四章 不思議な少女 (3) 神殺しの毒とは?
女官長の部屋を後にして回廊を歩いていると、今度はムヴァン・カルヴァの一団に出くわした。
フィーネが白鴎宮に上がることになったきっかけの老年の男は、十人ほどの武官を連れて歩いていたが、こちらの姿に気がつくと深々と頭を下げた。
「こんにちは。カルヴァ殿」
「おや、これはこれは、ファーシャ様。本日も暑いですな。白鴎宮での暮らしにはもう慣れましたかな?」
声音こそ柔らかいが、相変わらずの鷹のような鋭い瞳で彼はフィーネを見つめてくる。
彼に付き従っている武官たちはフィーネたちの話が聞こえないほど離れた位置まで移動し、整然と並んで待機した。
「はい。皆様にはとても良くしていただいて、なんとか過ごすことが出来ております。ただ、王都の暑さにはまだなかなか馴染めないのが悩ましいところでして……」
「王都はなかなか鬱陶しい暑さが名物ですからな、色々とお辛いことだろう。暍病にはくれぐれも気をつけなされ。塩と水分をとり、休養を十分に摂ることをお忘れなきよう」
「ありがとうございます。カルヴァ殿」
感謝の意を込めて一礼したところ、彼は口元の皺を深めて穏やかな笑みを浮かべた。
「ムヴァンで構いませんぞ。カルヴァはわが倅を含めてこの城に少なくとも二百六十七人はおりますしな。……それより、少し小耳に挟んだのだが、あなた様は王宮じゅうを歩き回って陛下について調べておいでとか」
「はい。つきましては、ムヴァン殿にもお聞きしてみたいのですが、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
勿論だ、と彼は快諾して腕を組んで少し思案した。
ふいに風が吹き、彼の結い上げた白髪や臙脂色の衣の裾をかすかに揺らす。ややあって、彼はおもむろに口を開いた。
「……あなた様は陛下の通行証の特徴はすでにご存じであらせられますかな?」
フィーネが首を横に振って否定すると、彼は口元の整った白髭を指でふさふさと撫でた。
「陛下の通行証は、他に持つ者のない特別な仕様となっておりましてな、台座は金。飾り石として夜明真珠を嵌めて、飾り石の下地も金で出来ている」
それはフィーネにとって一歩前進することを可能とするかなり有益な情報だ。
常識的に考えて、通行証のような重要な身分証を他人に貸与することは防衛上、特別な事情がない限りはまずあり得ないだろう。
つまり、それを持っていることを指摘できれば、ラキアがアウィルドであると証明出来る。
「ありがとうございます。とてもためになる情報です」
「ならばよかった。それともういくつか陛下についての情報をお教えしようか」
「よろしいのですか?」
「この一介の老兵が片翼様のお役に立てるならば幸甚の至りでございますな」
「ありがとうございます!」
ムヴァンは刀傷が目立つ左目を細めて笑みを浮かべた。
「ファーシャ様もすでに多くの者から聞いておられるかと思うが、陛下はとても武芸の才に恵まれた御方だ。あの方に扱えぬ武器はないと言わしめる腕前で、幾人もの、技を極めたはずの達人が、相棒たる武器を投げてしまうくらいであった。我がカルヴァ家はウルガ王国南西部、ラマーレ半島の付け根を治めるカルヴァ領主を拝命しており、勇敢な兵を多く有しておるが、陛下は我が一門で最も強かった男をも負かしてしまったのだ。そのため陛下は完璧を評されているが、じつはあの方にもいくつか弱みがおありでな……まず、鳥類全般の肉を食することができぬ。卵や、鳥が自らを贄として差し出した場合や、特別な祈祷と作法で捌かれた肉であれば召し上がることが可能とされてはおるが、通常の下処理の肉ではお身体の調子を崩されてしまうのだ」
「それは、鳥の神が風の女神の兄神であることと関わりがあるのでしょうか」
「その通りだ。鳥は鳥の神の眷属だが、鳥の神自身が風の女神の眷属でもある」
「お兄さんが眷属になるなんてややこしいですね」
「左様だな。だが、毎回、妹神が生まれ変わる際にわざわざ神鳥として天界から人の世に下ってくるのだ。過保護にもほどがある。だからこそ、風の女神の魂を持つ者は鳥を従えることが出来るが、その身は輩の肉を糧とすることを拒絶してしまうのだろう」
ウルガ王国では鳥は魚介類同様に手頃な蛋白質の源として重宝されているが、それを食せないというのはかなり不便だろう。思い返せば彼が鳥を食している姿は確かに一度も見たことがなかった。
「さて、次だ。陛下は歌が壊滅的に苦手であらせられる。雨季に入る直前の野分除けの祭りの際、国王は風詠歌を雨の夫婦神に奉納するのだが、あまりにひどい歌声で堂々となさるものだから、式典の最中はずっと参列者は皆、息を止めて耐えねばならないという苦行にさらされるほどだ」
「え!?」
彼の話をフィーネは素直に受け止められなかった。一度だけ――立太子の儀の晩に彼の歌を聞いたことがあるが、音痴どころか大抵の歌うたいなど到底足元にも及ばないほどの腕前だった。だが、もしかすると、彼が他人から恐れられないようにわざと弱みとして音痴なふりをしているのかもしれないため、フィーネの記憶の中の流麗な歌声は胸の内に隠しておくことにした。
「以前、ディム殿が教えてくださったのですが、陛下の歌声を聞くと国民全員が立ち上がれなくなる、というのはそういうことだったのですね」
「あの小童がそのようなことを言うたか! 確かに、あの世界を破滅させかねない歌声を聞いていると我々は哀れな茹で海老のように腹を抱えるはめになって動けなくなってしまうな」
カルヴァはくくく、と喉を鳴らして笑った。
「あと、この話もお伝えしておこう。陛下は現人神の身であることと、リドア家の血筋によって、酒で酔うことが皆無に等しい。しかし、『神々の酒』を口にすると人が変わったように陽気になるという愉快な弱点がある」
「『神々の酒』ですか!? かなり希少性が高いとうかがったことがございますが、飲めるほどの量がこの世に存在しているのですか!?」
『神々の酒』は天界で造られる特別な酒で、神々はそれを嗜んでいるらしい。人が醸造する酒では決して酔うことがない神々を酔わせる効能がありながら、人間にとっては単なる味のついた水程度のもので飲んでも何も起こらない不思議な液体のことをそのように呼ぶ。
天界で神々のための酒造りに勤しみ、時折、人間の酒造りに加護を与えてくれる酒の神が、人界に下っている神々のために時折、植物の蜜や果実の中に『神々の酒』を詰めて天界から贈ると言われており、エレスだけで育つ虹色時計草の実、青石榴の実、黄金竹の蜜などが該当するが、それらはエレス領内でもかなり希少な部類に入るもので十年に一度見つかれば良い程度だ。フィーネもすべての種類を把握できているわけではないが、それ以外にも色々な種類があるという噂は聞いたことがある。
「王宮にはそのような貴重なものまであるのですか!?」
一度でいいので見てみたいし、一舐めしてみたい、などとフィーネは良からぬ考えを抱いた。
「いや、残念だが、王宮の力をもってしてもさすがに神々の酒の入手は困難だ」
「では、陛下はどこでそれを口になさったのですか?」
「五歳の頃に鳥の神が持ってきた青石榴の実を騙されて一個丸々食してしまわれたそうだ。騒ぎを聞いて駆けつけた時にわしが見たアウィルドリーシャ様はとんでもなく真っ赤な顔で、両手を広げて鳥が飛ぶ真似をして、「今からわたしは白鳥になって、カナーヤの雪山に行ってくる!」と謎の宣言をして王宮じゅうを走り回り、キャハキャハアハアハとあの方から到底発せられる音とは思えぬ奇声を発してガイズ殿に抱きついて、好き好き大好き結婚させろと奇っ怪な告白をなさるくらいには悪酔いなさっておられた」
「想像がつきませんし男同士で結婚ですか……」
「左様。酔いが醒めた後は二日酔いで嘔吐しながら自身の言動を後悔なさっておられてとてもおいたわしいご様子であったのを今でもよく覚えておる」
「それは陛下にとってかなりの弱点ではございませんか。しかも、話を伺うとそれはまるで『神殺しの毒』のようですね」
「ご明察の通りだ。あの方のお身体そのものは人間だが、神々や精霊、魔物にのみ効果を発揮する『神殺しの毒』の影響を強く受けてしまうのだ。神殺しの毒は木の実や果実、薬草や鉱物など様々な種類があってな。人間には無害でも、麻痺を引き起こしたり、性別を転換させてしまったり、神を隷属させる物も存在するらしいのだ。故に、その酒乱騒動の一件以来、陛下はたいへん気をつけておられ――」
そこでムヴァンは一度言葉を切り、老獪な武将らしい不敵な笑みを浮かべた。
「――ここまでは皆が知るとおりだが、ここだけの話としてあなた様の胸の内に留めるのみとしておいてほしい。耳を貸していただけますかな?」
ムヴァンが耳元でひそひそと語った内容に、フィーネは目を見開いた。
「それは本当のことですか!?」
「左様だ。このことはくれぐれも他者に明かしてはなりませぬぞ」
「はい。このことは絶対に他言しないと誓います」
「それでよろしい。おそらくすぐにこの知識が役に立つことだろう」
「え? どういう意味でしょうか」
「今はわからずともすぐにわかる。近いうちにあの根暗小僧が泣きついてくるだろうからあなた様はそれまでのんびり構えておれば良い」
「根暗小僧って……」
年長者とはいっても一応は臣下のはずのムヴァンの無礼に驚いたが、年老いて前線から退いた後にアウィルドリーシャの剣の指南役を務めたムヴァンのことだ。悪意というよりは親しみが籠もっているような温かい印象を受けた。
ただ、気になるのはセイファンと同様にアウィルドリーシャを『根暗』と評した点だ。
確かにアウィルドは繊細な一面もあるが、どちらかと言えば根は明るい少年だと思っていたのだが、王宮での彼はどのような振る舞いをしていたのだろうか。
「さて、ファーシャ様。長々とお引き留めして申し訳なかったな。どうか頑張ってくだされ」
フィーネは礼を伝えてムヴァン一行を見送ると次へ向かった。
今回、時計草という名称を登場させたのですが、実が食べられる品種とそうでない品種があるそうです。
果物時計草のジュースを某輸入食品店で購入したのですが、甘酸っぱさと香りがとても美味でした。
特に、トムヤムヌードルといただくと辛さと爽やかさが合わさって最高に美味でしたのでぜひ!




