三章 白鴎の宮(17) 呪詛の相手は誰なのか
その晩の夕食は少し気まずくなるかと思われたが、ラキアとレリファ=シシカが急用を理由に食事の席を欠席したため、フィーネは安堵した。
緑水舎の自室に戻るとフィーネはバルコニーの手すりに手を掛けて夜風に吹かれていた。屋根越しに空を見上げると、星明かりが綺麗だ。
うだるような昼間の猛暑は去り、今はとても過ごしやすくなった。優しく穏やかな風に吹かれていると、物思いに耽りたくなる。
夕食後、フィーネはヒレナを連れて東宮殿内の神殿に行ってレリファ=シシカに呪詛された件を報告した。
夢であった出来事とその際に出来た痣、さらに一昨日の晩に久々の奇病の発作が出たことを説明したのだが、その間ずっと彼は表情筋をわずかに動かすこともなく聞き続け、淡々と頷いた。
『ファーシャ様、その夢の女人について心当たりはございますか?』
全くないと答えると、彼は失礼、と詫びてからフィーネの首の痣に優しく触れた。
『これは確かに呪詛ですね。あなたのことを片翼だと認めて仕掛けてきたのでしょう。夜明真珠が身代わりになって痣で済んでいますが、呪詛本来の作用で襲われていたら、あなたは自分の首の断面を見ることになっていたかもしれません』
さらりと告げられた事実にフィーネは言葉を失った。
『ご安心を。夜明真珠がある限り、そのような事態にはなりません。沐浴時も肌身離さず、必ず常に身につけていてください』
『わかりました。ですが、レリファ=シシカ様。次に同じような事態が起きた時、私はどうしたら良いのでしょうか』
『幸いなことに向こうはあなたを片翼と認識しています。手掛かりもない現状では、こちらから何か対策をすることは困難です。そのため、危険ではありますが、あなたは呪詛の相手の情報を少しでも引き出せるよう努力してください。夢の中であっても、あなたはあくまでも片翼として気丈に振る舞っていただけますよう、お願い申し上げます』
――それだけ?
とフィーネはレリファ=シシカに問い返したかった。だが、フィーネの役目は敵の目を引きつけて、本物の片翼を守ることだ。敵の正体はわからないし、どうやって立ち向かえば良いのかはわからない。けれども、レリファ=シシカから夜明真珠さえ身につけていれば命を落とすことはない、と保証されたことだけは、フィーネにとって救いだった。その事実さえあればなんとかなるかもしれない。
――それでも……。
見えざる触れられぬ敵相手に対する不安は尽きず、フィーネは夜着の胸元を思わず手で握り締めた。
果たして片翼の身代わりなど自分に務まるのだろうか。
「夜風は良いですね。昼の暑さで火照った身体を冷ましてくれます」
「……そうだね」
フィーネは隣で夕涼みするヒレナを横目で見た。風呂上がりの彼女は洗い立ての濡れた髪を風にそよがせていた。
背中まである栗色の髪をまっすぐに下ろした彼女の横顔は三日月のように美しい。伏し目がちな二重瞼から長い睫毛が伸びて、同性のフィーネも思わずどきりとしてしまうほど艶やかに見えた。
ヒレナはもう二十歳だ。故郷では、結婚して家庭を持っている女性も少なくない年頃である。それなのに、彼女はそうすることなくフィーネの侍女という立場にいる。
彼女は凛として美しく、故郷でもしばしばよい縁談が舞い込んだ。だが、彼女はことごとく断ってしまった。余計なお世話かもしれないが、彼女の幸福な暮らしを応援していたフィーネは、もったいなく思えた。しかし、彼女が結婚しないのには訳があることも知っていたし、無理強いはしてはならないことだとも思っていた。




