのは実際その通りなのだ。丸くて大きな銀色の目。黒く長い睫毛。柔らかそうにたゆたう艶やかな髪。白磁のように透き通る肌。たおやかな鈴の音の声。笑うと可憐な花のようで、怒った顔も可愛らしくて……。それなのに時々見せる月来香の花の透き通るあの色のように儚げで、神秘的な美しさに見惚れてしまう。……こんな言い方ではおまえは恋だの愛だのと誤解するとは思うが、初めて会ったあの日からずっと、わたしは彼女に惹かれていた。覚えてるか? 確かわたしがまだ七つで彼女が三つだった頃だ。あの時の彼女ときたらわたしのことを姫だと誤解していたんだぞ。本当のことを知ったときの驚いた顔が猫みたいで可愛いのと可笑しくて……」
『おまえだってその誤解に乗って嬢ちゃんを揶揄ったじゃねえか』
「面白かったからな。彼女は覚えていないみたいだが、わたしが男だと全然理解できていなかったようなのがまた面白くて……」
『時々思うんだけどさ、あんたって弟に似てひね曲がった根性してるよな』
「わたしなどよりセイファンのほうがよほど素直だと思うぞ」
『そりゃそうだな。あいつはあんたと違って根暗じゃねえし案外感情を爆発させてるからな。んで、確かにあの時の嬢ちゃんはぽへーっとした顔で面白かったな』
「だろう? だが、見た目に反して心根は武人のように強い。いいや、そうあろうと彼女は努力している。彼女が生まれながらに持っている問題の多くはいかなる努力でも覆すことの難しいものだ。だが、生い立ちに負い目を抱いていた幼少期とは異なり、今の彼女は領民に慕われているとエレスから帰ってきたシャンが教えてくれた。たった七年で自らの悪評を払拭し、周囲からの評価を覆すことが、如何に困難であったか想像に難くない」
『そりゃあんたがフォン・ゴウェン・ユリフェに対して文を送りつけて喧嘩を売ったからだろ』
「いいや、違う。確かにあれであの男は孫娘に対する折檻や監禁をやめたらしい。だが、それからのことは彼女自身の努力の賜物だ。そうでなければあんなに若くして王立医術学校に首席で合格することなんて出来なかっただろう」
『まあ、そうなんだけどさ』
ラキアは返事をせず、雨でぬかるんだ土を革靴の先で掘った。
雲間から差し込んできた陽光が草や土をてらてらと輝かせた。
「人生の中で一番、無条件に誰かから愛情を注いでもらうべき年頃に、自分なんて生まれてこなければ良かったと、涙に押しつぶされそうになっていた彼女が、努力の末、今は医師として立派に病める人々を救っている。新アトヌ十八区の救護所で彼女は多くの患者を笑顔にしていたし、ダルドや他の医師からの信任も厚かった」
太陽の神が顔を覗かせたと思えば、すぐに流れの速い雲の向こうへ隠れてしまう。ラキアの笑みもまた、陽光とともに明るくなり、雲とともに翳った。
「だから、わたしは彼女にはいつも笑っていてほしいし、幸せであってほしいと思ってしまう。……そして、こんな浅ましいことを考えてしまう自分が嫌になる……」
雲の流れは速く、ラキアの笑みに暗い影を落とした。
『あんたはあの嬢ちゃんを親友だと思っているようだが、友人なんかよりもっと仲良くなりたいとか触れたいとか自分の物にしたいと思わねえのか?』
「思えるわけがない。ずっとそばでわたしを見ていてくれたそなたならわかるはずだ。……彼女を幸せに出来るのは人として生まれついた者だけだし、彼女には選ぶ権利がある」
アシュハドの金と銀の瞳がじっとラキアを見つめる。先ほどまで彼は散々ラキアを揶揄うような言葉を重ねていたというのに、急に黙り込んでしまうと静けさが際立った。真っ直ぐラキアを射る視線は、ラキアの夜の水面のように穏やかな瞳の奥に隠された真意を推し量ろうとしているようだった。だが、しばらくすると諦めたように小さく息を吐いた。
『……思ってないんじゃなく思えない、か。全くもって、困ったお人だ。いいか、あんただって人間だ。と言ったところでどうせはなから疑うだろうからよく聴けよ。まず、あんたには赤い血が流れている。この時点で少なくともあんたは烏賊でないことは確かだ。奴らは青い血を持っているからな。あんたは朝起きて飯を食って、出すもん出して夜には寝る。笑うし泣くし、怒りもする。心臓だって動いているし体温もある。他の人間ともうまくやっている。人としての基本的な営みはちゃんとこなしているじゃねえか。安心しろ、あんたは正真正銘の人間だ』
ふっとラキアは右の唇の端をつり上げた。
「それはどうだろうか。確かにわたしは烏賊ではないな。蛸でもない。手足は二本ずつしかないし、二本足で歩く。そなたのその理論だと、わたしはもしかすると猿かもしれないぞ。赤い血を持っていて食事も排泄もする。感情は豊かで体温調節も上手に行える。自分で言うのもおかしなことだが群を成してそれなりに社会性もある。しかし、それだけでは人間であるとは言い切れない。つまり、わたしは単なる尾なし猿かもしれない」
『嫌な奴だねぇ。こういう話は普通、素直に聴いて感動して、感化されて涙を流して大団円になるもんだろ。とんだひねくれ者だ』
「ひねくれているさ。素直でいたら命がいくつあったって足りなかっただろう?」
彼を励まそうとしたはずなのに嫌味と屁理屈を捏ねられてアシュハドは匙を投げてしまった。
『あーあ、やだやだ。こりゃ、ああ言えばこう言うってやつだね。この御仁は何を言っても、だが、もしかすると、いや、けど、と反論して聞く耳持たずなんだ。これだから人間っていうのは面倒臭いんだ』
あーあーあー、と叫びながら首を大きく振って大仰に呆れ返る神鳥の姿に、ラキアは温かな視線を向けて小さく笑った。
「いいや、こうして屁理屈や嫌味を言えるのは他でもなくそなた相手だからだ。そなたはわたしを『人間』と言ってくれる。それはわたしにとってとても嬉しいことだ。こんな化け物の身でも、人の子の端くれなのだと思えるんだ。けれども、人間というものは、風を使って他の人間を壊したりなんかしない。首や手足を切り落とされても再び胴体と繋がったり、全身が炭になっても数刻も経たないうちに元通りになったりしないものだ。違うか?」
『……そりゃ、普通はそうだけどさ、仕方ねえだろ。あんたは偉大なる我らの父上に特別に護られているんだから』
「誰が護ってくれと頼んだのだろうな。想像することしかできないが、風の女神だってそう思ったはずだ。そんな奇跡のようなことをしてくれるのならば、わたしなどよりももっとほかに救われるべき者が大勢いただろうに。……救えなかった命を助けることだってできたはずだ。何故、天の主神は嘆く者や儚き者を護ってはくれなかったのだ。先の乱れた世も、わたしが殺めてしまった者たちも、わたしさえ生まれなければ彼らは死なずに済んだのに!」
彼は歯をかみしめた。怒りで息が上がり、彼は胸元を鷲掴みにして外套の生地を引っ張った。
フィーネはなおも二人の会話に入ることはできずにいた。だが、彼の嘆きを目の前にしていると、彼の悔しさが伝わってきたのか、本人ではないはずなのに胸と顎に激しい痛みを覚えた。
フィーネはセイファンの依頼で偽片翼として白鴎宮に来た。アウィルドリーシャがラキアに命を狙われていると聞かされていたが、仮にこの夢が真実であるなら事情が変わってくる。
以前、最高神官長ことモールクは意味深長に言っていた。
フィーネが助けたいと思う人物こそ、フィーネにとって最大の敵に等しい、と。
あの時は言葉の意味がわからなかったが、一連の様子を垣間見るに、ラキア――アウィルドリーシャこそが、フィーネにとっての敵なのだろうか。
本物の片翼が力を目覚めさせ、片翼の任を引き継ぐまではフィーネがアウィルドリーシャを守ると心に決めていた。しかし、当の本人は守られるどころか、すでに百回以上も自ら命を絶とうとしている。なんと悲しい話だろうか。
かつてアウィルドリーシャは、フィーネがこの世に生まれてきたことを肯定してくれた。暗い海の底で窒息していたフィーネの心を、自由に息が出来る明るい世界に引き上げてくれた。あの時は自分のことで手一杯で全く気づくことが出来なかったが、本当に暗い水底に沈んでいたのは彼の方だったのではないだろうか。
ただ、この夢が真実である確証はない。無意識のうちに彼の言葉や態度に傷つけられたことから逃れたいと願うフィーネ自身の弱さが見せているまやかしかもしれないのだ。
「……すまない、アシュハド。今のは単なる八つ当たりだ。この話はここまでにしよう」
『ああ、わかった。この話はここまでにしよう。あんたの気持ちはよくわかったよ。だからもうおれからは何も言えないや。あんたの好きにすりゃいい。勝手に死んでくれ。そうすりゃあんたはまた生まれ変わるだけだからな。赤ん坊になってぜーんぶ忘れてこの世に戻ってくることになる。まったくほんと気楽なもんだ』
「アシュハド……」
『だがな、おれはそんなことになるのはごめん被るね。あんたが死んだらおれたちは弔いのためにあんたを喰わなきゃならねえ。見るからに赤身が多く筋張って不味そうなあんたを喰わされる身にもなれよ。いいか、おれは風の女神の兄だ。そして、我が眷属である鳥たちは風の女神に仕えていたし、愛していた。彼女はとても勇敢で優しかった。天の主神が風の女神のために与えた癒やしの腕輪を自分のためではなくあらゆる命のために使い、多くの人や獣を救ってくれた。だが、その反面、彼女は死の女神に掛けられた死の呪いといつも戦っていた。治癒の力は運命をねじ曲げる。理を乱させまいと、死の女神は風の女神に治癒の力を使う度に己の身に跳ね返る呪いを掛けて力を使わせないようにした。けど、どんなに辛くとも、あいつは泣き言ひとつ言わずに他者のために腕輪の力を使い続けた。自分はぼろぼろになり、誰かが彼女を止めようとしても意固地になって彼女は他人を助けようとし続けた』
アシュハドはくるる、と寂しげに喉を鳴らした。
『だから嫌なんだ。あいつは散々、誰かのためにと、表ではいつもにこにこと笑いながら、裏では血を吐き苦しんだ挙げ句に、魔の王に取り憑かれたオルレガを助けるためにあっさりと死んでしまった。今のあんたを見ていると、あの時のことを思い出して無性に腹が立ってくる。なんであんたはいつも辛い思いをして苦しまなきゃならねえんだ。それにあんたは本当にあいつにそっくりだよ! 九回も生まれ変わってるはずなのに根本的なところがまるで変わっていない。反省の色すらない。あんたが意志を曲げねえ、責任感の強い人間ということも知っている』
アシュハドは何かを決意したように目を細めて、ふっと嘴を天に向けた。
『だから、これからはおれも好き勝手やらせてもらうことにした』
「は? どういう意味だ?」
「全部説明してやらなきゃわかんねえのかよ! 頑張ってあんたの邪魔をしてやるって言ったんだよ!」
「おまえ、一体何をするつもりだ!?」
『あんたの想像するとおりだよ!』
一鳥前に立派な宣戦布告をすると、彼は優美な銀の翼を伸ばし、羽ばたいた。風が起こり、神鳥は輝く美しい翼を翻し、瞬く間にラキアでも追えないほど高く浮かび上がった。
「待て、アシュ――」
『じゃあな!』
と言い残すと、アシュハドは東の方へ飛び去っていってしまった。
ラキアは神鳥が消えた先をしばらく睨み据えていたが、やがて諦めた様子でため息をつくと東屋へ向き直った。
残されたフィーネは、ラキアと向かい合ったまま、気まずさを感じていた。妙な話を聞いてしまった。
色々な意味で、いまだに高鳴る鼓動に戸惑いながら彼とどう接すればいいのか考えたが答えがわからない。己の意思ではなかったが秘密を覗き見てしまったような罪悪感に似た複雑な気分で、彼の夜の水面のような瞳を見つめた。
「……たまたま知り合ったばかりだというのに、いきなり妙な話を聞かせてしまって申し訳なかったな」
フィーネは首を横に振って否定した。
「おいで」
そう呼ぶ声はそよ風のように心地よくフィーネの頬をなでた。
驚くほど優しい顔だ。普段の彼からは想像もつかないほど柔らかい笑顔を前に、フィーネは心臓が口から飛び出しそうな衝撃を受けた。
胸の鼓動も治まらない。
思わず見惚れそうになりながら、フィーネは慌てて目をそらした。
――ここにいてはならない。
そう思った瞬間、フィーネは急に吐き気にも似た不快感を胸に覚えた。
急に視界が真っ黒になり、何も見えなくなった。全身を強い力でどこかに押し流されて行くような感覚と、意識が激しい濁流の渦に飲まれる。
* * *
――さま! ……てください、フィーネ様!
誰かが呼ぶ声がする。
フィーネにとって慣れ親しんだ、姉であり、心許せる侍女ヒレナの少し低めの素敵な声――。
激しい流れの行き着く先は彼女の声。
その声に意識を急に現実に引き戻されてゆく――。
「フィーネ様……フィーネさまっ!」
「え! なに!?」
ヒレナの叫び声で目を開けたフィーネは、上半身を起こそうとしてすぐ目の前にあった彼女の額に自分の額を打ちつけた。
ごん、と固い岩がぶつかったような音が頭の中に響くとともに激痛を感じ、目の奥にちかちかと火花が散り、同時にヒレナも低い声で呻いた。
「ごめん、ヒレナ!」
まさか、すぐそばに彼女の顔があるとは思わなかった。
涙目で悶えるヒレナはフィーネと目が合うと、緊張で強張っていた相好をさっと崩した。
「よかった……。日が暮れても、お声をお掛けしても眠られたまま全く反応がなかったので、もしかしたらなにか、お命に関わる事態になっているのではないかと焦りました」
「……わたしは……」
頭の真ん中あたりに今し方ぶつけた鈍い痛みを感じたが、それ以外には問題ないようだ。ゆっくりと身を起こすとヒレナはそっとフィーネの上半身を抱き起こすように手で支えた。
「お身体の具合はいかがですか?」
「うん。大丈夫、なんともないよ。心配かけてごめんなさい。ただね、ものすごく変な夢を見たんだ。私は鳥になって空を飛んだんだけど――」
フィーネは今しがた見た妙な夢の顛末をヒレナに語った。
「……あんな夢を見るなんて私はいよいよ末期かもしれない」
思い返してみれば、妙に現実味のある夢だった、と軽く笑いながらヒレナに目を遣ったフィーネは、目を丸くした。彼女は色白の顔を青く染めて唇をわななかせていた。
「……っ、それはずいぶんと不思議な夢ですね。ええ……本当に……」
「どうしたの、ヒレナ?」
「いいえ、なんでもございません」
「でも、様子がおかしいよ」
業を煮やして彼女の両腕を掴むと、彼女は身を捩って振り解こうとした。
「本当に、なんでもないのです!」
「ヒレナ、隠さないで答えて」
しばらく二人は見つめ合った。彼女は絶対的にフィーネの味方だ。だが、フィーネにとって不都合なことや危険事項に近づくおそれのある情報は教えてくれないことがある。けれども、フィーネだっていつも守られてばかりではいられないのだ。
ややあってヒレナは折れた。彼女は仕方ないといった様子で隣室に行くと、布を持って戻ってきた。それは一枚の縫いかけの手巾だった。それを見てフィーネはぎょっとした。
「なに……これ……?」
それは夢で見たとおりの、そっくりそのままの蓮の意匠の刺繍だった。
「どういうこと? どうして夢の通りなの!? 私、おかしくなったの?」
「落ち着いてください! まだ、あなたの見た夢が全部現実かどうか決めつけるのは尚早です」
「そうだよね。うん、偶然の一致かもしれないよね。うん、ありえないよ。どこかで似たような光景を見たのかもしれないし、正夢なんて、まさか……ね?」
「そうですとも。蓮なんてありふれた意匠でございますから」
二人はどうにかして先ほどの夢を夢であると断定して処理しようと試みた。しかし、万に一つということもあり得る。一応、大事なことは確認しておいた方が良いかもしれない。
「ねえヒレナ、頭が痛むと思うんだけどごめん。訊いてもいいかな?」
「構いませんよ」
「それじゃ、ヒレナが王宮勤めをしていた当時のことを訊きたいんだけど、『エリーシャ』という名前に誰か心当たりはない?」
「ええと、わたくしも王宮のすべてを把握出来ていたわけではないのでお答えしづらいのですが、わたくしの知る限りではそのような人物に覚えはございません。ですが、貴十姫というからには、女性ですよね」
「うん。緑がかった金色の髪と、水宝玉のような水色の目の、色白の女の子だった。小さな頃から王宮勤めをしていたらしくて陛下とも親しそうな感じだったから、ヒレナも知っているかなと思ったんだけど、そんな人はいないということはやっぱり単なる夢なんだな。良かった」
ほっと胸をなで下ろすと思い出したように額の痛みが強くなる。
「どうかなさったのですか?」
「夢を真に受けるなんて馬鹿みたいだなと思っただけだよ」
フィーネは笑って自らの内の不安を吹き飛ばそうとした。
「陛下の交友関係はよくわかりませんね。王宮外にしばしば出掛けられていましたし、鳥を介して誰にもわからないつながりがあるようですし、もしかするとエリーシャというのはその中の一人なのかもしれませんよ」
フィーネは頷いた。そして北の森に出掛けて真実を確かめてみたいという欲が湧いた。だが、外はもう日が暮れているし、今から向かっても彼には会えないだろう。
そして、夢を見ていた時に確認したいと思った人物がもう一人いたことを思い出した。
エリーシャのことは夢の中の人物だと思えばそれで済ませられる。だが、もう一人の名はそう簡単には片づけてはならない気がしたのだ。
「それなら、サクィーエ・アルファスという名前に心当たりはない?」
「サクィーエでございますか!?」
彼女は切れ長の瞳を見開いた。
「知っているの?」
「いえ……。あなたがどこから彼女の名を耳にされたのかは存じませんが、彼女のことは先王陛下から伺ったことがございます。彼女は陛下……アウィルドリーシャ様の教育係、つまりガイズ様の前任者だったそうで、幼少の頃のアウィルドリーシャ様を暗殺しようとした罪で処刑されたそうです」
「え……」
「詳しい事情はわたくしも存じ上げません。ただ、その教育係はアウィルドリーシャ様にとってとても大切な存在であったようで、彼女の死により彼はとてもふさぎ込んでしまわれたそうです。ガイズ様が教育係になったことで元気を取り戻されたそうですが、色々と大変だったと先王陛下は仰っておりました」
「そうなんだ。それじゃあ、サクィーエという人物について調べた方がいいかもしれないな」
「では、最高神官長様に訊いてみると良いでしょう。サクィーエ殿は巫女として神殿に仕えていたそうですから何かしらご存知かもしれません」
「そうしたいのは山々だけどそれはできないよ。仮にあの夢が正夢だったとしたら、陛下を襲撃した以上、最高神官長様は信用できないもの」
「では、ノルン様に書庫を開けていただきましょう。わたくしからお願いしておきます」
「それも待って。私が直接お願いしに行くよ」
「ですが、少々言いにくいことですが、あの方のあなたへの態度はあまり好ましいものではないように思われます。わたくしが代わりにお願いして参ります」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。ここでヒレナに頼ってしまったらノルン殿はたぶん私を本当に軽蔑するような気がする」
ヒレナはふっと相好を崩すと立ち上がった。
「かしこまりました。あなたの頑張りが実りますようにと、陰ながら応援しております。ですがその前に、夕食前の沐浴に参りましょう」
フィーネはうん、と頷き、寝台から降りた。
チョウショウバトは二十センチメートルくらいの小柄な鳩で、鳴き声が美しいため、『鳩界のカナリア』と呼ばれているそうです。一度会ってみたいです。




