四章 不思議な少女 (8) 不思議な少女エリーシャ
遅めの昼食を済ませ、午睡の時間になると、フィーネは約束通り、自室で休んだ。
先ほどまでの空はすがすがしいほど晴れていたというのに、今は黒い雲が空を覆い尽くしてすぐにでも雷雨になりそうだ。
窓の外を見ながらフィーネはラキアの言葉を思い出して安堵していた。正直なところ、雨は苦手だ。雨は雷を連れてくるからだ。
フィーネはウルガで育ったにもかかわらず、雷が大の苦手だった。
だから、枕元に置いた袋から耳栓を取り出すと深く耳穴に差し込んだ。
気休めにしかならないが、致し方ない。
雷は稲妻といって作物の成長を促すこともあるそうで畏れ敬う農民もいるが、漁師にとっては天から降り注ぐ槍に等しい。そして、フィーネにとってあれは人も街も灰に変える悲劇の源そのものだった。
耳栓を使って音は小さくできても、空を切り裂くような閃光や、空気を震わせるびりびりとした感覚は肌から伝わってくる。
さっさと寝てしまおう。フィーネは横になるとすぐに目を閉じた。
疲れていたのだろうか、あっという間に夢の世界に意識が落ちていった。
――フィーネ。
あれ? と暗闇の中でフィーネは耳を澄ませた。
女の声だ。か細く高い声だが、誰だろうか。
「あなたは誰ですか?」
――フィーネ、額に明かりを灯して。
何を言っているのか意味が分からない。夢というのはよくわからないことが起こるものだが、額を光らせるなど、意味不明な言葉だなと一笑に付した。
すると、どこからともなく、フィーネの目の前に一羽の金糸雀が舞い降りた。いや、ただの金糸雀にしては瞳の色が奇妙だ。普通は黒や赤褐色が多いはずだが、目の前の個体の目は淡い水色をしており、とても神秘的な雰囲気を纏っていた。
風変わりな金糸雀は前触れもなく強烈に眩く白い輝きを放つと、一瞬で人間の少女に姿を変えた。
「え!?」
緑がかったまっすぐな金の髪が鮮やかな、色白の少女。年の頃はフィーネとあまり変わらないくらいだろうか。彼女は、驚愕して腰を抜かしたフィーネの前に立つと、すっと手を伸ばしてフィーネの額に手をかざした。何をしているのだろうかとぼんやり見ていると、視界の上の方が白く光りはじめた。額にほんのりと温もりを感じたかと思えば、だんだんと光の方に引っ張られるような感じがした。
何が起きているのだろう、と考えていると次の瞬間、フィーネは全身の力が抜けて、頭の方から狭い筒の中をぬるりと押し出されるような奇妙な感覚に戸惑い、慌てて目を閉じた。
気がつくと、フィーネは宙に浮いていた。足も手も背中も臀部も、全身が安定した面に触れることなくふわふわと漂っていた。
何が起きたのかわからず、目をあちこちに向けると足の下に横たわる少女が見えた。
その人物の正体に気づいたフィーネは目を見張った。上質な寝具の上で色白で小柄な黒髪の少女が瞼を閉じ、安らかな表情で寝息をたてている。
彼女はフィーネにとって鏡で見知った人物だった。
とても信じられないが、まさか、あれは――
――私!?
胃を鷲掴みにされたような強い驚きに襲われながらも、急いでヒレナを呼ばなくては、と判断して手足をばたつかせて宙を泳ぐように隣室に向かった。
隣室に続く扉は開いていたが、その奥でヒレナは難しい顔をして頭を抱えていた。先ほどノルンと諍いをしたことを話した時にはヒレナも休むようにすすめてきたくせに、本人は午睡もしないで机に向かって刺繍をしていた。
肩越しに背後から見ると、どうやら薄紅色の蓮の花を描こうとしているらしい。
「ねえヒレナ! 私どうかしちゃったみたいなんだ! 気づいて!」
駄目でもともと、と助けを求めてみたが、彼女は微動だにしない。フィーネの声には気づいていないようで、ヒレナはため息をつくと、刺繍糸をほどきはじめた。
「……フィーネ」
玲瓏な声に呼ばれてフィーネは寝台の横からこちらを見る少女を振り返った。緑金色の長い睫毛で彩られた二重瞼の中に収まる水宝玉のような美しい瞳がとても印象的で、物語に登場する「聖女」のような可憐な印象の持ち主だ。
「……あなたは一体誰なんですか?」
「私はエリーシャ。ねえフィーネ、少し遊びましょう?」
遊んでいる場合か、と突っ込みたくなるのをこらえてフィーネは頷いた。仮にこれが魔物の誘いだとしても、自分には知識も対抗手段も持たないためどうすることもできない。
「私はね、自分の意識を鳥の姿に変えて飛ばすことができるの。いま、あなたに話しかけているのも、その力に依るもの。さあ、一緒に飛びましょう?」
「それってどういう……」
意味が分からない。夢というのは総じて支離滅裂な内容のことが多いが、エリーシャという少女は屈託のない笑顔で誘う。
「フィーネ、今から鳥になって私と少しお出かけしましょう? 飛び方を教えるわ」
「飛ぶって言われても……どうしたらいいんですか?」
「目を閉じて想像してみて。あなたは鳥よ。そうね……真っ白で、曇り空でも雲の上のお日様にきらめく翼を持った、白い鴎」
フィーネの返事を待たずに彼女は体を左右に揺らしながら楽しげに笑う。仕方なく、フィーネは言われたとおりに目を閉じた。エリーシャはそっとフィーネの身体に触れた。脳天、額、鎖骨、臍。初めは体幹を中心に触れられていたが、だんだん四肢の末端に向けて場所が移動してゆく。フィーネは彼女に教えられた通りに自分の身体が鳥の形になっていく感覚を頑張って思い描いた。
「すごい、上手だわ!」
彼女に褒められて目を開くと、驚くべきことに、フィーネの腕は真っ白な翼に変化していた。
「教えたそばからできるなんて、すごいわ! もしかするとあなたには魔術の才能があるのかもしれないわね。私なんて、これを覚えるまでに半年はかかったものなのにっ」
言葉の末尾に愛らしい愚痴めいた響きを混じらせ、彼女は深く息をつく。それから、彼女は引き続きフィーネの身体に触れていく。そのたびに、フィーネの手足や胴体は白い光を放ち、変化していった。
「さあ、これでもうあなたは立派な一人前の鳥よ! あれ、鳥なのに一人前って響きはおかしいかしら。一鳥前? ……というのも妙だし……まあ、いいわ。考えてもしょうがないわね。さあ、フィーネ、両手を――いいえ、翼を大きく広げてみて。そしたら、羽ばたかせてみて。風を掴むの」
言われた通りにすると、フィーネの体はわずかに宙に持ち上がる。驚いてフィーネは手を止めると、地面に落下した。
「あいたっ」
「怖がらないで。初めての飛翔は着地に次いで二番目に難しいの。手を休めてはならないわ」
もう一度、とうながされて、フィーネは翼を羽ばたかせた。すると、身体がふわりと持ち上がり、地面から足が離れた。しばらく練習しているうちにこつを掴み、寝室内を思いのままに飛べるようになった。
「ついてきなさい、フィーネ!」
緑金の羽を持つ美しい鳥はフィーネを誘う。
最初こそ警戒していたはずなのだが、だんだんとこの謎の夢を楽しみだしたフィーネは、誘われるままにエリーシャについて窓から外に飛び出した。
翼を動かせば動かすほど、ぐんぐん高度は増してゆき、緑水舎の急な角度の翡翠色の瓦屋根がどんどん小さくなってゆく。
眼下に広がる美しい王都の街並み。どんよりとした雲の影の向こう、はるか遠くに見える海は、碧くきらきらと輝いて宝石のようだ。頬を撫でる風がとても心地よい。
「すごい! 私、飛んでいるの?」
「ええ。今のあなたの身体は寝台の上だけど、魂はこうして自由に羽ばたけるわ」
楽しげに答えるエリーシャの声にフィーネはわくわくした。これはなんと素敵な夢だろう。行きたいところにいつでも行けるとは最高の気分だ。
それから二人であちこち出掛けた。
市場を抜け、水路の橋をくぐり、わざと混雑した通りの人と人との間を縫うように高速で飛び、人々を驚かせる。
水路の船を追い越し、家々を飛び越え、街並みを縦横無尽に飛ぶ。それからぐんぐんと高度を上げて高い場所から見下ろし、人々の姿を空から眺めながらどこまでも遠くに羽ばたいた。
はじめはエリーシャのことを警戒していたものの、フィーネはいつしか、胸が躍るほどにこの夢のひとときを楽しんでいた。
街で散々悪戯をした後、二人は王都の西の岬の丘の上の灯台の屋根の下で休んだ。さざ波が穏やかに鳴り響き、驟雨が近づいていることを知らせる少しひんやりとした風が心地よくてフィーネは目を細めた。また、王都の西側の海は東側に比べて海から香る泥や蒸して湿った土のにおいが強いような気がした。
エリーシャは鳥の姿から瞬時に人に戻ると、灯台の手すりに腰掛けて足をぶらつかせた。彼女は履き物を履いておらず、白い足を彩る華奢な金の飾りが、雲間の陽光を受けてきらめいた。フィーネは鳥の姿のまま、彼女を見つめた。
彼女は手首まで覆う長い袖と、膝下まである裾を持つ真白い衣を纏っていた。神殿の巫女のような姿だが、刺繍が少なく、少しばかり古い出で立ちに思える。
凝視するフィーネの視線に気づくとにかっと笑った。薄い唇から覗く白い歯が愛らしい。
「……私はね、王宮から出たことがほとんどなかったの。いつも窓から見える景色はきれいだったけれど、色々な場所を見てみたいと思っていたわ。でも、国王さまも王妃さまも、外に出て良いとはなかなか仰ってくださらなかった。外は危険がいっぱいだから、王宮の中にいなさいってね。……正直言って、つまらないと思っていたわ。私は色々なものを見聞きして沢山の人と会ってみたかった。そうして不貞腐れていたらね、あの方がこの術を教えてくれたの」
「あの方って?」
「アウィルド様よ。彼はとても博識で、魔術や神術の扱いにも長けておられたわ。私はいつも、彼に憧れていた」
フィーネは首を傾げた。アウィルドが魔術を使うことができるという話は聞いたことがない。だが、彼女は確かに『アウィルド』と口にした。その言葉は聞き間違いではないだろう。
アウィルドは多くの趣味の持ち主だ。知的好奇心が旺盛というのだろうか、変人的な部分のある彼のことだからその方面の知識を持っていたとしても不思議ではないが、彼が魔術を扱えるという話は噂にすらない。
「私は赤子だった頃に白鴎宮に入ったの。血のつながりはなかったけれど、彼とは兄と妹のように育ったわ」
それからエリーシャは、アウィルドとの思い出話をしてくれた。二人は同じ日、同じ時にこの世に生まれたという。それは、こと座の星祭りの晩のことだった。彼女は元々田舎の農家の十女として生まれたらしいが、両親や兄姉との思い出は全く無かったという。親というものがどういうものであるのか知らず、寂しさを感じていた彼女だが、孤独ではなかった。なぜなら彼女には、双子の兄のように育ったアウィルドがいてくれたからだ。
「――アウィルドさまは、寂しがる私に手作りの花を一輪くださったの。青緑色の薄布と、黄色の薄布を重ね束ねて金糸と橄欖石の蘂を持った、私のためだけの特別な花だったわ」
彼との思い出話を聞いていると、ふいに胸を細い針でつつかれるような痛みを覚えた。また、どこか落ち着かない気分になった。彼女はとても楽しそうに語るが、理由はわからないが、自分の知らないアウィルドを彼女が知っていることが少しだけ羨ましくも、同時に嫉ましくも思えたのだ。今まで父や王宮勤めをする様々な者たちから聞いてもこのような気持ちを抱いたことはなかった。それなのに、彼女は違うのだ。どうしてかはわからないが、腹立たしさを覚えるのだ。自分にこんな醜い感情があったことを恐ろしいと思った。
気を紛らわせようと空に目を向けると心なしか天気も悪くなってきた。
すぐに戻らなければ雷が来る。それに今は何時だろうか。午睡の時間が終わったらすぐにでも中庭に向かいたい。
「あの、エリーシャさん。私はそろそろ、戻らないと」
「そうね。私ったら、久しぶりに人とお話しできたからか、ついはしゃいでしまったわ。戻りましょうか」
二人は再び空に舞い上がると、王都を西から東へ飛び越えて、白鴎宮のある丘に向かった。
もう少しで緑水舎に着こうというところで、突如としてフィーネは突風に煽られた。身体の自由がきかないまま宙返りし、視界がぐるりと回った。
すぐさま体勢を立て直そうと羽を激しく上下させたため、元通りの水平姿勢を取り戻すことが出来た。ところが、急に降り始めた雨と雷の重低音にフィーネは我を忘れて飛び上がった。太鼓のような腹に響く雷鳴の恐怖を覚えてすっかり羽を動かすことを忘れてしまった。
「フィーネ、だめよ!!」
エリーシャの叫びがどんどん遠退き、視界がぐるりと反転する。
さらなる強風に煽られ、小さな身体は為す術もなく彼方に吹き飛ばされた。
フィーネは真っ逆様に地面に落下した。
ようやくエリーシャが登場しました。
フィーネはエリーシャに出会い、彼女の話を聴いているうちに、なぜか自らの内に黒い感情を芽生えさせています。そのせいで彼女は無意識に冷静さを失っており、普段の彼女ならすぐに気づくはずの、本来であればフィーネ自身が真っ先に気づくはずのとある明確な矛盾点に気がついていません。
次回は大雨の中、地面に落ちてしまったフィーネ(鳥)がある人物に助けられる予定です。
楽しみにお待ちいただけますと幸いです。




